1963年のベルイマンの映画「沈黙」考察です。
「神の不在三部作」と言われてる物の、最後の作品です。
なぜこれが、神の沈黙なのか?
同じ年のフェリーニの映画「8 1/2」の方が先ですね。
だとすると、ベルイマンは見て真似たのか? たまたまなのか?
まあ見てても、オマージュ的な作品なのかもしれないけど。
「8 1/2」を見てたので、何をしたかったのかは、すぐ分かりました。
逆に見て無いと、何してるのか分からないだろうなあ。
ここもまた煉獄ですね。
だから暑いのです。
つまり、みんな死んでいます。だから軍人も老人も多い。
ホテルマンが写真を見せてくれます。あの真ん中で死んでるのが、このホテルマンなのでしょう。
戦車が出てきたり、しつこいので、この少年も戦争で死んだのでしょう。
みんな色々な問題があり、解決できてない。
死んでもまだ、苦しみ、悶え、しかし解決できず、さまよい続けるのです。
神は、これらに対して何も言いません。沈黙を守ります。
戦争で死んだ人々、しかも子供も含め。
トラウマを抱えている女に姉。たぶん姉は性的に男がダメなのでしょう。
小人も、生まれながら障害を持っている。
これらに対し、神は、ただ「沈黙」を守ります。
では、神とは何なのか? いるのか?
いや、いたとして意味があるのか?
最後、姉から甥に言葉を残します。
翻訳が乗ってましたが、実は元々は意味が無い言葉なのだそうです。
つまり、誰にも伝わらない、造語だったようです。
結局、神の言葉など誰にも分からない。
そして、各々がそれぞれ、勝手に解釈しろと言うのが、神の言葉なのでしょう。
神が善人(ヨブ)に試練を与える物語だそうです。
善人なのに、酷い事ばかり起こる男の話です。
で、結局この善人は、神が与える不幸さえも認めた。
神の意志など人には理解できないのだと気付き、どんな事が起きようとも、最後まで神を信じたようです。
最後はこの男は救われたようです。
これは、酷い言い訳です。
「神を信じているのに、どうして不幸になるんだ?」と言う人々に対し、それらも認めれば、どこかで幸福がある(それが死んだ後であっても)と言う、言い訳でしょう。
ベルイマンは、もちろん信じられなかったのでしょう。
ヨブは神と話し、納得したようです。
では話さえできない我々には、何があるのか?
神の沈黙が、神の不在の証拠では無いのか?
神がいたとしても、言葉が届かない我らには、ヨブの様に幸福が最後待っていると、どうして言えようか?
神の言葉など、ましてや思惑など誰にも分からない。
なら言葉も聞こえない我々には、存在すら分からない。
どう解釈するかなど、結局、個人個人がすればいいのです。
だから、この映画の最後には、意味不明な言葉を贈る。
そこに意味を見出すのも、無意味だと思うのも、勝手にしろ、と言う事でしょう。
さて、考察からはずれますが、ここから思った事を書きます。
電車でこの物語は始まります。
これは「8 1/2」の幻の最後でも電車の筈だったようです。
電車があの世へいく(天国に行く)乗り物なのは、どこから来たのでしょう?
まあ、なんとなく考えられそうなので、別に元ネタは無いかも知れませんけど。
ただ、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は大正時代の話なのに、既に電車であの世に行く話を作ってましたね。
だから、もしかしたら宮沢賢治か? と思ったけど、宮沢賢治は外国ではあまり知られてないようです。
ただ、知られてなくても、日本の宮沢賢治の方が、これらより、もちろん早いのです。
そう考えると、宮沢賢治のすごさが、なんとなく分かりますね。
「銀河鉄道の夜」をもっと分かりずらくして、ただの不思議な電車の話に見えるようにすれば、これらと同じような作品になるのです。
世界にあまり知られていない、日本の宮沢賢治が、実は優れていたのかもしれないな、と思えてきました。
昔の日本映画も、一目置かれていたようなので、昔の日本の作家や監督は、世界に通用する人々だった気がするのです。
それから時が経ち、今の日本の映画の酷い事。
それに、これらの暗喩や裏に仕掛けがある映画の、世間の理解度の低い事。
日本の物語制作のレベルと言ったら、すたれて行ってる様にしか見えません。
これは今の人々の問題だけでなく、優れていた昔の人々も次に残せなかったので、問題があったのです。
宮崎駿や富野由悠季が、後輩の育成が下手なのを見ると、納得します。
いま大事なのは、次の世代にどう伝えていくかです。
日本は、そこに目を向ける時代に、もうとっくになっていると思います。
神は沈黙します。
人は次の世代としゃべれるのです。
年とった優れた人々が、神の様に沈黙をしているとどうなるのか? 考えてほしいものです。