「山田玲司のヤングサンデー」と言うのが無料分ですがyoutubeにも出て来ます。
ここでルドガー・ブレグマン著「HumanKind 希望の歴史」と言う本の事を言ってました。
結構売れてる本だそうです。しかもアマゾンで高評価です。
人は元来「善」ではないのか? と言う本だそうです。性善説ですね。
だとしたら、大丈夫ですかね? 皆疲れてますね。
まず私はこの本を読んでません。
「ヤングサンデー」の方も無料分だけしか見てません。
それで感想を言います。その程度でも良ければ見て下さい。
まず前提として。
アマゾンの評価で「この著者とジャレドさんとハラリさんは裏を取ってないので科学的ではない」と言うような事が書いてありました。たぶんそうでしょう。
ただそれでも価値はあると思います。聞きかじったものも含めた知識から「こうじゃ無いのか?」と予測を立てる人も必要だと思うからです。
それでこれを信じる人も疑う人も、どちらであっても気になる他の専門家が裏を取っていけば良いのです。
つまり科学ではなく、予測です。私も予測ばかり言うからか、これも必要だと思っています。
それに「この人らはたぶん多くは予測を言ってるだろう」とは読んでる人も分かってはいないのかな? と思います。あくまで予測が多いと分かっていれば、読んで良いと思います。
それに科学的に論文を持ってきたとしても、それがどの程度の信憑性があるのかは謎です。
例えば「社会主義」と「民主主義」そのどちらも素晴らしいと言う論文は腐るほどある事でしょう。
だから自分に都合のいい論文を持ってくれば、一般人向けの本なら誤魔化せます。だから一般書であまり科学的な論文を持ってきても、意味が少ない気もします。
だからこの本はあくまで「著者がそう思った事」だと思い読むべきですね。
次に山田さんについて。
この人の言ってる事の9割は自分と同じだと思ってました。
しかし最近は「どうかな?」と思えてきてました。
それで今回のこの回を見て「この人は自分の見たい方、信じたい方に、思ったより流されるタイプだな」と分かりました。良い事では無いですね。
もちろん多かれ少なかれ人は自分の意見に合うように物事を見ます。
だからしょうがないのですが、それが多くなると現実が見えなくなる。リアルな世界が見えなくなります。
ちょっと今回は自分の感情に流され過ぎて、事実が見えてない気がしました。
性善説を信じたくて、全てその方向に合うように考えているようでしたね。
嫌な事実も認めないと何も分かりません。
見たくない現実を見ないと、人は前には進めないのです。
まずはヤングサンデーで言ってた、この本の内容に対する細かな反論です。
「スタンフォードの監獄実験」の事を言ってました。有名な実験ですね。
「学生をランダムに看守役と囚人役に分けると、看守役は段々横柄になり、囚人役は段々卑屈になる」と言うような実験でしたね。
しかしこの実験をやった人は演出をしてたようです。だから嘘だと言うのです。
ただそうであっても、私はこの実験を聞いた時から「状況で変わるので、そのような状況になるように私たちが知らない裏設定はあるだろう」とは思ってました。
このような実験は細かな状態で結果は変わるのだから、何か演出があっても「そりゃそうだ」と言う事です。それが思ったより露骨だっただけですね。
私が気になった事は「この昔の実験を皆が信じて来た」と言う事です。
山田さんは「長く皆は騙され流されてきた」と言いたいそうでしたが、そうでしょうか?
皆そこまで馬鹿ではない。
昔の実験なので長く多くの人が信じて来たのは「そう言う事もあるだろうと、多く人が思えた」と言う事です。
これが数年前なら「一時期流行りで信じていた」と言う事もあるのだが、昔なら流行りではない。
皆人生経験があるのだから、ある程度はこの様な一般的な状況は予測できる。
囚人と看守が一般的か? と言いたいだろうけど「偉い人と弱い人」はどこでもあり、それらを見て来たはずです。
その見て来た経験から「この様な事もあるだろう」と多くの人が思ってきたと言う事は「人生で見て来た中で、この様な事もあった」と言う事です。
つまりこの「多くの人が長く信じて来れた」と言う事実の方が大事なのです。
「ハエの王」の事も言ってましたね。有名な本なのですね。あらすじは知ってました。
「島に流された子供たちが、しまいに殺し合ったりする」と言う話です。フィクションです。
しかし、事実としてあった事として、無人島に流された六人の少年達がいて、その子たちは助け合い生き延びた、と言ってました。
でもね。六人ですからね。顔も知ってる身近な六人の友達なら、助け合って生き延びる事も想像できますよね?
しかし六十人ならどうなっていたか? よく知らない奴も出て来る。危ない奴も混ざって来る。食べ物が多い時もあるが、足りない時も出て来るでしょう。
数年間、無人島で六十人全て生き延びる事は難しいですよね?
だから「六人は参考にならないな」と言うのが私の感想です。
戦争中の銃の話もしてました。まだ弾を込めて一発撃つ事しか出来ない銃の時の話だそうです。
戦闘後「この銃を調べてみたら弾が銃に残っていた方が多かった」と言ってました。だから「人に向かい撃てなかった人が多かった」と言ってました。マジですか?
自分だと思い想像してください。
銃を撃つ。そして弾を込めます。また銃を撃つ。そしてまた弾を込めます。
そうして行って、どこかで戦闘が終わる。終わった銃には弾は残りますよね? 銃をカラのまま戦闘をするバカはいない。撃てるように弾を込めて待っていて、その最中のどこかで戦闘が終わるのだから、弾は残るのが当たり前です。
ただ銃でも敵に向かい撃てるか? と言う時に「撃てない」と言う気持ちは理解出来ます。ただ始めだけです。すぐなれてバカスカぶっぱなすようになるのです。
撃たなければ自分が撃たれる。自分が撃たれなければ仲間が撃たれ、目の前で倒れる。それを見たら撃ち返すのが人です。それでも撃ち返さない奴の方がまれですよ。
ちなみに昔の槍とかの方が、人を殺せない人が多かったでしょうね。
だから銃になって皆が人を殺せるようになったのです。それが銃の怖さでもありますね。一般兵の人を殺す恐怖心が少なくなるのが銃です。
さて、本の中身「性善説」に付いてです。
この事は少し前に、たまたまこのブログで書きました。そちらを読んでください。
それ以外の事として、補足を載せておきます。
まず前提として。
人はそんなに馬鹿ではない。
普遍的な問題は昔から長年考えられてきました。
それなのに未だに一つの答えが出てない問題はなんなのか? と言う事です。
それは「一つの答えなんかない」可能性が高いのです。
もちろん数学の問題等では、答えがあるのにいつまでも答えが出ない物もありますが、これらの哲学的な問題はそこまで複雑とは思えません。もちろん私の感想なので、ここは特に疑ってもらって結構です。
次に、そもそも「人は善か悪か?」と考える事自体、意味が無いものですね。
それは人の要素の中から人が勝手に善と悪に分けたからです。
まずは人がいた。その人の要素を二つに分類した。なので、人の世にはどっちもあるのが普通です。
そして分類する時、人は何を善と定め、何を悪と定めたのか? が大事です。
私が思うに、そもそもは「平穏な時に人がやるべき事」を善と定め、「平穏な時にやってはダメな事」を悪と定めた、と思っています。
戦闘中とか飢餓で死にそうな時とかは、人生の全体からとしたらあまり無いものです。人生の十分の一でもこれがあれば、その種族は危険ですね。滅ぶ可能性がある。
だから多くの時間が「平穏な時」なのです。
人は群れて暮らす動物です。だから、多くの時間何をやるかは定める必要がある。イレギュラーな時は定めなくても良い。
「横断歩道の信号は守りましょう」と言うのは平時の定めです。しかし後ろから津波が来てる時に信号を守ってるやつはいない。そう言う事です。
「平時の時に守るべき事」が善ですね。
しかし平時じゃ無い時があります。戦争とか飢餓です。この時に「平時の時に守る掟」である善を通した種族は滅んだ事でしょう。
例えば、戦争が起こったのに「人は殺さず傷付けず」としている種族は亡ぶのです。飢餓の時も自分だけ床下に食べ物を隠し持っていて、誰にもあげないでいた奴らが生き残ったりします。
つまり普段は善を通し、一時期のイレギュラーな時は善を通さない人が生き残る。
だからその遺伝子が残り、善と悪がいつまでたっても両方あるのです。
人の本質を考える時大事なのは「人は動物である」と言う事です。
そして今より動物らしかった時、つまり裸で野原をかけていた時か、もう少し経って何かを体に巻く位の服をきて棒の先に石でも付けて持っていた時に持っていた遺伝子を、今でも持っているのです。この頃の人の赤ん坊を今の時代に連れてきて育てても、今の人と区別はつかなくなる事でしょう。
なので、もっと動物らしかった時に合うように進化したのが人です。そしてその後はあまり進化はしてない、つまり遺伝的にはあまり変わってないと言う事です。
今ある人の要素は、この頃「ほぼ裸で野原をかけ回ってた頃に、必要だった要素」だと言う事です。
だからこの頃、何が人には必要だったのか? を考える事が必要です。
人は群れる動物です。アフリカとか南米で昔からの暮らしをしてる人もそうなので、間違いは無い事でしょう。
群れるのでルールは必要です。長い期間ある平時では、どの村でもルールは何かしらあった事でしょう。例えば「人を殺してはいけない」等です。
平時に人を殺す仲間は邪魔です。多くの人が安心して暮らせない。だから平時からすぐ人を殺す奴は追放されるか殺された事でしょう。だから遺伝子が残らない。
しかし戦争が起きる。この時は他人を傷つけ殺さないといけなかった事でしょう。そうじゃないと自分も仲間も殺され遺伝子が残らない。
ちなみに例えば飢餓が起き、腹がすき死にそうな時どうしたか? 隣の村を襲ったやつもいた事でしょう。そして上手く行った奴は生き残った筈です。「それは良くない」とやらなかった部族は滅んだかもしれないと言う事です。
それが酷くなっていつも隣の村を襲う部族はどうなったのか? 人口がまだ多く無い時代は一時期戦争が上手く行ってもいつかは襲う奴らが居なくなる。その時襲う事しか能がない奴らもまた滅んだ事でしょう。もしくは周りの村が集まって、あいつらは危険だからまとまって滅ぼそう、となって滅ぼしたはずです。アメリカの西部劇なんかはそんな状態でしたね。力で何とかなる時代だが、結局襲うだけの集団は最後殺された、と言う事です。
それで結局どうなったのか? それこそ「自然選択」的に自然と良い割合に収まって行くのです。善をどの位持っていて、どの位悪を持っている人が生き残りやすいか? と言う事です。
ライオンはオスもメスも体が大きい。なぜならメスも餌をとるからです。
(修正、大きいと言っても雄雌の差で言ったら人と大して変わらなかったですね。ご免なさい。ライオンも群れる動物だし一夫多妻せいか、少数のオスと多数のメスとで群れになる動物だから、オスの方が大きいのですね。じゃあ猛禽類と言う事にして読んでください)
しかし人はメスは小さい。なぜならオスもメスも助け合って生きて行くからです。
しかも子供を妊娠してから、その子が独り立ちするまで、少なくとも10年はかかる。
だからオスとメスだけではなく、部族全体で助け合って生きて行く様に進化した筈ですし、実際そうなりました。
だから群れで暮らすのだが、群れだから分担すれば良く、一点に長けた人が生き残れる。
体が小さくてもすばしっこい、とか手先が器用、とか他の事が長けてればいいのです。ライオン等だとそうはいかないですね。皆それぞれの個体で餌をとる必要が出て来るからです。
だから人は多様性が許されるし、それが部族全体にとって長所にもなった筈です。
例えば、体は小さいが、器用で頭がよく武器を作るの上手かった仲間がいた、等の事です。
そして善と悪を持ってる人はほぼ皆なのだが、その中でも善が多い人と、悪が多い人もいた筈です。
助け合わない動物と違い、人には多様性が許される社会だからこそ、ある程度なら善悪に偏った人も残れたのです。
そして時には悪が多い人が生き残る。
例えば、ある村では食べ物を平等に分け与えてたとして、ちょっとした悪人はちょろまかし、一度一か所に集める所には持ってかないで、家の中に隠しておいたとする。その時飢餓が来れば、そいつの家族が生き残るのです。
こんな事はよくあった筈です。
だからある程度なら悪が多い人の遺伝子も、結構残るのです。これは結果からですが、今現在結構残ってるので、ちょっとした悪人が生き延びた時も多かった事でしょう。
「ちょっとした悪人」と言うのは、普通は犯罪を犯さない人の事です。もしくはちょろまかす程度で、もし見付かってもとても仲間に怒られる程度の事をする人達です。
単純なパラメーターを図で表し、右が善が高い人でプラスで表す、左が悪が高い人でマイナスで表したとします。
マイナス10まではちょっとした悪人で、マイナス11の人は平時でも悪い事をして、見付かれば牢屋にいれられる事をする人だとします。
縦のパラメーターが人の数とします。そうすれば帽子型の図形になる事は分かると思います。真ん中の人が多くなる筈ですね。
マイナス10でゼロになるような図だったらどうか? そうなるとマイナス9やマイナス8の人もかなり少なくなる事でしょう。
しかし自然淘汰として出た結果が、マイナス10の人もそれなりにいて、マイナス9の人ももう少し多く、マイナス8の人はそこそこいる、という状況が一番多くの人が生き残る図だったらどうなるのか?
そうなれば、マイナス11の人も少数出てきて、マイナス12の人も何人かは出て来る。
つまり平時でも犯罪を犯す人が出て来ると言う事です。
マイナス11の人がいる事は、平時でも全体ではマイナスだった事でしょう。そして緊急時だとマイナス11以下の人が役立ったとしても、緊急時は少なく、平時は捕まるので、緊急時の時の為にマイナス11以下が存在するとは思えません。多くの時間邪魔な存在だからです。
だが、平時ではギリギリ大きな犯罪をしないマイナス10や、平時では犯罪をしないマイナス9の人が必要だったのかもしれない。この人らは平時でギリギリ邪魔にならず、緊急時に生き残る為には必要だったかもしれないのです。
そしてこのマイナス10の人がある程度必要なら、割合としてどうしてもマイナス11の人がある確率で出て来るのです。だから犯罪は今後も無くならないでしょう。
ちなみに犯罪をする遺伝子はたぶんないと思います。
ただ、サイコパスなどの人の痛みが分からない等の特徴は、遺伝子から多く出てきて、その結果として犯罪をしやすい人が出て来るのだと思います。
それと後天的な影響も大きいでしょう。つまり育ち方や親などで大きく変わった事でしょう。
ただこれも自然淘汰的にある数に落ち着きそうです。
他人の事など考えない事を教える親がいたとする。その子が生き残ったら、その子が親になったらまた子に、他人の事まど考えない教育をするのです。
そしてその教えが上手く行かなかったら、その子が死ぬ。それでこの教育方法は無くなる。
逆にそれで生き残るのなら、その教育方法も受け継がれていくのです。
だから後天的なものでも、自然淘汰的により、生き残りやすい割合に落ち着いて言った事でしょう。
そして悪だけではなく、善が強い人も亡くなった筈です。
仲間の為に命をかける奴は、長生きは出来ません。
だから強い善のみを持った遺伝子が多くなる事は無かったのです。
つまり生き残りやすい奴はどんな奴だったのか? を考えてみるべきです。
「平時は善を通し、時には悪に染まる人が多い部族が生き残った」と思えませんか?
そしてそもそもが平時の時すると良い事が「善」です。だから平時にしてはいけない事が「悪」なので、平時じゃない時にやるべき事「悪」も出来る人が生き残る、という当たり前な事なのです。
人が人を殺すと悪ですが、共食いをする生き物だっているでしょ? 彼らは悪ですか? だからそもそも人が人を殺すのも、生き残るには仕方が無い時は悪い事では無かったのです。動物としては。
しかしいつの間にか「善とは、いつでもしなければならない事だ」と言う教えが出て来ました。
これは動物としたら間違いです。
そしてそれがいつも正しいと思ってる人は、勘違いです。
しかもこれは「人々を手なずける為に、こう言い始めた」事でもあります。
善は素晴らし事であるのでしょうが、いつもやり通すと生き残れない物でもあります。
ただ今後の世界では、生き残るのか? 善を通すのか? は人だからこそ選べる事でもあるので、考えて選べばいいと思います。
さて話を戻し「HumanKind 希望の歴史」の事です。
希望はあります。人々は多く生き残る遺伝子や文化を、自然淘汰的に得て来たのです。
だから今の世みたく、結構幸せに生き残れる方向に、少しずつですが向かってますね。
100年前より、全世界で言えば良くなってると思います。
怖いのは少しの間の、しかも少数の人の暴挙です。
それが大きくなり戦争になって多くの人が死んだりします。これも人です。
ただ戦争も長くは続かない。どこかで終わり、皆戦争はもう嫌だと分かるものですね。
だから人の歴史規模で見ると、たまに大きく人々が死ぬ事があるけど、長く見ると皆が幸せになる事を目指すので、まあいい具合だな、と言う事です。
しかしそれが現在は通らなくなってきました。核爆弾ですね。そして未来に置いたらAIの暴走などです。
これらは人が力を得た為に、人類の脅威になった物です。
いままでは、人々が一瞬おかしくなっても、少数がおかしくなっても人類を滅ぼす事は出来なかった。
しかし力を得たからこそ、その一瞬や少数が人類を滅ぼしかねなくなりました。
宇宙に人が暮らすようにならなければ、滅ぶ可能性はこれからもずっとあります。
だから注意が必要です。
これは人類の存続の問題です。
人は元来善なのか? 悪なのか? 等とまだ言ってるのですか?
今後大事なのは生存戦略ですよ。
生存出来るのか? 否か? が問われる時代だと言う事です。