号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

フロッピーディスクの中の夢

映画「ブルーベルベット」感想です。ネタバレです。

 

成り立ちが違うが、似て来る物がある。

似ていると言う事は、似ていると分かる要素がある。

分かる要素を特徴と言うのでしょう。

恐竜の時代、イルカみたいな形の動物がいたそうですね。イルカに似ているが、種は全然違う。ただ陸上の動物が海に帰って、進化し海に適したものが残ると形が似てくる。海で生きやすいと言う共通の理由で似ているのです。

 

この映画を見ていると何かに似ているな? と思った訳です。

そして気が付いたのが、昔の「アドベンチャーゲーム」に似ていると分かる。PC-88シリーズやPC-98シリーズの時代のパソコンのアドチャーゲームに似ています。

たぶん監督デヴィッド・リンチアドベンチャーゲームを意識してはいないでしょう。たまたま似たのです。

ではなぜ似て来るのか? を探ると、映画の要素が見え、特徴が見えてきます。

 

始まりの方で、主人公と刑事が家の部屋で話します。なんでこんな狭いのだろう? と思いました。日本のウサギ小屋じゃないのだから、机周りが狭すぎる。

今の映画ならもっと部屋の広さを取り、もっと遠くから部屋を見渡し、近づいて二人で話しますね。

昔のアドベンチャーゲームでは、こう言う狭い感じの絵が多くあります。なぜか? それは少ない絵で物語を作るからです。だから一枚絵で多くを説明しようとする。フロッピーディスクの容量の問題と、絵を書くお金の問題ですね。

(話はおもいっきりずれますが、記憶にあるのは5インチFDです。黒くてペラペラしていて自重でたわむあれです。多くの人はもう知らないでしょうけど、技術も容量も丈夫さも無かったですが、夢と希望と作り手のやる気は詰まってましたね)

絵に出て来るキャラの大きさが必要です。小さすぎると誰が何を話してるのか分かりませんからね。だとキャラに寄った絵になる訳ですが、その周りの説明もその絵の中に入れなければならず、そうなると周りの机とか小物などの物が、キャラの周りに集まった絵になりがちなのです。部屋の中等の細かなものが多い絵は特にです。

ブルーベルベットでもそうでうね。それはなぜか? これも単純にお金の問題もありそうです。安く作ったそうなので、一枚絵にして動きもしないで、キャラも説明も入れた絵作りをしたのかもしれませんね。

この他のシーンも、どうも説明口調の絵が多いですね。臨場感などは無視します。これは何なのだろうと思っていました。お金もあるでしょうが、お金以外の理由もあるとしたら、どこから来るのか?

始めは演劇かと思いました。劇をやっているのをそのまま映像化するとこんな絵作りになりそうです。アップにしないで、遠近感も出さず、頭から足まで映す絵などです。

そもそも昔の映画はこんな絵作りが多かったように思えます。これも始めは映画より演劇の方が先にあったので、それをまねて映像化したからかと思います。

しかしデヴィッド・リンチは美術学校で絵画を学んでいたようですね。だとすれば影響が大きいのはこっちの方ですね。

絵画は詳しくないので、その程度と思って聞いてください。

絵画も一枚絵で全てを描きますね。当たり前なわけですが、それで言いたい事や、状況説明、暗喩も全て入れてきます。だからこの映画の絵作りを絵画と思って見れば、大体成り立つような物ばかりでしたね。多くの絵が、一枚絵で完結するのです。

押井守さんが映画の事を言う本の中で「白塗り化粧をした男がいきなり歌いだす。変な場面だけど何で説得力があるのだろう?」と言ってました。ここも動く絵画として見ればそう見えませんか? 絵画では一場面では普通は見えない、伝えられないものを一枚絵の中に象徴的に凝縮する。そういう作りだと、一瞬こんな訳の分からないシーンになりそうです。

一枚で全て見せようとする。それで結果、アドベンチャーゲームと絵画が似てくるのです。面白いですね。

 

物語の作り方もです。これもアドベンチャーゲームそのものです。

シーンごとに刺激的な、魅力的なものを入れてくる。次のシーンに繋がり飽きない様な作りです。

ゲームでは飽きるとそこで止めてしまいます。だからシーン事に何かしら次に興味をもたらす物がなければならない。

映画ではほとんどの人は最後まで見てくれるのだから、最後まで見て面白ければいい。つまりもっと長いスパンで内容を考えられる。ドラマもそうです。30分や一時間ならその中で面白ければよく、最後に次を見たくなればいい。ただゲームはもっと短いスパン、シーンで面白要素を入れる必要があります。

この映画では特に初めの方はゲーム的ですね。耳を拾い、まずは興味をもたらす。その後警官に言うと若い娘が情報を教えてくれる。事件に興味があるのと、娘に興味があるので事件の捜査をする。そして変装して部屋に入り鍵を拾う。この鍵が吊ってあるシーンとかゲームそのものですね。そんな所に鍵は無いだろと思うし、鍵等の必要アイテムを拾うのもゲームっぽい。その後忍び込む。アイテムである子供の帽子が見付かる。これもアイテムだけの絵が入りゲームっぽい。そして家の人が帰ってきてしまうのでクローゼットに隠れ見ている。見ていると椅子の下に写真が隠されているのが分かり……と言う風にとてもゲームっぽいですね。

なぜゲームっぽくなるのか?

押井守さんが本の中で『リンチはインタビューで「俺もスピルバーグも一緒だ。自分が見たいものを作ってるだけだ。なのに向こうは100倍客がいる。なぜだ?」とスピルバーグと比べ怒ってる時点で変じゃん?』と言ってました。

ここでリンチがスピルバーグと比べてる所が大事ですね。つまり「客が見たくなるような、興味を引くような物をちゃんと描いている」と言いたいのでしょう。

その通りです。ちゃんと客が興味をひくものを考えて作っている。だからゲームと似てくるのです。

アクションとか特撮とかカーチェイス等はしないで面白要素を考えると、出来る事がアドベンチャーゲームに似てくるのです。

それと同時に、この当時はリンチの物語作りが不慣れなのも出てますね。昔の半分素人が作ったようなゲームでは「これをやって、じゃあこれをやって、そうしたらこうした方が良いかな?」と場当たり的な感じが多い。これもまた、ゲームに似た理由なのでしょう。

 

押井さんが言うには、このブルーベルベットの後は、整合性が取れてない良く分からないものになっていくようです。しかしこの時はまだ、まともにまじめに、客の心に沿った物語を作ろうとしてたのでしょう。

私はこのブルーベルベットを見て思ったのは「なんだ、まともな監督じゃないか」と言う事です。どこもおかしくはない。

その後の作品は見て無いので分かりませんけど、でも客の興味をそそる事に特化した物語なのかもしれませんね? 整合性はあきらめて、もしくはあきて、魅力ある絵画を並べていくような作品になっていくのでしょうかね?