号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

サクラメント

フェリーニの映画「8 1/2」、考察、ネタバレです。

(アニメ「ユリ熊嵐」のネタバレ、少し含みます)

 

ゴダールと検索すると、よく出てくる名前が、トリュフォーフェリーニでした。

トリュフォーゴダールと喧嘩別れしたようで、ゴダールが良かっただけに、あまり見る気がおきません。

もう一人のフェリーニは、ゴダールよりさらにプロに人気があるようなので、一度見てみようと思った次第です。

 

それでフェリーニの最高傑作がこの「8 1/2」だと言うので見てみました。まだ白黒映画ですね。

見た感想は「当時は新しく、次の世代に影響を強く残した、意義がある作品」だろうけど「今見たら、大して面白くはない」と言う事でした。おしまい。

 

ここで、もう一人の自分が出てきて、言います「分かった気がするが、よく考えると、思ったよりよく出来た作品だったと、何回思えば分かるのだ? 少し前のゴダールでも、始めはほぼ同じ感想だったじゃないか。アホか」

そしてもう一人が答えます「えー。これは裏も何も無いのじゃないのか? 面倒くさいな」

とは言っても、それこそ何度も何度も「大した事ないな」から「いや実は素晴らしい」となったのと、この監督の作品を皆がとても褒めるので、もう一度考えてみようと、重い腰を上げました。

 

で、結果どうなったかと言うと「思ったより、ずっとよく出来た作品だな」と気がついた、という事でした。めでたし、めでたし。

 

さて、この映画でやってる事を考えると「ユリ熊アアアアアアアアア」と叫びたくなった人は、イクニ信者です。

フェリーニキリスト教カトリック信者だそうです。

まあ、似たようなものですよね?

 

なぜ、監督グイドは愛人に「彼は元気か?」と聞くのか?

なぜ、妻は急に怒ったのか? 何に気がついたのか?

なぜ、ロセッラとクラウディアだけは、役名と芸名が同じなのか?

そもそもこの二人、妙に目立つが、なんなのか?

なぜ、子供時代のシーンが必要だったのか? 愛人の熱が出るシーンで言いたかったのは?

なぜ、最後、監督グイドは急に救われたのか?

始まりのシーンで言いたかった事は何か?

 

一つの謎が解けないと、これらが分からないと思います。

ただ、見てる人でも分かっている確かなことは「グイドは死んだ」と言うことです。

しかしこう言うと、見ている人が思うのは「虚実混ざってはいるが、この物語の流れがあり、最後の拳銃自殺で死んだのだろう」と言うことです。

しかしこれは間違いです。しかし拳銃自殺は正解です。

この、虚実の混ぜ方、見せ方、勘違いのさせ方、ここにこの映画の非凡さがあるのです。

 

wikiによると「幻の最後」があるようです。

ボツになったが、ちゃんと撮ってはいたラストがある。

「白い服の皆が列車に乗って、そのまま何処かに向かって終わる」と言うものらしいです。

このラストを見ると分かるのが「最後グイドは死んでしまい、天国かどこかに向かう」と言う話だった、という事です。

そして実際のラストでも、死んでいるだろう父母も含めて、白い服を来て皆が集まります。だから実際のラストでも、死んだ事を暗示させてますね。

まあ、列車のラストだと死んだのが確定であり、実際のラストの方は、死んだかな? 程度ではあるのですが「死んだ可能性をにおわす」事をしようとしたのは間違いがないのです。

 

ではいつ死んだのか? それは記者会見の時の銃自殺です。

もちろん、あのシーンは象徴シーンです。もしくは思い出しシーンです。だから曖昧で象徴的な作りになっていますが、実際にあの様な事があったのでしょう。

問題は「それはいつか?」と言う事です。

 

映画の初めのシーン、あれも象徴シーンであり、思い出しシーンです。

しかしあれも、実際にあった事の象徴だったのです。

皆に見られ、ストレスを感じ、逃げたいと思う。そして逃げ出す。雲をかき分け空を飛ぶ。つまり死んだのです。そして天国に行こうとするが、捕まり下に降ろされてしまう。そして付いた場所が、あの場所です。

あの場所は何か? 療養所か? いや、あれこそが「煉獄」です。

 

キリスト教カトリックでは死ぬと行く所が3つあります。天国と地獄と、そして煉獄です。

天国にも行けず、しかし地獄に行くほど酷くない人が行く所が煉獄です。

煉獄では浄化するために、苦しむことになるのだそうです。

wikiによると、罪の償い、善行、洗礼、そしてゆるしの秘跡サクラメント)で、罪が減免されて、煉獄から天国に行けるようになる、とあります。

 

とにかく、映画の初めから、妙に出てくるのが年寄りばかりです。

そして皆、白い服か、黒い服です。白黒映画だから分かりづらいけど。

 

保養地で療養所だから年寄りが多いのは分かる。だけど物語的にそうする意味が分からない。

年齢が大事な物語なら分かる。主人公が自分の年齢を気にしてるとか。

もしくは老人に、最後さとされる物語でも分かる。

しかしこの映画は違う。

つまり老人が妙に多いのに、映画としての意味が無いのです。なら他の意味がある。

皆、死人なのです(子供もいるけど、子供だってたまには死ぬ)。

 

監督グイドは愛人が来た時に「彼は元気か?」と聞く。彼とはたぶん愛人の旦那の事だろう。

しかし「彼は何してる?」などの言葉ならあるけど、「元気か?」とは普通は聞かない。

この言葉への愛人の返しが「元気よ」と笑って返すのが、また分からない。「死にそうよ」と笑って返すのなら、辻褄が合うが「元気よ」で笑う意味が分からない。

だから旦那は実際に生きていて元気なのだろう。だから「ここには来れない」と言うことです。

 

この列車で登場するシーン。これも意外と凝っている。

わざわざ、列車が来て、戻っていく。つまりピストン輸送の電車だと言うことになる。

電車のシーンで、普通なら、通り過ぎる駅でしょ?

だからこの映画では「送って来る一方通行の輸送手段だ」と言うことです。

 

この愛人が熱が出る時「よく熱が出る事がある」と言います。煉獄だからか? もしくは生前から体調が悪かったのでしょう。

このシーンで大事なのは、愛人は「遺書を書いた」と言ってる所です。

つまり、生前にも死を予感していた、という事であり、見てる客に死を印象づけるのです。その後、実際に亡くなったのでしょう。

 

子供のシーンで大事だったのは、懺悔のシーンです。

つまりカトリックの「ゆるしの秘跡」です。

懺悔をする事で、救われる事を暗示させるのです。

wikiによると「ゆるしの秘跡」の本質的要素は、聖霊のはたらきの元に回心する行為と、司祭のゆるしだと言います。

ゆるされる為には、悔い改めと回心が必要で、その為の罪の告白と償いが必要、とあります。

つまり、罪を認め、告白して、回心して、それでゆるされよう、という事らしいです。

そしてこれが、煉獄を抜ける助けになる、と言う所に繋がるのです。

 

謎の二人、ロセッラとクラウディアがいます。

妙に印象的なキャラではあるが、今一何者か分からない者たちです。

この二人が同じ者だと言うことを表すために、二人の役名を芸名とかぶせてきたのでしょう。芸が細かいね。

 

この二人は何者か? この二人こそが聖霊でしょう。

聖霊wikiで見ても良くわからないのですが、神の使いか? 神自身か? まあそんな所です。

途中グイドはロセッラに「なぜ精霊は来ない?」と聞きます。たぶん英語で言うと「スピリット」と言ってたのでしょう(もちろん元はイタリア語でしょうけど)。だから日本では「精霊」の方に翻訳した。

だけど正確にはホーリースピリットの事であり「聖霊」の事だったのです(イタリア語でも精霊に言葉が足されて聖霊になるようです。グーグル翻訳によるとです)。

つまりグイドは「聖霊が訪れて、救われる事を願っていた」と言うことです。

 

妻が怒ったのは、それに気がついたからです。

自分が呼ばれたのだと思ったが、来てほしかったのはロセッラの方だったのです。

つまり、天国から降りてくる妻に、ついていく聖霊としてのロセッラが来るのが分かっていたから、妻をわざわざ呼んだのでしょう。

パーティ会場で、グイドはロセッラにばかり話していた。車に乗る時も初めにロセッラの名を呼んだ。

妻は工事現場では上からロセッラ達を見ていた、つまり気にしていたし気がついていた。実際にグイドは妻のいる工事現場の上には行かず、下にいて、ロセッラに話しかけてます。これで妻は、グイドはロセッラに話したかったのだと、確信したのです。

そしてグイドの方は、ロセッラに「なぜ自分のための聖霊が来てくれないんだ?」と聞きたかったのです。

 

クラウディアがやっときます。彼女こそが待ちに待った、自分のための聖霊です。

 

最後、映画がなかった事になった後、急にグイドは救われます。なぜか?

ここに係っているのが、その直前の記者会見ではなく、その前のクラウディアの所なのです。この作りが秀逸ですね。

 

クラウディアに「映画はない。何もないんだ」と言います。

これが真実であり、懺悔です。

事実を認め、聖霊に直接告白している「ゆるしの秘跡」のシーンだったのです。

これで救われたのです。

 

その後の記者会見のシーンは、この懺悔の過去のことであり、その事を思い出しているシーンでしか無い。

決して、この懺悔の後のシーンでは無いのです。

 

グイドは生前、実際に映画を作ろうとした。

しかし無理だった。アイディアなどなかったからです。

しかし金をかけて大きなセットまで作らせてしまった。

最後、もう無理だと思ったグイドは自殺したのです。

カトリックで自殺は罪です。

だから天国には行けず、つまり映画の初めのように引っ張られ、煉獄行きになったのです。

 

しかし死んでもまだ認められなかった。

映画などなかったのだと、言えなかったのです。

だから死んでもまた、映画を作っているふりをしていた。

出来ない映画を作り続けて、悩み続ける、これが苦行ですね。

ずっと「真実を言わないで嘘ばかりの性格が、グイドの問題だ」という話でした。

しかし最後に、真実を聖霊に認める。これこそが「ゆるしの秘跡」だったのです。

 

だからこれで救われる。

これで神から、煉獄を抜けて、天国に行くことを認められたのでしょう。

だから「おめでとう」なのです。

そして天国の皆と、そこでずっと一緒に暮らそう、と言う最後だったのです。

 

フェリーニは、この映画の前に一人でやった監督作品が8作品あります。

共同監督作品は除きます。共同だと、もし悩んでも他人が仕上げれるから、映画のキャラとは立場が違ってしまう。

そして次の作品は(映画内だと)途中で死んだので、二分の一だと言うことでしょう。

 

こう見ると、謎の作りに納得が行くと思います。

他の作りも含め、確かに歴史に名を残す、よく出来た映画でした。

 

おまけとして

アニメ「ユリ熊嵐」がこの作りですね。見事なまでに日本風にアレンジして出来ていたと思います。

8 1/2」と言う有名な映画の後の作品として、ほぼ誰も知らないアニメの中で再現されている。

他の作品で、ここまで上手く出来た作品が、日本であったのかな?

もしなかったら、アニメの監督で、アニメ界隈でしか知られてないのに、イクニさんは日本で屈指の監督だと言うことです。

皆、本当に優れている人を、知らないだけです。