純文学ってなんだろう?
アニメ映画「かがみの孤城」、結構前に見ました。
感想などを書きますが、今まで書かなかったのは、大して言う事も無かったからです。
ただ、言う事が無い事と、否定的なのは違う事は、言っておきます。
まず、漠然とした感想で頭に浮かんだのが「やはり純文学っていいよな」って事です。
この物語は、物語の基本がちゃんと出来上がってました。
物語の基本の良さとは、まさしく基本なので、その大事さにあらためて気が付かされました。
純文学とは何か? と考える前に、この映画の感想をザっと言っておきます。
正直微妙です。
いや、悪くはない。しかしそれほどでもない。
演出も、流れも、絵も、今後長年心に残るか? って言われたら微妙です。
物語自体も、どっちか言うと、ありきたりです。
ミステリーも、ゲーム要素(何時に帰らなければならない等のルール)も、トリックも、驚くほどの物は無い。
なので、心に残るか? と言われたら、やはり、微妙です。
ただ、私は微妙であっても、良くある話であっても、及第点をちゃんとやって来る話が好きです。好感が持てます。
天才的な物は、皆が出せる物では無い。天才であっても、いつも出せる物でもない。
その中で、努力から出せる及第点を出して構築する事が、大事なのです。
「天才になれ」と言うのは、話しても無駄です。言ってなれるものでは無い。
だから「やるべき事を頭で考えて、努力するべきだ」と思っているのです。
このブログで言ってる事はそう言う事です(何様だ、と言うのはもっともですが、あくまで参考にしてくれと思っているのです)。
ちなみに、天才にはなれないけど、天才的な何かに近づく方法はあるのかな? と思っています。
物語で言えば、物語以外から参考にしようと努力する、などの事です。
アニメを作るのにアニメばかりを見ていても、見て来たアニメを超える事はまず無いでしょう。
話はアニメ映画に戻り、この話は小説原作ですね。辻村深月さんだそうです。
私は、現在の日本の作家などほぼ知らないのですが、それでも聞いた事がある名前でした。
Wikiによると、直木賞作家であり、この話自体も本屋大賞だそうですね。なるほどです。基本が良く出来てる訳ですね。
つまり、物語の基本が出来てる人の作品です。
それの言い方を変えれば、純文学的な要素を、高レベルで既に持っている人の作品だ、と言う事です。
そう言う制作の基本が出来ている人の話が元なので、基本がとても良く出来てる。
それで比べて思ったのが「他の多くのアニメは、物語の基本すら出来ていない」と言う事です。この様な本物と比べたら、他の基本すら出来てないのが偽物だとはっきり分かります。
やはりアニメ作家は基本から学び直すべきだと、つくづく思います。漫画家もそうです。
庵野さんが「このままだと、アニメは滅ぶ」と言ったのが、とても良く分かります。確かにこの雑な感じのままだと、滅ぶ事でしょう(いや滅ばない、と言う人がいます。何をもって滅んだと言うのか? はありますが、すたれていく事は間違いが無いのです)。
ちなみに私は純文学は好きでも何でもないです。そう言う作品を見たりもしない。
だから、ただ私が好きだから言っているのでは無いのです。私だって大衆芸能、大衆演劇が好きだからです。
単純な面白要素として、純文学的な要素が必要であり、今アニメに足りない物はこれだ、と言っているのです。
ちなみにこの「かがみの孤城」、たぶん小説の方が良さそうです。
世の中、小説とアニメでは出来る内容が違う事が、分かって無い人が多すぎます。
小説の長さがあり、深く描ける事。それに小説の方が、よりおかしさに誤魔化しがきくので、この内容だと小説の方が良いのです。
まず単純な長さの話です。
アニメ映画では長さが足りないから、個々の話に深みが無いのですが、これはしょうがない。映画なのでこれ以上は長くは出来ない。
では連載物だったらどうか? それでも駄目でしょう。
連載物でこの内容だと、長すぎる。たぶん見てられない人が多くなる。
これで連載物にするのなら、もっと多くの客に対するサービス要素が必要になってくるのです。単純な面白要素を加える必要がある。
それを加えるには、原作者の許しか、協力が必要であるし、そもそも大きく作り直す事になるので大変でもあるし、難しくもあるのです。なので実際問題、大体無理です。
次が、おかしな要素が、ノイズにならないで見れるのか? 問題です。
この話の最後もそうだし、死んだ者の希望が叶うとかもそうだが、都合が良すぎる等の事です。
もちろん、この不思議な鏡の世界自体の事も、不自然に不思議です。
これら不自然さはノイズになりやすい。ちょっと乗りにくくする作りです。
実写映像よりアニメの方が、アニメより漫画の方が、漫画より小説の方が、これら不思議な世界や、ご都合主義を見せても、ノイズが入りにくくなっているのが人なのです。
ドラえもんが実写化されないのは、実写じゃない方がいいからです。実写だと馬鹿らしくなって見てられない。
(今の映像技術だと、映像技術で見せられるのを作れるのはある。ワンピースの実写とか。ただアニメの方が良いでしょう。漫画が無く、実写ワンピースがまずあった世界線があったとして、それでワンピースがうけたのか? と考えれば分かると思います。たぶん実写が初めにあったら受けないです)
不思議の国のアリスや、ニモなどもそうですが、不思議な世界は小説だから見てられると言うのがあるのです。
つまり、より現実から離れた作りの方が(漫画より小説の方、等の事です)、現実から離れた内容でも納得できるのです。
(例えば、アニメではよく高い所から飛び降ります。二階以上の高さから、普通に飛び降りる。しかし実写映像で二階以上から人が飛び降りたら「こわ」と思うでしょ?)
などの事から、この「かがみの孤城」の作りだと、小説の方がいいだろう、と予測が出来るのです(予測なのは、実際読んではいないからです)。
もちろん、元々小説として書かれた物なので、それで正解です。
辻村さんは小説家なので、小説として成り立つ内容を作り上げるのは、自然の事だからです。
だから「小説の方が、良い内容だろう」と思って見てました。
(このご都合主義満載の作りはどうか? 元がイジメ問題なので、イジメにあってる人の背中を押す物語だとしたら、この位のご都合主義でも間違ってない気はします。そうじゃ無いと見てられない人向けの話だと言う事です。
しかし世の中良い人ばかりでもないので、勘違いしてはいけないので、勘違いしにくい現実離れした作り、つまり小説の方が、より良いのです。
ちなみに氷菓などもそうです。あれも小説ではなく魅力的なアニメにしてしまったので、麻薬要素が強くなってしまい、私はどうかな? と思っています)
では、アニメ化は失敗か? と言うと、そうでもない。
小説を読めない人もいるし(読んでられない人)、アニメしか見ない人もいる。
そう言う人に対して「元よりはレベルが下がるけど、見ないよりは見た方が良いい」と言う物を提供する事は、何も間違っては無い。
難しい者を分かりやすく提供する。食べにくい物を食べやすく提供する。それが元よりはレべルが下がったとしても、それは意味があるのです。
なので、私のこの映画の感想は、小説の方が良いだろうけど、アニメ化自体は悪くはない、と言う所に落ち着くのです。
さて、純文学ってなんだろう? に戻ります。
「大衆小説に対して、娯楽性よりも、芸術性に重きを置く小説」とwikiにあります。そうでしょうか?
(言葉とは、まず意味がありそれにつけた言葉がある。塞翁が馬などの故事から来る言葉がそうです。後はなんとなく使われていて、定まって無い物を、誰かが定めた言葉がある。辞書に載っている言葉の多くがそうだが、それは誰かが、そうだろう? と決めた物でしかなく、正解ではない。なのでwikiなどに書いてあるこの言葉も、別に正解とは限らないと言う事です)
私は「娯楽性第一では無い物」かな? と始めは思いましが、違うようです。
例を言いたいが、小説だと思いつかないので、音楽を例で言うと「ヘビメタ」などの事です。
(あくまで多くの人にとっての話ですが)ヘビメタは娯楽性第一とは思えないけど、だからと言って芸術的でもない。
つまり「娯楽的、つまり興行的に受ける物でない事が、純文学である」は成立しないと言う事です。
だから「芸術性」などと言う言い方をしたのだと思うのですが、これもまた違うと思います(これもまた、「多くの人にとっては」芸術性が純文学ではない、と言う意味です)。
では何か?
「娯楽性第一でないもので、なおかつ、普遍的な物語の良さで出来ている物が純文学」だと、私は思うのです。
Wikiによると、芥川龍之介は「“筋の面白さ”は、小説の芸術的価値とは関係しない」と言ったようです。そうだと思います。
娯楽性が強かろうが、純文学だろうが、面白い物は面白い。そこに芸術性は関係がないと、私も思うのです。
普遍的とは「広く行きわたるさま」だそうです。
時代や地域、人種や性別、それらを超えて行きわたる普遍性がある物こそ、純文学だと思うのです。
人の作りは一万年位は変わってはいない。遺伝的には同じです。
つまり昔から感動するものなど、大抵同じなのです。
だから普遍的な物語とは「昔ながらの物語の良さ」だと思うのです。
つまり「昔ながらの良さを持った作品こそが純文学」だと思うのです。
「昔ながらの良さを知る」とは、つまり「基本を知る」と言う事です。
その、物語の基本すら知らない人が、アニメを作っているのが現状だと言う事です。
「基本を学び、それを取り入れていく」その当たり前すら出来てないのがアニメ業界なのでしょう。だから滅びそうなのです。
では、昔ながらの物語の良さとは?
人は心があり、心に響くものが大事なのです。
それに人は人が大事なのです。アリの人生や鳥の人生など気にしない(いや気にする、と言う人がいますが、それは人間、つまり自分らと重ねているから同じ感情をいだけるのです。ならミミズはどうか? 寄生虫は? 共感出来ないでしょ?)
つまり物語の内容とは、昔から普遍的に人が大事であり、人の心が大事だった筈なのです。
人の心を描くのが得意なアニメ作家って誰だろう? と思ったら、いるのかな? と思えてきました。
庵野さんイクニさん富野さんに宮崎駿さん、高畑さんも加えて、皆得意じゃないですね。
「じゃあ蛍の墓は?」とか思う人もいるでしょう。
だからあれは原作があるのです。原作がそう出来ているから、心に響きそうになるのです。だから原作が(ほぼ)無い「かぐや姫の物語」は感動はしない。
そうアニメ業界は、人の心を描くのが下手なのです。
最近youtubeでたまたま、出崎統とちばてつやさんが、会って話す昔のテレビの映像を見ました。(本当は出崎の崎は「立つさき」の方だけど、環境依存文字なので崎で表しておきます)。
「あしたのジョー」の原作者が梶原一騎さん(ジョーは高森名義だったようですが)、漫画の絵がちばてつやさん、そしてアニメ化監督が出崎さんですね。
出崎さんってこんな方だったのですね。興味があったらyoutube見て下さい。
とにかく話を聞くと、あしたのジョーの大事な要素を捕らえていて、そこから構築していったのが分かります。
ちばさんも「私より理解してるのじゃ無いのか?」と言ってたほどですからね(ただ、原作ありきのアニメ監督は元を吟味して、その要素を理解して、そこでどう構築し直すかが仕事なので、出崎さんの方が理解度が高いのはしょうがないのです)。
あまりゴチャゴチャ話さない出崎さんが、たまに気持ちが乗って来るのが面白い。
力石が刑務所から出ていく時の、ジョーの複雑な心情を強く言っていて「この人はキャラを一人の人間だと理解して、キャラの気持を読み取れる人なのだな」と思いました。
なるほど、有名な出崎さんはアニメで人間物語をちゃんと描ける人なのだな、と思えたのです。
上手く行ったかは別として、少なくとも「人間を描こう」としている事は間違いが無い。
これはさっき言った今も名のある監督たち、庵野、イクニ、富野、宮崎、高畑、全ての監督が得意では無い物です。
逆言うと、これらレジェンド監督らがそうだから、それで良いと後輩が思い、後に続かないと言うのもあると思います。
今こそ出崎さんが必要だと思うのです(本人は亡くなっているけどね。この人も2011年です)。
純文学とは人を描く事です。
それをするアニメ監督も昔はいたのです。
未来を見る事は大事です。後ろばかり見ていては前には進めない。
しかしまず昔を見ましょう。
未来を見るのはその後です。
その為にも、純文学から入るのが、遠回りでも、結局近道になる事でしょう。
ちょっと補足です。
まどマギって純文学なのですよ。
主要五人キャラの心情や状況自体のやっている元は、純文学そのものです。
つまり面白要素として、純文学とは必要だと言う証拠です。
そして純文学とは羊の皮を被る事が出来る。外側にSFやファンタジーで覆う事が出来るのです。