号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

見える物より、見えない物が大事です。

寺山修司の戯曲の本、新装版「寺山修司幻想劇集」(平凡社)の感想です。

 

前にアマゾンで検索した時、この本は出て来なかった気がするのですが? 白昼夢でしょうか?

寺山さんの戯曲の中で、有名な作品がのってる本が見付かったので読みました。

レミング」「身毒丸」「地球空洞説」「盲人書簡(上海篇)」「疫病流行記」「阿呆船」「奴婢訓」が乗っています。

 

レミング」は1979年初演だそうです。

まあ、細かな所は相変わらず何を言ってるのか? 何をしたいのか? 分からない作品です。

ただ良く分からないのに、明らかに前に読んだもっと昔の寺山さんの作品より、こなれてきてるのが分かるのが面白いですね。

全体の流れなのか? バランスなのか? 無駄そうな、つまらなそうな所が少ない印象です。

一見訳が分からない作品を作る寺山さんも、その世界感の中で、段々こなれて行ったのでしょう。

そう考えると、寺山さんがこの後まだ生きてたらどうなったか? を見たかったですね。

 

さて、このレミングは、ある男の家の壁が急に無くなる(見えなくなる)、と言う話ですね。

この壁が何を表しているのか? ですが、主に心の壁の事でしょう。つまりエヴァのATフィールドは、たぶんここからです。

ちなみ話的には「閉じこまった虚構の世界が、最後急激に壊れる」のですが、たぶんビューティフルドリーマーの最後はここからですね。

ただ、この壁は多重の意味があると思います。

寺山さんは多重の意味を含めるのが好きなのと、それを言わないのも好きですね。だから見てる人は何が何やら分からなくなる。

この多重の意味を持たせ、それを言わないのは、イクニさん、庵野さん、富野さん等もそうですね。だからこの人達の言葉なんてうのみにしてはいけない。

もちろん嘘は言わないのですが、多重の意味がある物の一面しか言わないので、ミスリードになっています。

寺山さんなんかは、流石に言葉の錬金術師と言われるだけあって、煙に巻くやり方がさらにうまく、だからこそちょっとやそっとじゃ、何を言いたいのか分からないですね。

話を戻し、壁の意味の一つとして、この頃の土地価格高騰が入ってるかもな? と思っています。ただ本格的に高くなりだすのは寺山さんが亡くなった83年頃かららしいので、どこまで強く思ってたかは分かりません。しかしこの後生きてたら、もっとバブルの土地神話にかけた物語を作ってくれた事でしょう。

この戯曲の中で大家が囲碁をします。それで陣地取遊びをしている。つまり寺山さんはこの頃、土地を持った大家が土地を取り合って遊んでいる様に見えたのでしょう。

そして壁は心の壁にもなるのですが、これは個人の心の壁だけではなく、集団の心でもあり、「壁に囲まれた中にある、外の実際とはかけ離れた幻想で出来ている世界」を表しているとも見えます。

例で言うと、さっきの大家なら、実際の土地利用とはかけ離れた土地ころがしからくる財産作りを、まるでゲームの様にしている。彼らはその狭い世界の中にいて、それが世界の常識でルールだと勘違いしている。壁の世界の中が本当の世界の常識だと思ってきている、と言う事です。

ここで題名で「レミング」を持ってきてる事から、大家などはしまいに訳が分からなくなり、自分の陣地だけだと満足しなくなり壁を抜けて走って行く、そしてその向こうは破滅が待ってるのでは無いのか? と言う事でしょうか?

レミングはネズミの一種で、増えすぎるとストレスで外に向かって大群で走り出す、と昔は言われてました。そしてそのまま川とか海まで真っ直ぐ走っていて、溺れて死んでしまうと言われてましたね。ただ最近はどうもそうでもないらしいと言われています。別に集団自殺をする訳でもないようです)

 

ただそうすると普通は「壁は人が作った心の壁で幻であり、その中で作られた物は虚構だ」と言う話になりそうです。

そして「それを打破するのが良い事だ」と言う話になる筈です。

でも、どうもそれだけに見えないのが面白い話ですね。

その「壁は個人を示す物」にも見えるからです。

壁を無くす事は全ての人の同一化、全ての人が一つになる事の様にも見え、それは個人の消失の様に見える。つまり行き過ぎた共産化や全体主義にも見えるのです。

この辺の事を寺山さんは考えていたのか? どうか? は分かりませんけど、単純に「どちらがよく、だからこうしよう」と言う話にしない所は流石ですね。自分自身で考え、答えを出す必要があるからです。

ただとても分かりにくい話にはなりますが。

 

この話は、初演は一人の男の話でした。

しかしその後主役級を二人に増やしたそうです。

これも一人の心の中の引きこもりの話ではなく、壁が複数の人から作り出した虚構をまとめた物、としたかったのだと思います。

壁と言うと、個人の壁の話になりがちだが、そのグループ毎に壁があると言う事を表すのは流石ですね。

家族の壁、会社の壁、国の壁、全てが壁の中だけの常識であり、その中でしか通用しない虚構である。それを認識する事が大事だ、と言う話です。

 

ちなみにシンエヴァが最後の方、二人一組が多かったのは、たぶんここからです。

一人の引きこもり問題も大事ですが、多数のまとまった引きこもり問題もある、と言う事です。例えば、国とか宗教とかです。

しかしそれと同時に、一人の引きこもりより二人いた方が打破しやすい、つまりまだましだ、とも取れる状況だと言う事です。

引きこもるにしても、二人以上にしましょう。その方がまだ未来が見える、と言う事でもあります。

 

この辺の壁問題は、個人から、社会、そして国問題までもつながって行く大きな問題です。

宗教やイデオロギー、個人の好き嫌いまでも含めた問題が「壁」ですね。

この「壁」の消失から始まる物語が「レミング」でした。

これはまだまだ広げられる話でもあります。

「壁」に目を付けるのだから、寺山修司はしびれる訳ですね。

 

 

次の戯曲「身毒丸」の事です。

元は昔のおとぎ話「俊徳丸」からだそうですね。

それを大正6年に折口さんが短編「身毒丸」と言う話に仕上げたようです。

更にそれを寺山さんらが戯曲として作り直したのが、今回の「身毒丸」です。

あくまで元の話をモチーフとしてのみ使い、それからイメージできる物から新たな物語に仕上げた物でしょう。

これは「さらば箱舟」と同じやり方ですね。あくまで元をモチーフにしたのみで、元の物語はあまり気にしてない作りです。

 

さてここからは私の感覚で言うので、間違ってるかも知れない事は始めに言っときます。

たぶんこの話も「さらば箱舟」みたく、全体を通す暗喩がある様に見えます。

ただ寺山さんの映画みたく、分かりやすいほぼ完ぺきな暗喩を入れている訳でも無さそうです。あくまでほのめかしているのみであり、だからはっきりはしません。

ただそれでも、私がこの題名を見た時思ったのは「第五福竜丸」の事です。そしてたぶん読んでもあってると思いました。

 

金で買ってきた義母はアメリカでしょう。

日本は金を持ち始め、金の力で後ろ盾兼保護者、アメリカを手にいれた。

アメリカはこの頃はベトナム戦争敗戦で弱っている頃ですね。

始めアメリカはそれでも日本が気に知らない。そして自分の子供を優遇する。在日米軍の事か? もしくは他のアメリカ寄りの国の事でしょう。

そして義母は主役しんとくを傷つけます。これが「第五福竜丸」の事件で示す事です。戦後すぐは、日本などは本気に気にしてるのではなく、裏ではどうなっても良いと思っていたと言う事でしょう。

 

最後の方でしんとくはこの義母の服装をして、同じようにふるまうシーンがあります。

ここが特に日本とアメリアだと思う所です。じゃないとやってる意味が分からないからです。

学生運動とかしてアメリカ化を嫌っていた日本も、段々アメリカ化が進み似てきたし、まねて来たと言う事です。

第五福竜丸もそうですし、二次大戦もそうですが、あれほど傷つけられたのに、しまいにアメリカに寄り添い「母になって自分を生み直してほしい」とまで言い出します。

アメリカの子として、西洋諸国の一員としての国となるように、また新たな国として生み直す、つまり作り直す事をアメリカにゆだねると言う事です。

始め嫌っていたアメリカさえも、この頃はベトナムで傷付き、高度経済成長していく日本に近づいていく、それが最後に義母がしんとくを受け入れるシーンになる。

 

と言う話だと思っています。

同じころの寺山修司の映画「ボクサー」とやってる事は同じですね。

大きな家(国)の問題と、個人の家の問題、それらは大きさが違うだけで実は似ている、と言う事かも知れません。

個人も、その集まりの国も、元は同じなのだから、案外似ている呪いにかかりやすい物なのでしょう。

(21年9月14日 追加、「身毒丸」の母は義母だけど、近親相姦みたいなシーンがありますね。だからウテナの近親相姦はここからと「阿呆船」も入ってるのかな? と思います。ただ阿呆船の母と息子は何の暗喩か分からない。分からないが、何かの暗喩になってる事だけは間違いが無いと思っています。それはこの「身毒丸」の暗喩や、「田園に死す」の間引きの女が左翼の暗喩になってる事からも、この様な事をやって来るのが、寺山修司と言う人なのが分かってきたからです)

 

さて、残りの劇の事ですが、これはもっと分からない。

どうも他の作品は、ほぼ劇場内を真っ暗にして客にマッチを配ったり、客の目線をさえぎる布が下りてきて、全ての客が同じ物は(つまり劇中の全ては)見えない様にしてみたり、街中で上演して近くの銭湯やアパートまで巻き込んでやったりしたようです。

つまり内容もさることながら、経験する事に意味がある演劇だったと言う事になり、そうなると実際見ないとなかなか分からないですね。

これは寺山さんが元々見世物小屋復権を狙ってた、とか、サーカスみたいな事をしたかった、事から来てるのかと思います。

私の考えですが、一つは「こういうのもありだろう」と言う事だったのか? と思います。

そもそも昔は堅苦しいのが演劇ではな無かった筈なのに、いつの間にか文化に落ち着き堅苦しいのが正解になってしまった事に対する、反撃ですかね? そしてそもそも見世物小屋的な物も古くからあり、文化的な一つの正解でも良い筈だと、言いたいのかとも思います。

それとこの頃は映画が流行ってますね。だとすれば直に見て楽しむ演劇に、映画と違う価値を残すなら、なお更「直に見ないと分からない経験を提供する方が良い」と考えていたのかな? と思っています。

私個人は、この「経験しないと感じ取れない物」に演劇の生き残りがかかってると思ってます。

 

ちなみに、私は最近気が付いたのが「小説」「漫画」「アニメ」「実写ドラマ」は違う物だと言う事です。

これらはやれる内容も、見れる内容も違ってきます。同じ作りだとダメだと言う事です。

小説や漫画だと成立した内容でも、そのままアニメ化すると間延びして見てられなくなったりする事です。そしてアニメから実写だと馬鹿らしくて見てられない絵になったりしますね。つまり同じではないと言う事です。

そして絵劇もそうでしょう。同じではない。

例えばサーカスを一時間は見てられる。しかしサーカスの映像を映画館で一時間見たら退屈でしょう。つまり実際に見ている物と、映像で見ている物は、見てられる時間は変わってくると言う事です。

内容でもそうです。サファリパークで車に乗り動物を見たとする。同じ時間頭に付けたカメラからの映像を見せられたら退屈な筈です。実際に見る事の楽しさや、心に響く事は、映像よりずっと大きいと言う事です。

 

そして今回の本の内容、寺山修司の演劇ですが、これも演劇だから許される内容です。文だけ見てもつまらない。

たぶん実際見て楽しむ物ですね。

そして実際見て見ると、その内容の裏にある暗喩が引っかかって来る筈です。

これら演劇の暗喩は寺山映画と比べあいまいです。それもわざとか? もしくは(せっかくの演劇なので)演劇だと通じる所で投げかけているのでしょう。

つまり映画だとはっきりした物を提供する方が良いと思っているが、そこまではっきり言うと野暮になるので、ほのめかす程度にして、全体をエンターテインメントに仕上げたのかな? と思っています。

逆に、寺山さんが素晴らしいと思った所は「映画だとはっきりした暗喩で納めてくる」事です。

映画だと映像なので、さっき言った様に見てられるレベル、範囲が違うのです。だからこそ同じ作りにしてはいけない。

なので寺山さんは映画だと、もっとはっきりきっちりした物に仕上げてく。この辺の事が分かっていた人じゃ無いのかな? と思っています。

たまに映像で寺山修司の演劇の様な、良く分からない物で通してくる馬鹿がいますが、ただの馬鹿です。違いを理解しましょう。寺山さんは地に足が付いている人です。

分からない様なものでも、それが通る体験する演劇でやって行くのだからこそ、成立するのです。

 

ちなみに漠然とした感想位は言っときます。

「疫病流行記」を見て思ったのは、悪名高き「731部隊」も意識してるだろう、と言う事です。

それをさっき言った様に、舞台をいくつものカーテンでさえぎり、客が全てのシーンを見えなくなる。見えない所がある断片的な物から、各々が想像して仕上げる事が大事な演劇らしいです。

それに戦時中の事、しかも731部隊の事を重ねると「今では見えない事、もう分からないがやった酷い事、それらを断片的に残ったものから想像して各々が何が起こったのかを考えるべきだ」と言うメッセージにも見えますが? どうでしょうか?

しかしこれがあってたとしても、寺山さんは政治的な問題は演劇では隠しますね。だから実際は分かりませんが、たぶん「この要素も」あると思います。個人的にはその方面の暗喩を言う人がネットでは見当たらないが残念ですね。

 

「阿呆船」は何か色々ありそうだが、更に分かりません。

わざわざ船が付くので、日本なのか? 大衆なのか?

どうも、理性で出来ているように見える、人の行動や歴史は本当か? と言いたいようにも見えます。

常識に揺さぶりをかけてきている、事は良く分かります。

たぶんもっと深く分析すれば、もっと分かってきそうですが、他の作品から続けて読んでると、流石につかれるのであきらめました。

(21年9月13日 追加、wikiによると15世紀のカトリックなどへの風刺文学で「阿呆船」があるようです。なので風刺なのは分かるが主役「眠り男」は誰なのか? 社会か国か政治か左翼か、ただの個人のアホの事か? それらすべての事か? 分からないけどアホに対する批判は入っているように見えます。そしてこれも実は社会風刺演劇なのでしょうね)

 

「奴婢訓」。奴婢って言葉初めて知りました。下男とか下女の事らしいですね。もっと分かりやすく言うと召使いなどですかね?

これもいわゆる使われている身分の低い人達、に対する事を考えろ、と言う話だと思います。

それを「主人がいなくなった場所で、奴婢達の中から代わり替わり主人の役をやっていく」と言う話です。この作りが面白いですね。

「主人何て幻だ」とも取れるし「考えてない奴婢たちには主人の役など出来ない」とも取れる。あり方を、正しい間違ってるだけではなく考えさせるのが上手いですね。

「主人がいない家を持つことは不幸だ。しかし家が主人を必要とすることはもっと不幸だ」と寺山さんは言ったようです。これの元の文は「英雄がいないのは不幸だが、英雄が必要とされる時はもっと不幸だ」と言う様な文からですね。寺山さんの本でどこからか集めた名言をまとめた物に乗ってました。これをもじったものですね。

これも通常は主人何て必要ない、もしくは必要が無い時が平和だ、と言う事でしょう。

 

ちなみに「奴婢訓」の出て来る役の名は、皆「宮沢賢治」の小説に出てきた人の名を取ってるようです。理由は分かりません。

ただ寺山さんは、宮沢賢治にも何か強い思いがあったのでしょうね。

そしてそこからアニメ「ピンドラ」は宮沢賢治になるのか、と分かる訳です。

もっとちなみに、宮沢賢治庵野秀明も肉を食べませんね。ピンドラはこの辺もかけていると思っています。

それに幻の押井守の「ルパン三世」は最後ルパンの姿は実は変装した姿で、変装を取ると次元だった、としたかったらしいですね。つまりルパンなどいなかった、ように見える様にしたかったそうです。これもこの戯曲の、主人などいなくて奴婢が装っていた事から取ったのだと分かりました。

 

手塚治虫の昔の大して面白くもない漫画を見ると、しかし「面白そうなネタはもうこんな昔からあったのだな」と驚きます。

流石に古いので、話としたらこなれて無いのですが、ネタは一流だと思えるのが手塚治虫です。

そして寺山修司もそうですね。

この戯曲だけでも、面白そうなネタの元になりそうなものがあふれてる気がします。

この辺の面白そうな内容を見付けてくる才能は流石ですね。

やはりもっと寺山修司は、皆も分析するべきだと思います。

どうも上っ面の面白そうな、顔の白塗りばかり目がいって無いでしょうか?

あんなのは、自殺するネズミ程度の価値しかありません。