号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

最終 シンエヴァ 感想

アニメ映画「シン・エヴァンゲリオン」たぶん最後の感想です。ネタバレです。

 

アマゾンプライムで放送が始まりましたね。

なのでここのブログに来る人も、エヴァ関係で染まってるようです。

私ももう一度見なおしました。

言いたい事は概ね既に言っているので、今回はほぼただの感想です。

 

アマゾンの評価を見ると「良くない」と言う人が多いですね。星1か2で四分の一位います。

ちょっと褒められ過ぎてる気もしてたので、安心しました。この方が健全ですね。

 

このアニメ、本当に不思議な作りです。

私も一回見たすぐ後は、とても良く出来ていると思いました。

しかし時間が経つと「ん?」と何か引っかかる。

で、また良く出来てるか? になり、いやおかしいのか? とまたなると言う、情緒不安定を誘うアニメです。

 

シンエヴァが気に入らない人は「思ってたのと違う」と言う事です。

これはその人の感覚なのでしょうがない。

しかし全体で褒められているなら正解です。

全ての人を納得させられる内容はないですから、ある一定数(7~8割くらいかな?)納得させれたら、それで作りとしたら正解です。

しかし、そう簡単じゃないのが、エヴァの面白さですね。

私は最近、ピンドラ考察関係で「破」を少し見直したのですが、これを見ると「普通に終わってほしかったな」と思います。つまりシンエヴァが気に入らなくなる。

しかしエヴァらしい、つまり精神的でありメタ的な物語だと思って見ると、これで正解な気がします。

そして始めから、寺山修司をしようと思って作ったとみると、この作りで正解な気がしてきます。

これはどんな物語か? と思うのか? が大事だと言う事です。それで評価が分かれる。

 

エヴァの初めの方は魅力的過ぎましたね。庵野さんが上手過ぎた。

普通のロボットアニメとしても、歴史に名を残すほどの作品でした。

だから初めのロボットアニメの感覚で最後まで行っても通るものだし、それが見たいと思うのももっともだと思います。

いやそっちの普通の少年ロボットアニメの方を、見たいと思う人の方が多いと思います。私もそっちも見たかったですね。

そして問題点は、嘘になる所です。普通のロボットアニメだと思っていたのに、途中から寺山修司になって行くから気に入らない。もっと言えば寺山修司だとしても、上手くも行って無かったです。

寺山作品は初めから「寺山作品ですよ」と強く言ってくるので、嘘にはならない。いやなら見なければいいからです。

エヴァもどっちかにするべきでした。普通のロボットアニメで終わらせるか、始めから変なメタアニメでやるかです。

ただ、この変で間違ったおかしな作りが「エヴァ的な何か」に長年かけてなって行きましたね。結果とみたら、これはこれで実験的で後世に問題提起を残した、面白い作品になりました。

97年に「ウテナ」で、その前の95年に「エヴァ」だと思ったら「よく挑戦したなあ」と感心しますけどね。新たな世界を開いたのは間違いがない。

庵野さんのコメントで「俺は馬鹿だよ。エヴァなんて作るから」みたいな事を言ってました。これは寺山修司に挑戦した、と思えば納得するコメントです。

 

ちなみに、一つの答えとして、やはり「ピンドラ」があります。

これはエヴァから十数年後の作品なので、やはり考えられている。

ピンドラも始めは「おチャラケ少女漫画風」だが、途中から「テロ等を表すシビアなアニメ」に変わって行きます。この作りはエヴァの真似です。イクニさんが一つの答えを出したのでしょう。

ピンドラだと始めのおチャラケたアニメより、後半の方が盛り上がります。つまり多くの人にとったら、後半の方が良くなるから「裏切られた」と思わないのです。

エヴァは逆なので、嫌われたのです。

 

普通に考えたら、やはりエヴァの作りは、よろしくない。

例えば、普通のロボットアニメとして終わらせる。その後、同じ時間軸を他の目線で見るスピンオフで、寺山作品をやるとかする方が良かったと思います。

もしくは逆に寺山作品で初めからやり、それとは別の枠で普通のロボットアニメをやるかです。

ちなみに、漫画版だと普通に終わるようなので、アニメと漫画で両方のやり方を示した、とも言えます。

つまり今私が言った事も既にやってるのですが、出来ればアニメでやってほしかったですね。

エヴァは、この魅力的な相反する二つの物を悪魔合体させるから、キメラの様な者が出てきて、文句を言われたのでしょう。可愛いアニメキャラだと思ったら、もう一つ別におっさんの顔も付いていた、みたいな感じです。

 

さて、シンエヴァを見なおしてみると、やはり壊していく作りですね。これは前に言いました。

少しずつ丁寧に誤魔化しながら世界を壊していくやり方です。

だからゲンドウとシンジが戦う時は、おもちゃの戦いの様です。母が買ってくれたおもちゃで戦う父と子です。母が亡くなってるから、ほほえましくないシーンですね。

分からない様に少しずつ壊していくから、最後全てが無くなる瞬間に文句もなくたどり着くのですが、よく考えるとなにか「騙されてるな感」が出てきます。

これも気に入らない点なのですが、寺山作品からのオマージュをやり通すなら、こうする以外ないので、しょうがないのです。

それが元々のコンセプトだから止められない。それがエヴァだからです。

 

細かな事で言うと、エッフェル塔、赤いですね。

これはサードインパクトの影響で、左翼化、赤化の影響を暗喩で表しているのでしょうけど、その他に東京タワーもあるのかな? と思います。

特撮物で東京タワーが倒れるのは、十八番だからそのオマージュでしょう。

そしてエッフェル塔を出す事自体が、ナディアの自己オマージュだろうと、誰かが言ってました。なるほどですね。

そしてナディアのエッフェル塔から、ピンドラの東京タワーに繋がるのでしょう。

もしかしたら庵野さんは、ピンドラの東京タワーも気にしてくれたかもしれません。

で、「レヴュースタァライト」も東京タワーになる訳です。

電車がよく出て来るのは、庵野さんのお気に入りか? もしくは寺山修司も関係してるのか?

ただこの辺から、ピンドラも電車、映画版スタァライトも電車、そしてマギレコ二期も電車ですね。

 

この映画、始めの方が、メッセージが良い感じに伝わりやすいですね。

初めを見ると「人生は思い通りにはいかないけど、悪くはない所にたどり着く話」なのが分かります。

ただ後半はゴチャゴチャして来て、他の事に気を取られ、色々見えて来なくなる。

アスカやレイはどうなったのか? とかカヲルは何なのか? 等と考えてしまうから、物語全体を見まわす事が難しくなってます。

ただこれは、最後でやるべき事が多すぎるので、しょうがない事ですが。

畑仕事をしてみたり、家族の事を考えてみたり、田舎の事を考えてみたり、好きだった映画、アニメ、物、事を思ってみたりして、

「どこから来て、どこへ行くのかを見失わなければ、自分を見付けられる」と言う話でした。

 

さて、最後に気に入らない所が見付かったので言います。

やはりラストですね。

まず前提条件として、最後のホームの向こうに子供のアスカやレイ等が見えた事は、たぶん「田園に死す」のラストのオマージュでしょう。その存在を否定しなくて、一緒に生きて行っても良いと言う肯定です。

そしてだからこそ間違えてると思いました。田園に死すでは子供の頃のしんちゃんもいるのです。その手前に大人になったしんちゃんがいるのにです。

だからエヴァのシーンでも、向こうに子供のシンジ君がいるべきだったと思います。アスカの隣あたりにね。

それで幻なのがはっきりする。もしくは別の世界でもいいでけど。

そうじゃ無いから、最後のアスカがどうなったのか? 等が気になるのでしょう。

ちなみにアスカは最後エントリープラグで射出され、ケンケンの家にたどり着いてましたね。これであの大人のアスカが、これからこの世界で生きていく事を暗示させます。

 

それとは別に、最後戦艦から逃げた人々も、あの湖みたいな所にたどり着いたと言うシーンがありました。(関係ないけどあそこはペンギンいましたね。ピンドラのペンギンはぺんぺんからですね)

しかしラストは人が誰も出てこない演出です。

これは消していくやり方だからでしょう。自然と皆消していく。

そして物語としたら、その方が格好いいからですね。全てを言わず、それをほのめかし、その後の事は皆で想像してね、って事でしょう。

確かにその方が後味が残り、物語としたら普通は正解です。

しかしエヴァ最後の物語としたらどうでしょうか?

何一つ心残りを残さず終わらせるのが、見てる人を現実社会に戻す正解だと思います。

最後の最後でブレた気がする。格好つけたのです。庵野さんっポイけどね。

 

ナディアの最後は見た筈なのに、何も覚えて無かったのに、最近気が付きました。

そして見なおしてみたら、ナディアの最後は野暮ったいのですね。

最後は皆の将来、十年後ぐらいか?、を出す。ナディアも子供がいて、他の人もそれなりに幸せに暮らしている、と言う話でした。

これは野暮ったい話ですが、実はこれで客は気にせず全てを忘れられる。面白かったなあ、と言う思いだけ残して。

それはキャラのその後を気にしないからです。そしてヒロインに子供までいるから、もうヒロインでもないのです。でも「まあよかったね」感は残る。

このナディアの終わり方が、正解な気がします。本当に忘れますしね。

 

寺山作品もそうです。映画「書を捨てよ」も「田園に死す」も「さらば箱舟」も全て最後現実に戻す。暗い話は嘘だよ、と安心させる。

さらば箱舟なんかは、最後が未来だとも取れるし、メタ的な嘘話だとも取れる内容です。最後は出て来た役者が、話内では死んだ人も含め、皆集まって記念写真を撮る。これも上手い具合に話上でもおかしくない気がするし、安心して忘れられる作品になる終わり方です。

映画「幕末太陽傳」の幻のラストでも、最後、幕末にいる筈の主人公が現在の大阪をかけて行って、その周りには現在の格好をした、今まで出て来た役者が見える、としたかったようです。

これが寺山作品のラストの元だと言われていますが、これも見てる人を安心させ、現実に意識を戻す魔法ですね。

 

つまりエヴァのラストに、他のキャラを全て出すべきだったと思います。

皆が第三村に着陸して、ぞろぞろ歩いて行くシーンがあってもよかった気がします。

そこにアスカやレイも、普通に大人になって村にいる方が良い。

これは野暮なラストになるが、それで皆が安心して終わらせられる。

そして最後のシンジが見てる皆を現実世界に戻す。でまとまった気がしますけどね。

 

とにかくロボットアニメで寺山修司とかをやろうとするからおかしくなる。

そもそも元のコンセプトに無理がある。

だからコンセプトを変える方が正しいきがします。さっき言った様に二つの作品に分けるとかね。

でもこの作りで行くと通すのなら、実験して挑戦するのなら、やはシンエヴァは良く出来ていたと思います。よくぞたどり着いたとは思います。

これが「オタク力」だと思っています。

誰に何を言われてもしつこくやり通す。いつの日か、そこに正解を見つけ出す。

アニメ等だけではなく、科学者などもそうですね。

その実直さの向こうに、たどり着ける場所があるのだと気が付かせる物語でした。

 

後世の物語の作り手にとったら、色んな角度から見て、良い悪い含め、それぞれの要素がためになる作品になったのは間違いが無いですね。

上っ面だけではなく、もっと深く分析をして行っていい作品だと思います。