号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

なぜLAMBなのか?

なぜシープではなく、ラム(LAMB)だったのか?

 

映画「LAMB/ラム」考察です。実はみてません。

予告と、ネットでの考察と、今はアマゾンで見れるので、大事な所のみ確認として見ました。

そして、結構漠然とした考察です。

それでも良かったら、見て下さい。

 

ラム(LAMB)は小羊、または小羊の肉の事です。

そして迷える小羊、キリストもラムと言うのだそうです。

そして出て来る女がマリア。

だとしたら、キリストが生まれるあたりの話だと思うのが普通です。

 

半分羊の子供が出て来るので、こいつがラムかと思うように出来てますが、そっち(だけ)ではなく、キリストの方だと言うのが答えだと言う事です。

 

(ネット考察より)セックスシーンがわざわざあり、しかも最後のシーンで、意味ありげに下を向き、天をあおぐ女で終わるので、妊娠している事を表しているそうです。そうだと思います。

この妊娠している子こそが、キリストです。マリアの子だからです。

 

ここからが、本当かなあ? と自分でも思う考察ですが、そう思うと結構上手く説明できると思うので、聞いて下さい。

 

物語上で、最後殺すのが羊人間です。

ネットでは、これが小羊人間の親であり、半分神のパンじゃないのか? 等と言われてました。

いや、物語の作りから言えば、これが弟です。

 

流れから言って、なぜ意味もなく弟が出て来たのか?

なぜ弟と別れた後に、殺害シーンになったのか?

なぜ兄は首を撃たれたのか?

なぜあの山のふもとなのか?

なぜ銃で殺すのか?

全てが、弟だと言っているのです。

 

兄が首を撃たれたのは、しゃべれなくさせる為です。弟の名を言わないようにです。

前に小羊を殺そうとしたのが弟であり、山のふもとの原っぱで殺そうとしました。

その時、銃で殺そうとした事も踏まえ、同じ絵柄で重ねる事により、弟と同一人物だと言っているのです。

 

では弟は羊人間なのか? たぶん違います。

あれは「もはや人ではない、獣だ」と言う象徴シーンです。

それと弟の元ネタが、小羊と同じ動物だと言う事でしょう。この事は後で説明します。

 

その前に、兄弟三人で飲んでいるシーンがある。なぜこのシーンが必要だったのか?

その時小羊が外で誰かを目撃する。それが羊男であり、その後鏡を見て自分と同じだと認識する、と思えるよう見せているミスリードシーンです。

あそこで見たのが、弟です。

そして見られたので、近づく犬を殺した。犬が吠えようとしたからか? もしくは誰かおかしな奴があらわれたと言い訳をする為か?

その後の小羊が鏡を見るシーンもわざとです。

あそこで大事なのは、鏡を見た事ではなく、「あの小屋に銃が無い」と言う事を見せる為です。後ろの銃がありませんでしたよね。

だから、弟がしたかったのは、兄弟を飲ませ、酔わせ、トイレにでも行くように見せ、そのすきに銃を奪って隠しておく事です。

皆がいた時に銃がなくなる事によって、奪ったのが弟だとは気が付かせない為です。

だから「誰かおかしな奴が来た」と見せる必要があり、犬をとっさに殺したのかもしれない。あと小羊に「言うなよ」と言う脅しでしょう。

 

その後、兄は撃たれ死んでしまいます。それが物語上成立する理由は?

それは兄にも問題があったからです。

小羊の父は、やはりこの兄でしょう。

弟が小羊に愛着をもったのも、本当の甥だったからです。

 

小羊の父が兄なのだから、その弟もまた羊だった、と言う話です。

キリスト教では、キリストも信者も、迷える小羊なのです。

 

気になった方もいると思いますが、なぜ私は「兄弟三人で飲んでいた」と書いたのか?

それは三人が兄弟だからです。

少なくとも、それを頭に入れて描いてます。

だから弟に最後、女は金を渡す。その様な、間柄だと言う事です。

 

では、これは何なのか?

それは元ネタがある、と言う事です。

 

キリスト教のマリアは、エジプト神話のイシスと同一視されるようになりました。

だからこの映画のマリアは、イシスの事です。

兄がオシリスであり、弟がセトです。

 

この三人は兄弟です。

オシリスの妻がイシスです。

セトの妻がネフティスですが、これも妹です。

この妹のネフティスとオシリスの不倫で生まれたのが、アヌビスです。

そしてその後、オシリスはセトに殺されます。

 

なので女がイシスなら、その旦那がオシリスであり、オシリスを殺したのが弟セトなので、最後殺した羊男が弟だと言う事です。

オシリス事、兄の不貞で生まれた映画の中の羊の子が、アヌビスでしょう。

アヌビスとセトは同じイヌ科の姿をしてます。それにこの映画でネフティスがメスの羊だとすれば、それの旦那も同じととらえられ、この二つの暗喩から、弟を羊男で象徴的に見せる、と言うのが通るのです(あと弟はもはや獣だ、と言う暗喩も含まれますが)。

 

キリスト教ユダヤ教から生まれました。

そして場所がエジプトの隣です。

そもそも出エジプト記などがあるので、関係が深いののです。

キリスト教と関係が深いエジプト神話など、この位不健全だ、と言う事です。

これはキリスト教に対する不満にも見え、そう考えるとかなりバッシングをうける事でしょう。

もちろん不満じゃなく、ただ面白く使っているだけ、の様にも見えますけどね。

 

そしてこれらの暗喩を元にしていたとすれば、この映画で何をしていたかの謎が解ける、と言う事です。

 

三兄弟であり(だから子供が育たなかったのか?)、兄は羊とやって子を宿し、弟も妹にせまって、拒否され、兄を殺した。と言う話でした。

こいつらは、もはや獣であり、その子供がまた迷える小羊だった、と言うのは、やはりやばい皮肉ですね。

 

でも、元々は他の宗教があったのです。北欧なら北欧神話がです。

それを飲み込んで、書き変えて行ったのがキリスト教だったとすれば、それに文句があっても、自然の事なのかもしれなせんね。