号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

つわものどもが夢の跡

アニメ映画「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」見直しました。

押井守作品ですね。

 

たぶん全部見たのは、子供の頃映画館で見た以来な気がします。

しかし覚えている。

まあ印象に残る作品だったのは間違いがない。

世の中にも影響が残っている作品ですね。

 

ただ私が覚えているのには訳がある。

あの頃はまだビデオデッキが高かった。

だから漫画がありました。ちゃんとコマが割ってあって、そこに映画の映像を合うように切り取られたのを貼ってあって、ちゃんとカラー漫画として読める代物でした。

ビデオが高かった時代の、過渡期に出たものですが、今思い出すと悪くはなかったですね。

ちょっと暇な時にパッと見直せるから、映像よりも見やすく、だから覚えているのです。

現代に今の作品で出しても、意外と面白いかもな? と思います。

 

押井守さんの本「映画50年50本」を読むと、押井さんは寺山修司に関心があるのが分かります。

押井さんは映画の正体を知りたい人らしいです。そしてその正体が分かると興味がなくなるのだそうです。

そうなると、分かりにくく、しかし何かあるのは分かる寺山作品にハマるのは分かります。

そして影響された作品をいくつか出しているようです。その一つがこの「ビューティフルドリーマー」ですね。

83年に寺山さんが亡くなっています。

そして84年に「ビューティフルドリーマー」です。この作品もまた、追悼という意味もあったのかな?

 

ただ押井さんが、寺山さんのやっている事が分かっていたのかは、微妙だと思っています。

今もそうですが、84年当時はもっと怪しかったと思っています。

97年にイクニさんの「ウテナ」が出るのですが、このウテナ寺山修司をやっている事は押井さんは知ってましたね。「50年50本」で言ってました。

ビューティフルドリーマー」から十数年経っているので、比べてはいけませんが、「ウテナ」の方がより寺山修司に近づいていたと思います。

そして押井さんよりイクニさんの方が近づいています。

物語に表があり、裏に暗喩があり、その下にさらに全体を通す暗喩もある。この三重の作りを理解してたのがイクニさんだと思っています。

 

そうは言っても、そもそも寺山さんの作りを理解している必要があるのか? と、その三重の作りをやる必要があるのか? という問題があります。

別にここまで深く作る必要も無い気がします。

出来たら面白いけど、それはそれで他の要素の足を引っ張りかねないので、無理してやる事もない気がします。

 

そこで「ビューティフルドリーマー」です。

寺山修司からインスパイヤされただろう要素を、上手く取り入れた作品に出来ていると思います。

だからこれはこれで正解だと思います。

押井守のすごさは、やはりこの作品が一番でしょう。

バランスも含めた、完成度とすごさは、この後だと無いのじゃないのかな? とも思えます。

 

ただ今見ると、映像も演出も、所々古臭いですよ。

あくまでこの当時としては完成度が高い、という事です。

しかし85年に「Zガンダム」ですし「エヴァ」なんかは95年ですからね。とても早くこのレベルに達してたのがすごいですね。

これらの作品と比べる理由は、「ビューティフルドリーマー」はメタ的に客自身を意識した「夢の世界から目を覚ませ」作品だからです。

 

寺山作品の演劇から「夢の世界に浸かってないで現実に戻れ」と言う要素を取り出し、自分の作品に取り入れたのが押井さんだと思います。

この要素がアニメ制作者自身に大きく関わる問題、「オタクが現実じゃないものに取り憑かれて、現実に戻れなくなる問題」に重なる事が出来るので、そこを使いたくなるのがアニメ制作者なのでしょう。

これが「エヴァ」であり「ウテナ」です。そして寺山作品に影響されたわけではなさそうだけど「Zガンダム」の富野さんも、この問題に立ち向かっていく事になる訳です。

 

では、寺山さんは「現実に戻れ、目を覚ませ」と言う要素をどういう意味で使っていたのか?

ここの多様さに、この人の非凡さがあるのです。

第一に、まずはアニメ製作者と同じく「物語の浸かって、夢の世界から戻れなくなった人を現実に戻す」と言う意味も、もちろんあります。戯曲「星の王子さま」などはこの要素がありそうです。

第二に、「書を捨てよ街へ出よう」と、初めに本で言い出したころは「頭でっかちになって本ばかり読んでいても現実を学べない」と思っていたと思います。これはたぶん病気になり長く病院にいた事も、影響していると思います。

「現実の世界に出なくては学べないことがある」と同時に「現実の世界の素晴らしさ」を感じ取ったのが、病院での生活じゃなかったのかな? と考えています。

そこから更に進んでいき「自分の言葉さえも違う理由で再利用する」のが寺山さんです。だから分かりにくい。

映画の方の「書を捨てよ街へ出よう」の時になると、この同じ言葉を使いながら微妙に意味が違う。これはこの頃の過激な左翼運動家、つまり学生運動に対しての苦言です。

主に学生、しかも大学生だから、頭で考えてばかりで現実を知らない奴らです。そいつらが世間をよく知りもしないで過激な左翼運動をしていた頃です。

第三として、学生運動家に対し寺山さんが「夢ばかり見てないで、現実を見ろ」という意味で使ったのが、この頃の「書を捨てよ街へ出よう」でしょう。

そして段々この第三の意味が強くなるのが寺山作品です。なぜなら時代がそうだったからです。これを言わないといけない時代だったのです。

 

でもそうなると、アニメで使っている「アニメに溺れてないで、現実に戻れ」と言う意味合いは、寺山さんはあまり意識してなかったと言う事になるのです。

もちろんまるっきりなかった訳でもないでしょうけど、力石徹の葬式をあげる位だからあまりなさそうに見えます。

だからこの要素を使ったアニメは「寺山的作品」というよりは「寺山作品からインスパイヤされた作品」という事になります。

そこから「押井さんは理解してたのかな?」と私が思うわけです。

でも皆さんも分かると思いますが「それの何が問題なのか?」という事です。

もう今や関係がない「学生運動の暗喩」など意味がない。

なら「寺山作品から要素だけを取り出し、自分の作品にあった物に変えて使用する」方が正解でしょう。

だからこそ「ビューティフルドリーマー」はこれでいいのです。

 

ビューティフルドリーマー」では「夢から覚める」と言うのをやるために、夢の世界だと強く言ってきます。(寝る時の夢ではなく、オタクが思い描く方の夢)

だから「学園祭の前の日」だし「バルタン星人とかがいる世界」だし「共同生活をする」「好きな女がいる」「水着で泳ぐ」「腹いっぱい食べる」等など、とにかく「これでもか!」と言うほどに、子供の夢を羅列していきます。

そこに「うる星やつら」を重ねる。アニメ「うる星やつら」自体が「終わらない子供時代の夢の世界の象徴」なのだから、上手く重なる訳です。

そして「これらは夢であり、夢から覚めないといけないので、夢から覚ます」物語にしてきたわけです。

 

物語の中で、学校の校舎が「三階だったのに四階になってる」みたいな事をしのぶ達が言うシーンがあります。

しかし実際は元々二階であり、これは「中のキャラは自分が分かっている気がしているが、本当は作られた世界の中の住人で、何も分る事は無い」みたいな事らしいです。

メタ的に「本当の事を分かっているのは、映画を見ている客のみ」と言う事らしいです。

それにしのぶの風鈴のシーン、あの最後に謎の人物がしのぶを見ている、と言うシーンです。あれは何だろう? と当時から思ってましたが、ネットで調べたら「あの世界を外側から見ている人がいる」と言う事らしいです。だから押井守自身だろう、と言う事だそうです。これもメタ的なもっと外側があると言いたいようです。

最後の方に「あたるが未来にいると言う夢」の中から抜ける時「実はセットだった」と言うシーンがありますね。エヴァでもやってました。

もちろん寺山修司からでしょうけど、寺山さんの前にも合った事でしょう。「幕末太陽博」の幻のラストとかね。これも「メタ的な外側があり、アニメ内は全て偽物」と言う事でしょう。

 

となると、給湯室でのラムの会話「皆がいて、面白楽しく生きて行きたい」と言う会話も怪しくなる。ネットでの感想で「ラムは皆でいたいなんて思わない。あたるだけがいる世界でかまわない筈だ」と言っている人がいました。私も当時はそう思った気がします。

これはラムの夢ではなく「見ているオタクの夢」ですね。そしてそれをラムに言わせてる訳です。ラムは自分でそう思っている気がしているが、実は「メタ的な外側の誰かにそう言わされている」と言うシーンです。だからこの会話であってたのですね。

最後の方のあたるのハーレムシーンで、ラムがいなくて「ラムにほれてる」と言うシーンがあります。これもネットで「違うんだよな」と言っている人がいました。これも私もそう思いました。言わないで付いたり離れたりが「うる星やつら」だと思うからです。

ただこれも「メタ的な誰かにそう言わされている」と言うシーンで成り立ちます。押井守とオタクたちに言わされている。オタクは、あたるは裏ではラムに感心があってほしい、と思っている。あのシーンで「ラムがいなくて気にしないあたる」は見たくないのです。

 

とは言え、直接過ぎるので良くないシーンです。

しかしです。これが夢の世界を終わらせる物語だとしたら「あたるとラムは相思相愛です。めでたしめでたし」と言うシーンにして終わらせに来ている、とも取れます。

小さなラムが「責任とってね」と言うのもそうで「責任を取る」で連想されるのは「結婚する」そして「末永く暮らす」と言う事ですね。

出来ませんでしたが、最後にキスするシーンもそうです。

つまり押井さんは自分の中で「うる星やつら」を「めでたし、めでたし」と、終わらせに来ているのです。

 

ただ前にも言ったけど、原作がある作品だから、夢から覚めても角の生えたラムがいる。だから夢から覚めたのが分かりづらく、そこが上手く言ってない。

そして夢の世界が良く出来て過ぎていて、アニメオタクには「終わらないアニメの夢の学園生活サイコー!」と受け取られてしまいましたね。だから失敗です。

失敗したのは、すり合わせが足りなかったのでしょう。本当は夢から覚めたのが正解だと、客に感じさせないといけなかったのです。

そのへんはハルヒのほうが良く出来てました。夢の世界を魅力的には描かなかったからです。*1

でもハルヒ等の後の作品と比べるのは無理があります。後の作品は、前の作品を見て直してきてるのだからです。

 

しかしこの映画を今回見直してみるたら、以外と上手く行ってた気がします。

やってる事が「現実でも出来る事」もしくは「近い事が出来る」と言う内容が多かったからです。

学園祭とか、学生らしい馬鹿騒ぎとか、泳ぎに行くとか、現実で出来る事を魅力的にやり「いいだろう? じゃあやれるように努力しろ」とも取れる内容が多かった事です。

でも多くのオタクにはやれと言われても無理だろうけど、そもそもが何をアニメで言われても無理なのは無理なのだから、この程度の「うらやましいだろ?」的な事を示し、「チャンスがあればやってみたら?」的な塩梅って、結構いい線いってると思います。

しかもメガネ達がいて、最後までは恋愛要素を排除してるので「仲間内でワチャワチャしている」位なら「出来るかな?」と思わせるのも上手いです。

最後のキスシーンも、原作があるから出来ないのだろうけど、ここでアニメオタクを現実に戻す。ラムはあたるのものだし、だからオタクに「ラムに気を取られてないで、目を覚ませ」となってるので、これもいい作りだと思います。

逆にこれ以上「目を覚ませ」と強く言ってくるのは「大きなお世話」です。Zガンダムとか旧エヴァです。

だから押井さんは、結構いい塩梅で寺山要素を使い、いい塩梅のメッセージを構築したので、バランスのいい作品だった気がするのです。

 

ちなみに、この頃はまだ漫画もやっているのに、「うる星やつらは永遠の夢の学園祭前日なので、そこから現実に戻れ」というメッセージは、高橋留美子さんには鬱陶しかったことでしょう。

そうは言っても、世界は高橋留美子さんのではなく押井さんの世界だけど、意外と黒留美子(高橋さんのホラー調の作品)の雰囲気は出ていたと思っています。

だとしても、高橋さんはうる星やつらに黒留美子要素なんて入れないのだから、まあ怒るわけです。(怒って無いと言う人もいますが、どうでしょうね? 自分が前に出した映画原作が却下され、全然違う作品が出てきたら怒るでしょ?)

ただ見ている方にとっては面白いですね。

「もし、あのキャラたちが他の人が作った世界に紛れ込んだら?」というif作品なっていて、面白いわけです。

それに改変したと言われるけど、押井さんはキャラの方は結構変えてないので、まともな方だと思うけどね。

 

ただ押井さんがやっている事は、映画「ジョーカー」と同じです。*2

「ジョーカー」はバットマンの世界のようで「バットマンの世界が現実にあると思っていて、自分はそのジョーカーだと思っている、頭のおかしな奴の物語」という話です。つまりバットマンでも何でも無い。

ビューティフルドリーマー」も「うる星やつら」のようで「押井さんがやりたい事をやる為に、しょうがなくうる星やつらを表に使っている」だけの話です。つまりこれもメタ的には「うる星やつら」ではないのです。

ここも高橋留美子さんが気に入らない要素でしょうね。

「ジョーカー」の方はよく出来ていて、物語上でもバットマンではないとも取れるようになってます。しかし「ビューティフルドリーマー」は、そこまではなっていない。

なってはいないけど、だからこそ「うる星やつら」ではある、とも取れます。

だから意外と押井さんは「うる星やつら」に敬意を表していた、とも見えます。

押井世界という不思議世界に迷い込んだ「うる星やつら」のキャラ、という体はとっているので、良い方じゃないでしょうかね?

そしてもう一度言うと「不思議な世界に迷い込む作品」を作るのが高橋留美子さんです。

だから結構メタ的には「不思議の国の高橋留美子」にも私には見えたので、まあ色々と面白い作品ですね。

不思議な世界に迷い込む作品を作る人の妄想であり、ある部分の分身でもあるキャラ達が、もっと不思議な世界に迷い込むと言う、いく重もの重なり合ったメタ的要素とも取れる内容だったから、面白かったのです。

 

寺山修司高橋留美子押井守悪魔合体をして出来たモンスターが「ビューティフル・ドリーマー」です。

夢見る人達が、夢を撒き散らし、目を覚ませと言いながら皆を引きずり込む、美しきモンスターの話でした。