号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

人の心を理解する事が大事

アニメ「異世界おじさん」見ました。感想です。

 

ただそれよりも「物語制作は、精神的な影響を考える事が大事」と言う話の方が主題です。

 

ネットのゲーム情報を出している「4Gemer」と言うサイトを、昔からよく見ています。

ここでたまに、海外のスピーチなどの記事が乗ることがあります。

これは他には(あまり)無いと思うので、面白いです。

そこで外国人が「ゲーム制作には心理学者がもっと係わったほうが良い」と言うのを言っていて、なるほど、とは思いました。

 

ゲームもそうだし、物語制作もそうなのだが、人を喜ばすのが仕事なので「人の気持ちを理解する事が大事」なのは、言ってみれば当たり前のことです。

この「当たり前」が分かってない人が多すぎるのでしょう。

別に心理学者でなくてもいいので、もっと人の気持ちが係わる事を理解する人が、ゲームにも物語制作にも必要ですね。

 

さて「異世界おじさん」の感想です。

うーん、微妙?

ただ、最後まで見たいと思わせるので、及第点は行ってます。

でも、何か色々足りない物語ですね。

何か一発芸的な物だけで出来ていて、それ以外は普通の才能の人が作っている様に思えます。つまり、ほぼありきたりです。

 

なぜ、異世界と行ったり来たりしないのでしょう?

なぜ、異世界人もこっちに来たりしないのでしょう?

これで、こっちの世界でおじさんが魔法を使えなければ、それでいいでしょう。

「実は寝ていた時の夢じゃないのか?」という話になるので、それなら異世界に行けなくても良い。

しかし、こっちで普通に魔法が使えます。

なら、異世界に行けばいいし、異世界から来ても良い。

なのになぜしないのか? 意味が分かりません。

もしかしたら、引っ張っているのかも知れないけど、引っ張りすぎです。ワンクール終わってるしね(原作があるのは知ってます)。

 

異世界での話はありきたりです。素人が考えたような話です。

そこを見ると、一発芸的な所以外、素人なのではないのか? と思ってしまいます。

 

現実世界の話も、最後の方はネタ切れらしく、出てこなくなります。

これも素人なのでは? と思える要素です。

 

では、この話は何が面白要素であったのか?

この話は「自虐ネタ」です。

 

自虐ネタとは、誰も傷付かないネタです。

自分で好きで行っているのだから、自分が良いのなら、それで誰も傷つかないのです。

この話はストレス、レスであり、最近流行りの安心して見てられる作りだったのです。

これが精神的に皆に受け入れられた。

 

おじさんは強いけど、ひどい目にあっています。見た目も酷い。

ゲームオタクであり、しかも古いゲームのオタクで、皆にはどうでも良い要素のオタクなのです。

だから見ている人は安心して見てられる。上目線で見てられるからです。

 

もちろん、酷い見た目のオタクが、酷い目に合うだけの話なら、見てられない。

だから、よくある「異世界無双」をするのだが、それがこの汚いおじさんだから許されるのです。

でも、汚いおじさんだけだと見てられないから、可愛いエルフが出る。しかもお決まりのツンデレでおじさんが好き。

しかしおじさんは気が付かないし、無視です。

これも、見ている人には安心要素です。

皆がみたい要素を置いておくが、それを上手く使えないおじさんだから、どこまでも皆は上目線で見てられるのです。

 

これは甥もそうです。今一パットしないし、こいつも始めは自分を好きな人に見向きもしません。つまりリア充ではない。

 

この甥が好きな女の子、メガネっ子もそうです。好きなのにかまってもらえず、子供時代が酷いという有様です。

それで見ている人にも「高嶺の花」では無いように見え、安心して見てられる。

 

エルフなどの異世界人は、まあ異世界人だから美人でもいい。つまりこれらも、現実の高嶺の花ではなく、劣等感や部外者意識を持つ事も無い。

エルフは上手く振り向いてもらえず、氷女は引きこもり、勇者はダメ勇者、みな上手く行かない者ばかりです(始めの方は)。

 

現実世界に帰ってきたおじさんは、ちゃんとした仕事もない。

冷房も買えず、スマフォも持って無くて、皆ラーメンで喜ぶ。

 

これら全てが「自虐ネタ」です。

だから笑って見てられるのです。

 

ただそれが、作者は、たぶん、頭で分かってない。

しまいに甥も相思相愛になりそうになるし、メガネっ子の大学も出てきたりして現実をチラつかせる。

おじさんの異世界の話も、最後の方ただ上手く行く話で進む。

 

これは、喜ばれているのが、どこまでも自虐ネタだと理解して、それに沿った描き方をしてないからです。

頭で理解して無く、感覚でやっているから、たまにブレるのです。

 

おじさんの異世界話もそうだけど、現実での甥の話も、メガネっ子の話も、もっと不幸にしとくべきだったのです(もちろん笑える程度に)。

 

ただ、この話で気が付いた面白い事として、「自虐ネタ」とは名前があるほど普通なのだけど、意外と物語ではないですね。

でも、物語でも「自虐ネタ」は、やはりいい物だと気が付きました。

皆ももっと、自虐ネタを意識するべきですね。

 

 

さあ、他の事も書きます。

 

新しい「うる星やつら」を少し見たのですが、どうもよくない。

 

漫画版と、押井版と 今回のアニメ版、三つあるからこそ違いが分かり、そこから面白要素が段々分かり始めました。

 

まあ、単純に、勢いとかが足りず、単純に演出がまずいのもあると思います。

これは真似ている声優もそうです。どうもパワーが足りない。

たぶんですが、前の声優を真似ているから、本領が出せないのでしょう。

真似ながら、演技をするのは難しいのです。

これはルパンのクリカンもそうですね。かなり似てきてますが、パワーが足りないです。

パワーがないのは、どうも置きに来ている演技だからです。

 

それ以外にも気がついたのは、やはり押井版にいた「メガネ」達が居ないからです。

原作にも居ない、彼らは何だったのか?

彼らがテレビを見ているオタクの代わりです。

もっと言うと、見ているオタクの友達か、友達でも自分よりも下に見える友達だったのです。

 

当時アニメを見ているオタクたちは、メガネ達を友達レベルか? もしくは、友達でも自分よりは下の友達、に見えたことでしょう。

そのメガネ達が、あたる達に混ざりワチャワチャしている。

真ん中にラムやあたるや面倒が居る。これが輪の真ん中です。

その向こうにメガネ達がいる。これが取り巻きであり、外の輪です。

その場面を見ている自分らが、メガネ達とあたかも同じ輪の中のこっち側にいる様に思えるのです。

ヒエラルキーの頂点であるラムたちにはなれない。あたるにもなれない。

しかしメガネたちにはなれる、と思える。

その輪に入ってワチャワチャしている人くらいにはなれるし、なりたい。

それをバーチャル的に見せてくれるのがメガネ達に役割だったのです。

彼らがいるから、自分等も輪に入って楽しんでいるかのように、思えたのです。

 

では漫画版ではメガネ達がいないのに、面白かったのはなぜか?

それは、漫画は次元が違うからです。

白黒だし、喋らないし、だから自分で読まなければならず、だから勝手に話が進んだりしない。

まるで神のごとくの目線から見ているのが、漫画なのです。

それにコマも狭いし、だからバーチャル的要素はなく、あくまで妄想として頭の中で構築するのが、漫画や小説なのです。

 

しかしアニメは違う。

横に居て、勝手に話し、放っておくと勝手に進みます。

画面も広いし、バーチャル的な要素が強い。

だからそこに漫画では必要なかった、疎外感を無くすための必要なキャラ、メガネ達が必要だったのです。

メガネがいないと、学校のヒエラルキーの頂点を、クラスの端から見ているだけの存在に成り下ります。

メガネ達が絡む事で、自分達も混ざっている感じが出て来るのです。

 

これを考えてなのか? 感覚なのか? 知りませんが、入れてきた押井守はすごい、という事です。

 

さて、新しいアニメの方ですが、「アニメと漫画は次元が違うのだから、同じに作ったらいけない」と言うのを、改めて思わせる内容だったと思います。

 

 

異世界おじさん」も「うる星やつら」も、これらは「見ている人は、どの様な感情をいだき、どの様な所に心地よさを感じるのか?」という、人の心を理解することが大事だと思わせる内容でした。

「人の心を相手にしているのだから、人の心を理解する必要がある」と言う、当たり前を理解しよう、という話でした。