アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」第6話まで見ました。
正直言うと、第5話の時点でもう方向性も限界も分かり、飽きていて見る気が無くなってました。
なのでやっと重い腰を上げて6話を見てたら「あれ最終回みたいな話だな?」と思えてきて、そしたら最終回でしたね。
「終わっとるやないか~い!」とツッコミを入れさせる演出かと思いましたよ。
wikiで調べてみたら、テレビ一期がシャッフルになっていて「憂鬱編」の第6話が一期最後に放送されたようですね。だから一期の本当の最終話だったので、あの作りだったのですね。
ネット配信だと二期の順番になっていたので、再放送された「憂鬱編」は、順番通りに最初の6回で放送され、6話目で最終回になってました。
6話まで見てみたら、綺麗に終わったので良かったです。
今のレベルで言うと、盛り上がりとか何か足りない様な気もしますが、メッセージ性等のやるべき事で言うと、とても良く出来ている部類に入る事でしょう。
ただ綺麗に終わっている為、この後を見る気が無いのであしからず。
ネットでも「岡田斗司夫さんの切り抜き動画」で丁度この事が出てたので見てみたら、岡田さんも「6話で綺麗に終わり、後は惰性で終わらせられないからやってるだけ」と言っていたので、やはりここから先は見ない方が良さそうです。
総括ですが、やはりそれまでの他の作品の面白要素をどん欲に入れ込んで、オタクの夢の具現化を図ったような作品でした。
このようにコンセプトは単純だけど、それをやろうとしても、なかなか上手くはいかない物なので、とても良く出来てたと思います。
もちろん良くない所もあり、「全てのキャラが記号でしかなく生きてない」とか「SF要素も大した事ないように見える」とか「未来人も超能力も扱い雑なのか? もしくは上手くはない」等もありますが、このアニメが出た時代で言うと悪くは無かった事でしょう。
良くも悪くも、皆が見たくなる方向性を見せれたのだから、価値があったと思います。
6話を見て、しつこいけど、私には主人公キョンは「うる星やつら」の「メガネ」にしか見えなかったです。
やはり原作者か監督が、「メガネ」の良さを知っていてわざとしてる様に見えるのだけど? どうだったのでしょう?
エヴァのレイとアスカ、この二人はオタクが好きそうなキャラのひな型を後世に残したと思っています。もちろん過去にさかのぼれば何かしらその元も探せるのでしょうけど、エヴァではっきりと示した事で影響が強く残りました。良く出来た魅力的なキャラの二種類を上手く表したのがエヴァでした。
この二人に、もっと昔からある温和でドジっ子の流される萌えキャラを足し、三人にするとアニメ「ハルヒ」になります。
これも新しくはないけど、皆が欲しがるものを良く分かっていたと言う事です。
つまり麻薬浸け作品だけど、そこに考える余地を入れる。キョンは無駄な独り言を言うのです。
これは「俺は分かっていて、頭がいい」と言う事で入れてるのだろうけど、その結果頭で考える余地を生み、俯瞰的に見る事が出来ようになってました。
だから比較的バランスが良い作品なのだけど、これでもまだアニメに浸かってしまう、麻薬要素が強い作りです。
そこで最終回が必要です。
まず、なんて事のない日常をやる。これが後半効いてきます。
そして寝る。そして起きると夢の世界です。好きな相手と二人きりの不思議な夢の空間です。
だけれどもキョンは否定します。夢の世界を否定して、あの日常に戻りたいと願う。
何もない日常が素晴らしいのだと気が付いたのです。だから前半、あの日常をやる必要があったのです。
ハルヒ側もキョンと同じですが、まずはハルヒはこの不思議な世界を喜びます。
ハルヒはキョンの分身です。子供の頃の捨てて来た、しかしどこかに捨てきれない子供の頃の夢、その分身がハルヒです。
この物語はハルヒが神のような存在と言ってましたが、神はキョンですね。
キョンが思い描いた様に世界が動いています。ハルヒさえもです。だからハルヒはキョンが好きなのです。
ハルヒが物語の中の神だとしたら、このアニメを見ている我らは神を見下ろす存在、つまりもっと大きな、メタ的な神です。
この作りの中で、オタクの分身であり、だから我々の分身がキョンになるのだから、キョンがハルヒより外側の神になるのはもっともなのです。
(漫画ファイブスターストーリーで言うと、ハルヒがジョーカーで、キョンがアマテラスです)
キョンがこの不思議な世界を嫌う。だからハルヒも嫌い、元の世界に戻ろうとするのでしょう。
ちなみに、だからハルヒはどこまで行っても「ツンデレ」の化身であり、人形ですね。人間味が始めから最後まで無い。キョンが作り上げた人形です。そしてキョンの立場で世界を構築した原作者の作り上げた人形でもあるのです。
このアニメの問題点を上げるなら(他の作品の面白要素を取り入れる事には成功しているが)、キャラを「面白要素」としてだけ取り入れている所です。つまり人にはまだなってません。
このアニメの向こうを目指すなら、この面白要素と言う泥の塊から、本当の人を作り上げる事です。
ちなみに、エヴァの「まごころを君に」では最後不思議な世界でアダムとイブ的な存在としてシンジとアスカが残ります。この内容から、間違った答えをオタクが取ってしまいがちな間違った終わり方が「まごころを君に」です。「ハルヒ」はその否定でもあります。そこは良かったですね。
さてもう一度アニメの世界に降り立ちます。
ハルヒはこの世界で良いと思うが、キョンにキスされる。ここで意識が現実に戻る。
つまり子供の様に楽しめる永遠の世界より、大人の現実の世界の方が良いと思ったと言う事です。
この年頃で宇宙人などの夢よりも現実が大事だと思うきっかけって、確かに異性だったりするので、間違ってはいないですね。
そしてそこはキョンも同じなのですが、キョンにとって大事なのは他の要素「今までは流されてきたけど、ここで自分の意見を出す」そして「積極的に行動をする」しかも「異性に対してのアプローチを積極的にする」事です。
これこそが現実のオタクに対するメッセージです。
「最後は自分の意思で行動をする」
「積極的に行動をする」
「とにかく、自分にとってのリアルな異性に興味をもてよ」(ハルヒはアニメだけどキョンもアニメなので、キョンに取ったらリアルな女子がハルヒで良いのです)
と言う、見てるオタクへのメッセージをちゃんと最後に入れてくる。
今までが「夢の、流され設定」だったので、そこからオタクが自分で前に進むための方向を示す。だから素晴らしい作品ですね。
そして目が覚める。これも目が覚める様に、わざわざ前に寝たのですね。これは暗喩でもあり「アニメの世界から目を覚ませ」と言う事です。
さてここで少し話がずれます。
この夢から覚める暗喩(もはや直喩でしょうか?)どこから来たのか?
たぶん「うる星やつら ビューティフルドリーマー」でしょう。
これは「学園祭の前の日を、夢の中で延々繰り返す」と言う話でした。
そしてそれこそが「うる星やつら」自体の暗喩です。押井さんは、あの話は延々面白い学生の日常を繰り返す話だと言いたかったのでしょう。
そして最後その夢から覚めます。「これは夢から覚めろ」と言うオタクに対しての押井さんのメッセージでした。
しかし押井さん自身が「あれは間違って受け止められた」みたいに言ってたように、間違って広まりました。
あの映画を見たオタクは「終わらない夢の学園生活サイコー!」と受け取ったのです。
それは終わり方の問題でもありました。
最後夢から覚めたが、角の生えた緑の髪の女の子はいるのです。他の人達もいます。これでは見た人が「夢から覚めたようで、実は夢の世界のままだったエンド」の様に受け取っても仕方がないですね。
ただこれは原作があるのでしょうがないのです。しょうがないですが、上手く行かなかったのは事実です。
ではハルヒは?
ハルヒでは、夢から覚めたが「あれは夢だったのか?」と思わせておいて、ハルヒにポニーテールをさせ「夢では無かった」としています。まあこれは良いでしょう。
しかし問題は宇宙人と超能力者はまだいると言ってしまった事ですね。これは間違いです。
最後は「もしかしたらハルヒが世界を作り替えて、宇宙人も超能力もいない世界にしたのかもしれない。それを確かめても良いが……まあ、止めておこう」というキョンの台詞で「どっちかな?」と言う誤魔化しエンドが良かったと思います。
そうすればメッセージも通り「うる星やつらのエンドの上手く言って無い事を、やり直せたのになあ」と思え残念でしたね。
ちなみにキョンがキスする所は「ビューティフルドリーマー」ではキスできなかったので、ここでやったと思っています。これも原作がある「うる星やつら」だとやりにくい事を、ハルヒだとちゃんと出来たので良かったと思います。
「キスがオタク高校生を現実世界に戻す魔法」と言う事でオチが付くからです。
まあ最後はもう少しだった気がしますが、それでも良く出来てました。
ちゃんと物語の問題点にケリをつけた感じです。
魅力的にする為に作り上げた麻薬要素から、オタクを現実に戻し、前に進む方向も示す。そこはとても良く出来てました。
私は「ドラえもんの一度終わった時の最終回」を思い出しました。その位のクオリティーはあったと思います。
さて、せっかくなので、もっとちなみに。
ビューティフルドリーマーもハルヒも「夢から覚めろ」をやるのだが、夢から覚めてもまだアニメの世界なのです。これはアニメなのだからしょうがないのだけど。
そこでシンエヴァンゲリオンですね。グリッドマンでもいいですが。
最後実写映像を混ぜる。
これは何度も出来る要素ではないし、これが最高峰の終わり方と言う訳でも無いのですが「アニメから目を覚ます」と言うメッセージを、客に間違わない様に伝える一つの答えではありましたね。
振り返ると、やはりここで「ハルヒ」は終わりですね。
元々ショートストーリーの一発ネタの様な話です。
「時をかける少女」の様な、不思議な事が起きた学園の話であり、短い話なのです。
高橋留美子さんは否定するかも知れませんが、私は「ビューティフルドリーマー」には黒留美子の雰囲気が入っていると思っています。つまり「人魚の森」とかの雰囲気です(あくまで雰囲気の方です。内容自体は高橋さんは書かない内容です)。
そして黒留美子には「時をかける少女」の時の「日常の裏にありそうな、ちょっと不思議な世界」の雰囲気があります。
だから結果「ハルヒ」には「ビューティフルドリーマー」や「高橋留美子」そしてこの頃の角川映画に通じる世界観があります(作りが今風なので雰囲気は違いますが)。
この忘れられた良き時代を、ただの昔話にしないで、その良さを今風に再構築させたのが「ハルヒ」だと思っています。
私はあの頃(80年代)の雰囲気や設定が、今でも通じる「何か」があると、たまに思います。
誰かがそれをやってくれないかなあ? と日々思います。
それを大体やってくれたのが「ハルヒ」でした。
私と作り手の年代が近いので、感覚が近いのでしょう。
では「ハルヒ」の良さを頭で理解している人がどれほどいるのか?
たぶんあまりいないのでしょう。
だから同じような作品が続かない。
これほどうウケた作品の良さを理解して無いのだから、面白い作品などなかなか出ない訳です。
夢から覚めましょう。現実を見ましょう。それは製作者の事でもあるのです。
日々考え、何が? どこが? 面白要素として良かったのか? それを現代風にするにはどうすればいいのか?
考える事はいくらでもあります。
夢の中ではなく、現実の中にやるべき事や、やりたい事なんていくらである。と言う話が「ハルヒ」でした。