号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

月と太陽

アニメ映画「かぐや姫の物語」感想です。ネタバレです。

 

ジブリ制作の高畑勲監督作品ですね。なので普通に見たらあまり面白くはない作品です。

考えて見て面白さが分かる作品です。考えさせる、それが狙いですね。

私は「火垂るの墓」が嫌いでした。少年の行動が気に入らず、だから何を言いたい作品か分からなったからです。

しかし最近高畑さんが「少年の行動が正しかったかも含め考えてもらいたい作品」と言ってた文を見たので「それなら分かる作品だな」と思いました。

ただそうなると全てが信じられない物語になります。キャラの言ってる事や行動が正しくても良く、間違ってても良い事になるからです。

現実では正しい事も間違った事も一緒くたにあり、それから正解を自分で見つけるものです。だから現実に沿っているし、それをするべきなのは分かります。

しかしそれを物語でやるには、いくら何でもまかせっきりな気がします。だからヒント位は置いて行くべきです。じゃないとわざわざフィクションの物語として作る理由が薄くなるからです。ヒントもなく正しくても間違ってても良い作品なら、別に内容は何でもいいじゃないですか?

この「かぐや姫の物語」でも全ての行動が正しい訳ではなかったですね。むしろ正しくない行動のオンパレードな作品でした。

しかしこの作品は結構ヒントがあった気がします。流石に「火垂るの墓」より後の作品だからこなれているのでしょう。

しかしそれでも分かりずらい作品でしたけどね。

 

火垂るの墓よりこなれている、と言いました。つまり火垂るの墓は完璧な作品ではないと言う事です。もっと後に高畑さんがやったなら、細かな内容は変わってくる筈です。

その他の事として「思い出ぽろぽろ」の時に背景をリアルに細かく描いたけど「書き込み過ぎだったな」と後で思ったようです。そしてかぐや姫の物語ではおさえたのでしょう。書き込めば良いってものじゃないと言う事です。

細田守監督がアニメ映画「時をかける少女」を作った後で高畑さんに「背景書き込みすぎ」と言われ「くそー」と思ったと言ってました。しかしこれは自分自身が「思い出ぽろぽろ」で失敗したと思った事を言ったのかもしれませんね。

細田守さんは「高畑勲展」で、このコメントの他にも色々言ってました。ほとんど褒める言葉でしたが、一つ気に入らない事があると言ってました。それは「絵を動かしてしまう」と言う事です。

止まった一枚の絵として完成された絵を動かしてしまうのだと言う事です。花札の絵とかを動かすそうです。「あれは一枚絵で動いている様に見せてるから良いのだ。それを動かしたら意味が無い」みたいな事を細田さんは言っていました。そうだと思います。

しかし個人的には全否定では無いです。確かに元の良さが無くなります。完成した絵ほど壊してしまう事でしょう。しかし新たな良さが出るかもしれず、それならありかもしれません。

 

で、私が何を言いたいのか? です。

つまり高畑さんでも前の作品では完璧では無かったと言う事です。

今回絵が注目されました。手書きの線を生かした絵作りで動かすと言う無茶をしました。面白いですが、じゃあ成功したのか? と言うと違うと思います。

それはほぼ初めての事だからです(もっとライトな山田君があったにせよ)。そしてやはり失敗したのだと思っています。

細田さんが言った様に、止まった絵を動かしたい人なんでしょう。そしてそれが良いわけでは無いと言う事です。

私が見て思ったのは、それこそ絵本を動かしたのだな、と言う事です。だからこの映画を静止画で見ると、本当に味があり良いのに気づくわけです。

しかし動かすとどうでしょう? 埋もれてしまいますね。良さが埋もれて気にならなくなります。つまり必要だったのか? もしくはこの良さが出てたのか? と言うと疑問です。

たぶん何かが足りなかったのでしょう。線をもっと粗くするか? もっと全体を動かさないようにするか? それは私には分かりませんが、しかし上手くはいかなかったのです。

これは挑戦でもあるので、その後の人がこれを踏まえて良くしていけば良いのは分かります。それは高畑さん自身も分かってたのでは無いでしょうか?

しかしです。誰がこれと同じ作りのアニメを今後作れると言うのでしょう? 金銭的にです。だから無理な話ですね。

 

これはアメリカの月面着陸の様な作品ですね。これが役立つには早すぎたのです。

しかし未来と希望と挑戦は残しました。

いつの日か、アメリカがもう一度月に降り立つのでしょう。そしてそれが役に立つ日が来るのでしょう。

その位未来において、かぐや姫の物語の絵作りが、役に立つ日が来るのかもしれません。

 

さて、話は綺麗におさまったと思いますが、まだまだ続きます。

 

YouTubeで検索したら宇多丸さんと岡田斗司夫さんの考察、感想が出てきました。

岡田さんはジブリ関係を細かく考察するのはぴか一ですね。無料部分しか見てませんけど、分からなかった謎の答えが見えた気がしたので良かったです。カエルの話とか蝶の話です。後は男どもが馬鹿なんかでは無く、姫の魅力(魔力)にかかっているのだと言ってました。なるほどですね。

面白いのは、不思議な女が出てきて、魅力的で魔力をもっている事です。

 

宇多丸さんの方も良かったです。この映画の良さが伝わった気がします。

しかしこの映画をここまで肯定できる人が、なんで映画「スカイクロラ」はあんなに否定的なのでしょう? じつは似てる作品だと思います。

スカイクロラは2008年なので、宇多丸さんが今見たら感想が変わってるかもしれませんけどね。

 

そして「風立ちぬ」です。宮崎駿作品ですね。同じ2013年公開です。

これにも女が出てきます。堀越の奥さんです。この人も魅力的な魔女ですね。

これも岡田さんが言ってたので分かったのですが、この奥さんは魔女ですね。森の入り口に傘を置いて堀越を誘い込む。そして森の奥の水が出て来る神秘的な場所で祈ってるのです。そして堀越が気に入っていた侍女の女は結婚したとわざわざ言って、堀越の気持を切ろうとするのです。

これは宮崎さんが暗喩を含め、この奥さんは魔女だと言っているのでしょう。

この奥さんが病院から堀越の所に出て来る。その時堀越は煙草を吸っている。「なんて奥さんの病気の事を考えない自分勝手な奴だ」と言われてるようです。しかし奥さん結核ですよね? うつりますよね?

この奥さんは人の話を聞かず行動する人です。つまりこの人もサイコパスな人なのです。そして魔女です。これは何を言いたいのか?

「魔女で思うがままに生きているのだから、自分の方も好きに生きてもいいだろ?」と言う言い訳です。宮崎さんは「同じだろ」と言いたいのです。

確かにそうです。自分勝手なサイコパスは男だけではない。

それと同時に、こういう奥さんは、こういう男にあっているです。同じレベルで対等に渡り合って生きて行けるからです。だから自分勝手な生き方の男は、こういう女を選びましょうね。そうすれば皆不幸では無くなるからです。人には良い悪いの他に、相性があるのです。

しかし宮崎さんの言い訳ですね。だから私は気にいらない話なのですけどね。話全部が言い訳だからです。

 

話を戻し。

風立ちぬ」も「かぐや姫の物語」も「スカイクロラ」も不思議で魅力的な女が出てくる話なのです。なぜか?

それはこの三作品とも言いたい事は、伝えたい事は「生き方」なのです。

「どう生きるのが大事なのか?」を説いた話なのです。

歳をとって似てくる三人なのが面白く、最後行き着くのもこの方面なのだな、と思いました。

そして生き方として大事なのが「女」だと言う事です。

なぜ女なのか?

一つは、男にとって女がいないと家族が出来ないからです。

かぐや姫の方は「女にとって男が大事だ。なぜなら家族だ出来ないから」と逆説的に取ってもいいですが、同じ事です。

つまり結局人の人生にとって家族が大事だと言う事です。

そして女問題は年が関係ないからです。年寄りでも若者でもある問題で、年寄りでも感覚的に分かる問題だからです。

年を取ると、冒険とか成功とか金とかに興味が無くなってきます。興味が無いと感覚的に分からなくなってくるのです。だから年をとっても分かる内容で、若者にも通じるものが女問題なのです。

実は年寄で気になる問題もあります。健康です。しかし若者には響かないので物語にしないのです。

孫問題もそうです。食べ物が大事だ問題も今の若者には興味が無い話で、物語としては使いにくい物なのです。

そして面白いのは、やはりアニメを見ている人の事を意識していると思います。

それは自分も含め、アニメ業界にいる人も見たりして、何か感じているのでしょう。

つまり男が女を好きになり、嫁にして子供を作れよ。それが自然であり人として大事な事だ。と言っていると思います。

アニメを見ている人に対してのメッセージです。アニメや二次元に溺れるな、大事なのは結局家族で男には女だ、と言っているのだと思います。

これは富野さんもそうですね(映画版Zガンダムのラストです)。そしてイクニさんもそうです(ピンドラです。ユリ熊、さらざんまいは同性でも家族になれるのだ、と言う話で一歩先に行ってましたが)。皆が大事な問題で基本の問題が、結局異性問題だと行き着くのです。

そして二次元を魅力的に描くこの人達だからこそ、実際の異性が大事だと言う話に行き着くのでしょう(もしくは同性でもよく、正確には配偶者ですが)。

 

スカイクロラ」は生き方の話です。納得した生き方ならいいじゃないか? と言う物語です。

逆に「納得した生き方をしろ」と言う事でもあります。

人は流されしょうがなく生きて行くこともあります。いや、多かれ少なかれ流されて生きて行かなければいけません。その中で生きる内容では無く、自分に何が大事なのかを考えて、納得した人生を送れればいい、と言う物語です。

 

風立ちぬ」も自分が納得して、周りの人も納得したらいいじゃないかと言う物語です。奥さんも納得した充実した人生だからいいじゃないか? と言う物語です。戦闘機だって誰かが必要として作らないといけないのでいいじゃないか? と言う話です。合っていますけど、言い訳がましく嫌いです。

 

かぐや姫の物語」は失敗した人生です。「こうはなるな」と言う話です。

かぐや姫の失敗した人生から、見ている人が考えて「見ている人は間違えるな」と言う話です。だから辛い話ですね。

この作りは「ウテナ」もそうですね。漫画家の山田さんが言ってました「ウテナは見ている人の代わりに失敗して、見ている人は間違えるなと言う話だ」と。これは同じですね。だからウテナも好きにはなれませんけど、イクニさんはここのレベルに行きつくのが早い人でしたね。

 

かぐや姫を作っている時のドキュメンタリーを見たのですが、この時高畑さんが「救いのない話だね。だからせめて最後の歌で救ってもらおう」と言うような事を言ってました。つまり分かっているのですね。辛い話だなと。

監督が言った事が正解だと受け取る事も無いのですが、ここで高畑さんが思ってた事を言ってました。かぐや姫の物語の月に帰るとは何かを。

やはり「死」なのですね。

最後、仏のような人が迎えに来る絵は、阿弥陀来迎図そのものだと宇多丸さんも言ってました。高畑さん自身も言ってたそうです。

お迎えは、かぐや姫の話など何も聞かず、連れて行ってしまいます。それは死だからですね。死は誰の話も聞かず、容赦なく人を連れて行ってしまいます。それを表してましたね。

死んだ者でいい人は浄土に連れていかれるそうです。そこは苦しみも何もない世界です。

高畑さんはこれの否定に出ましたね。何もない浄土など何が良いのかと。それはやはり「死」ではないか、記憶もない苦しみもない何もない世界、それは「無」では無いのかと。

やはり生きているこの世界が素晴らしい。

あの世など、それが極楽浄土でも何も良くない。

この未熟で不完全な世界を謳歌してこそ人生だ。それが素晴らしいのだ、と言う物語です。

かぐや姫はこの世界を、人生を謳歌出来なかったのです。そして死んでしまった。

例え短い人生だったとしても、後悔の無い生き方さえ出来ていれば、と言う物語です。

そしてそこには生きて行く基本、配偶者が大事だと言う話です。

それも含めての生き方の話でした。

 

さて、細かな事について。

キャッチコピーが「姫の犯した罪と罰」とありました。

何かぞくっぽいなと思ったんだよね、鈴木さんが勝手に付けたんじゃいのかな? と思っていたら、本当にそうでしたね。

高畑さんはこのキャッチコピーは嫌がったそうですね。「キャッチコピーとしては皆の興味を引くからいいだろうけど」と言ってたそうです。

私もそう思いました。そして物語には合ってない気がしました。だから考えるだけ無駄なので、罪と罰は考えない事にします。

 

最後空を飛びますね。これも違和感がありました。

しかしドキュメンタリーを見ると、ここが大事だと言う事で、高畑さんはかなり力を入れた所だそうです。

ここは生の喜びを表す所だとかなんだとか言ってたと思います。

しかし私が思ったのは違います。これは間違ってるかもしれないのと、合ってても、そして高畑さんが生きてて聞いても「違う」と言いそうですが、言います。

これは高畑さんの「ジブリありがとう」では無いのか? そして「宮崎駿ありがとう」でもある気がします。

私はとても宮崎駿っぽいと思ったんだよね。そしてジブリっぽい。

ドキュメンタリーで音楽の久石さんが「高畑さんの体を心配してた」と言ってたのが印象的でした。亡くなるまで五年はあるので、この時体が悪かったかは謎ですが、他人が見て体調が悪く見えたのは確かでしょう。そして年齢も考えると、これからどの位生きるかは考えた筈です。

だからもしかしたら最後かもしれないと思い、この飛翔シーンを入れた気がします。太陽に向かい飛んだのでしょう。そして月に見つかり落ちたのです。

ちなみに「風立ちぬ」の方は高畑さんっぽいな、と思ったんだよね。こっちは宮崎駿さんの「高畑さんありがとう」も含まれていたのかな? と勘ぐってしましました。

 

さてさて。もっとどうでもいい話です。

2011年にまどマギテレビ版です。これはまどかが象徴的に月なり、神のような完璧で崇高であるが人としては無になる話です。

もしここで終わっていたら、このかぐや姫の物語と比べ「どっちが正しく、どっちが人の話であるか?」とこのブログで書いたはずです。まどマギの作りの間違いに気が付いているのが高畑さんだからです。

しかし叛逆で勝手に気が付き直しますね。それが2013年です。かぐや姫より前の公開ですね。

かぐや姫が制作に8年かかったそうです。

その間に間違ったまどマギが生まれ、それが勝手に治る訳です。これが若さであり早さですね。

2008年に「ポニョ」で「スカイクロラ」です。スカイクロラ公開の前にはもうかぐや姫も作り始めてたのです。そして同じような人生の話を先にやられてしまう。

「ポニョ」の後に「風立ちぬ」です。宮崎さんも8年の間に、子供向けを作っていてその後人生の話を作り始め、かぐや姫より先に公開です。

どんだけ遅いんだよ! と言う話です。

皆追いついて先に行ってしまうじゃないですか。

やっぱり時間って大事ですね。いくら何でも8年はかかり過ぎてる。そして50億もかかり過ぎてる。

しかもそれで時間がかかったこの手書きのような絵も、成功では無い。

では失敗か? 失敗じゃないのかな?

でも高畑さんのこの生き方好きなんですよね。

皆好きなんでしょう。

だからこんなのを作らしてもらえてしまうのです。

これが生きざまですね。

宮崎さんはこの生き方にもあこがれた。だから最後だと思い「風立ちぬ」を描いた。

でも宮崎さんは高畑さんではない。ああはなれない。なる必要もない。

やはり高畑さんは月で、宮崎さんは太陽だと思います。違う良さがあるのです。

太陽は太陽としての生きざまを見せてほしいわけです。

 

かぐや姫の物語」は生き方の話です。

帝の嫁になり「私は幸せだ」と思い生きて死んでいく女もいる。沢山いたでしょう。それでいいのです。

しかしかぐや姫は違った。違う生き方が幸せなのもいるのです。

それぞれの幸せがある。生き方がある。間違えるなと言う話です。

そして死ぬ瞬間まで、後悔しない生き方を選べと言う話です。

この高畑さんのメッセージが皆に、そして宮崎駿さんに届いた事を願っています。