号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

物事の考えの基本

物事の考え方の基本を言います。

個人的な考えです。疑って聞いてください。

 

建物は基礎が大事です。それがしっかりしてないと、どんな立派な建物を建てても傾いてしまいます。

物事を考える事も基礎になるものが大事です。

つまり、考える事には、基本になる前提があると言う事です。

それを踏まえてからでないと、何を論じても意味が無いです。

 

基本の話だけ言っても堅苦しくなるので止めてましたが、ダメですね。

やはり基本を無視すると話が通じないので、この辺の事はまとめておくべきでした。

 

私が見付けられてないだけかも知れませんが、どうも世の中、考え方の基本から言う人が見当たりません。

基礎をしっかり示さないで、建物だけ豪華に作るように論じる人が多い気がします。

論じている人の方から見ると真っ直ぐ綺麗に立っているのでしょうけど、他の人は横から見ているので、傾いているように見える。そんな事もあります。

見る方向、つまり目線を変える事を知る事が必要ですね。違う角度から見ると、まったく違う物に見える物もあります。当たり前な気がしますが、意外と自分からの方向からしか見て無い人が多いです。

のび太君の家、二階建ての何処にでもありそうな家です。この家は狭いか広いか?

日本でもそうですが、発展途上国の映像でも、狭い家に多数の人がぎゅうぎゅう詰めで住んでいる人もいます。そういう人には広いですね。逆に豪邸に住んでいる人には狭い家です。当たり前ですが狭いか広いかは人それぞれです。

何かの物の色の事です。それは赤色か? 青色か? と尋ねられても、紫の時もあります。赤紫も青紫もあります。そもそも緑色とか黄色の時もある。例えば、多様な色から出来た景色を見て、それを赤か青かと聞くことにどれほどの意味があるのでしょう? これも当たり前な筈ですが、どっちか決めろと言う人が多くいます。

当たり前な筈なのに分かってない人が多いですね。なのに、まずその当たり前から話す人が見当たらない。

つまり基本から始める必要があるのに、その当たり前な事を言う人が見当たらない。

世界は分かりませんが、日本は当たり前が出来ないし、分かってない国ですね。

当たり前が出来ない国に未来は無いと思いますが、どうでしょうか?

 

まず言う事は、【物も人も事も、多面性があります】

アメリカは良い国か? 日本は良い国か? と言っても良い所もあるし悪い所もある、としか言いようがないですね。

人もそうです。おおむね人は良い所と悪い所があるものです。どっちかしかない人はまれです。

資本主義、民主主義とかのイデオロギーも良い悪いがあります。

神を信じない人にとっての宗教だって、まるっきり意味が無い物でもない。無宗教の人だって、いざって時には神頼みしますし、正月に神社に行ったりします。

なのに男とは女とは、と論じる人がいたりします。昔テレビで「女はこんなふうに抑圧されてきた」と言う人に「いや女はそれすら利用して上手くやってた」と話してた人がいましたね。人口の半分は女なのだから、女と言う烙印を押され困ってた人も、それを利用してた人も両方いるでしょう。それを踏まえないで語っても意味が無い事です。

極端に偏ったもの以外は、多面性がある事が前提条件です。

 

それに多面性の中の一つの面を取ってみても、それらには量があります。

私がずっと言っている、【量の問題】です。

右か左か? と聞く人がいますが、真ん中もあるのです。

しかも右から左にグラデーションの様に、無段階にあるのです。

薬も適量飲むのは良いが、たくさん飲むと死にます。醤油だって毒でもないのに一升飲むと死ぬようです。

子供に勉強しろと言うが、ずっと家に閉じこもって勉強だけしている子には、たまには外で遊んで来いと言いますよね?

共産主義は亡んだ。資本主義が正解だと格差社会が広がっていますが、騙されてはいけません。

たぶん多くの国は表向きは累進課税ですね。それを推し進め、年収1000万の人を9割税金にすると手取り100万です。年収100万の人は可愛そうなので税金無しにする。すると手取り100万です。ここで共産主義です。資本主義でやっている累進課税を進めた突き当りに共産主義があるのです。ではこの割合のどこを正解とするか? と言う問題です。それを緩くしてるから格差が広がるだけです。資本主義と格差是正は成り立つのです。騙されてはいけません。これも量の問題なのです。

他にも例えば、幸せは質の問題です。でも幸せを得れる状況を作り出す為の物は、量の問題では無いですか? お金も量です。友達や家族と過ごす時間も量でしょう。今はテレビがあっても洗濯機があっても幸せは感じないけど、昔はそれだけで幸せだった筈です。そもそも昔は食べ物があるだけで幸せだった筈で、それから百年もたってないのです。相対的な量の問題です。

過ぎたるはなお及ばざるがごとし、です。考えてみて下さい。少なければ悲しいが、多ければいいってものでもない。今は食べ物とか色々手に入ります。でもだからと言って多くの人は幸せでは無いのです。なければダメだが、あればいいってものでは無いと言う事です。ほどほどで良い物、ほどほどが良い物があるのです。

はっきりした正解は無いですが、大体は真ん中位を目指すべきですね。

 

多面性はカラフルな絵や写真のような物です。

その中の色それぞれに段階があると言う事が、量の問題です。

赤の点一つとっても、明るい赤から暗い赤、それのほぼ白に見えるのから黒に近い赤まである。

国も人も事もカラフルなのです。それを一色に塗りつぶしてもそれは何も表してはいない。富士山の絵を一色で塗ったら、それは富士山では無い。

夕焼けをオレンジや赤一色してしまったら、夕焼けでは無い。実際の海を見て、絵の具を解かした様な青一色だったら美しいとは思えないですし、気味が悪い筈です。

ほとんどの物がカラフルなのです。リンゴを絵で伝えたいのならリンゴを書くべきです。それを赤く塗った紙を見せて「これはりんごだ」と言うから、話が通じないのです。

絶対的な物は無いのです。リンゴは赤いからと、赤く塗りつぶしても、それはもはやリンゴでは無い。絶対的な一色で表せるものなど無いのです。

 

しかし色んな面があると言っても、【少数の要素が、今この話の中で必要か?】と言う問題があります。

「男の方が女より腕力が強いから暴力はいけない」と行った時に「そうとは限らない」と言う人がいます。確かに女の人の方が強い時もあるので、そうとは限らないのですが、一般論を言ってるその時に、その少数意見を持ち出す意味があるのか? と言う事です。

物事は色々な面があるので、どうとでも取れます。

だからこそ一般常識を前提で話すしかないのです。ここでは男の方が女より普通は腕力が強いと言う常識の事です。

話が通じるには共通の前提条件が必要だと言う事です。数学で言えば1+1=2だと言う前提条件があるから同じ答えが出せる。

 

それでは、その前提条件があってるのか? 問題です。1+1=2を数学的にあってると証明するのはとても難しいそうですが、出来ない事でもないようです。しかしとても大変であり時間がかかる。

つまり数学の問題を解く時に、毎回足し算の証明からやれるか? と言う事です。無理ですね。

だから数学の場合は正解があるので、それを前提条件としてしまおうと言う事です。1+1=2とは常識として決めてしまうと言う事です。

しかし多くの他の事は、前提条件に絶対の正解は無いですね。だからこそ一般常識に訴えるしかないのです。

 

【実用的に一般常識は必要】

裁判などでは細かな事にいちゃもんを付ける人がいるから、一般常識があるだろうと思われる裁判官がいると言う事です。

「人を包丁で刺せば死ぬ可能性が高い」と言う事に対し「いやそうとは限らない」と言う人が必ずいます。でもこんな事から証明していたら裁判がいつまでも終わりません。

だからまずあってるだろうと言う常識を持った人が、裁判官としているのです。

もちろん常識かどうか分からない専門的な事もあるので、その時は裁判に専門家を呼びます。大学教授とかを呼び、専門家の意見を聞いて判断するのです。

 

裁判ではなく、会話や討論の時も同じで、多くの人が思ってるだろう一般常識があってはじめて成立するのです。1+1=2とあって始めて数学が出来るようなものです。

たまに話に勝つために常識を捻じ曲げて来る人がいます。3階から飛び降りれば死ぬ時もあると言っても「大丈夫だよ。人によるよ」なんて言う人です。こういう人は1+1=3だよと言ってるようなもので、話が通じません。だから話す意味が無いですね。だから私はこう言う人とは話しません。

もちろんこの人が勝つために常識を捻じ曲げているのか? ただ常識が無いのか? は分かりませんけど、どっちみち話す価値は無いのです。

 

ただ物がそれほど簡単では無いのは【一般常識があってるとは限らない時がある】と言う事です。

例えば数人で集まっていて、一人以外の皆が「こうだ」と言っても、そこの多数の意見は世間からの一般常識からは外れている時があります。例えば、宗教やイデオロギーが同じ人の集まりなら、そっちに傾くことがある事は当然ですが、それが世間の一般常識とは限らない。

では日本とかの大きな枠組みなら、世界の常識と同じか? と言われれば同じとも限らない。過労死なんて日本独自の言葉らしいですね。数十年か数年前までは日本では死ぬほど働く事が普通であっても、世界では同じでは無かった筈です。

ではもっと大きな枠組みなら? 地動説が言われ始めた頃はまだ、天動説を信じる人の方が多かったですね。それにキリスト教の教えの国々では地動説を正しいと言ったら捕まったりしたそうです。つまりその時代において、世界の多くの国が信じた事が、正解とは限らない時もある、と言う事です。

 

ただ地動説の様にそれがあってる内容としても【一般常識から外れれば、それが例え正解でも通じない】と言う事は事実です。

だからあってると言うのならそれを説明するべきですね。地動説が正しいと説明してまわるべきです。今の時代は説を言っても捕まる事は先進国では無いでしょうし、ネットもあるのである程度は正しい事を伝えられる時代です。それで一般常識を変えて行く努力をするべきです。

常識自体を変えられ、始めて通じるものだと理解する事が必要です。「正しいから通じる」と勘違いしていたらいけません。

それに「正しいのに通じないのは相手が馬鹿だからだ」とか言ってたら、いつまでも通じない事には変わりは無いのです。

 

しかし【少数の要素だとしても、それが大事な時もある】

ある場所に観光で行く事になっていて、そこが一年で一回雨が降る土地なら傘はいりませんね。

しかしそれが映画のロケ地で、スケジュール的にその一日しか取れないし、そのシーンで晴れる事が大事だ、と言う時ならそれを気にするべきです。

さっき言った「男の方が女より腕力が強い」と言う話も一般論ならそれでいいが、実際に起きた事件で「身長160で80歳の老人が身長180の女を叩いた」と言うのなら、少数であっても気にする必要があります。

つまり「その少数がこの話の中で必要な要素か?」と言う事が大事なのです。そして、それにも常識が必要です。

必要が無い時に少数を持ち出す人は、常識が無いのか? またはまともに話し合う気が無い人です。だからその人は話す価値のない人です。

 

ちなみに、もし私がそういう人と話す時があるとしたら、第三者が横で聞いてる時です。

そして第三者の為に話します。向かって話している人には話しても意味が無くても、第三者には言いたい事が分かるだろうと話します。それなら意味があると思います。

 

【正解が必ず一つあるとは限らない】

学校教育とゲームの弊害だと思いますが、皆が理解できる正解が一つあるので、必ず最後は通じる筈だ、と持ってる人がいますね。

しかし多くのものはどうとでも言えるものです。だから通じるとは限らない。そもそも完全なる一つの正解は、無い時が多いです。

昔、オームが弁護士家族を殺した事件の時、バッチを落としましたね。その事を言われた教団関係者は「誰かが私達をおとしいれようとして、教団のバッチをわざと落としていった」と言いました。これは確かにそうで、バッチだけでオームの犯行とは言えないし、おとしいれようと誰かがやる場合もあるでしょう。

しかし「誰かがおとしいれようとした」と言うのは、どの場合でも言えるのです。

例えば誰かが誰かを刺し殺す。それを誰かに見られる。見た人が警察に「この人が刺した」と言う。「え? 本当に私でした? その時の服は? 靴は? 覚えてない? なら顔も良く見えてなかったんじゃないのですか? 夜でしたよね。近くでは無かったですよね? なんで覆面もかぶらず犯行したのでしょう? 世界には似ている人が三人はいると言います。誰かが私になりすまし、おとしいれようとしたのでしょう」とかなんとか、なんとでも言えるのです。

他にも例えば、人が広場で頭から血を流し死んでいる。近くに血の付いた石が転がっている状態を見て「隕石が落ちて来たんだな」と思う人はまずいない。でも可能性はある。

屁理屈でも良ければ、なんとでも言える。そしてその可能性も無くは無いのです。だからこそ完全な正解が無い場合が多い。

しかし、隕石の話なら可能性はあるが、しかし低い可能性です。だからまずは「誰かが石で殴り殺し逃げた」事から考えるべきですね。

オームの話ならバッチだけで犯人だとは言えないが、違うと言う理由ではない、と言う事です。

「私は正解を知っている、だから相手を説き伏せれる」なんて思ってる人が多いですね。聞く気のない人が相手の場合は無理です。自分が納得するだけで良ければ、理由なんてどうとでも付けれるからです。

 

正解を後付けする人がいますね。結構多くいますよ。悪い人だけでは無くてね。

自分が思った事、やりたい事が正解だと言うように話を持っていこうとするのです。そして自分で屁理屈を言って「ほらやはり私の行動、意見は正解だ」とする人がいる。

これは自分自身に言い聞かせてるのでしょう。だからおかしな理由なのに、本当に自分があってると思ってる人もいます。だから面倒くさいですね。

こういう人は、多くの事を言っていくと支離滅裂になっていきます。その場限りで言ってるので、多くを言うと整合性が取れなくなってくるのです。

昨日と言ってる事が違う、と言う人です。いるでしょ? そこら中に。

このタイプの人で、しかも決して意見を曲げない人も、話す価値が無い人です。

こういうタイプの人は気を付けましょうね。価値が無い人だと、まともな人にはバレてますよ。

 

【絶対の正解は無く、可能性で計るしかない】

話し合いでは、絶対の一つの正解はまずない。

一般常識に照らし合わせ「可能性が高い方が、どう言う時にどの位可能性が高いか、と言う共通認識を、皆で模索していく」それしか出来ないのです。

 

ちなみに、私は誰かの事の文句を言っていると、他人に「あの人嫌いでしょ?」と言われる事があります。でもそうだとは限らない。

私は嫌いな所を言っているのです。その人すべてが嫌いでは無いのです(嫌いな時もありますが)。

国でも物語でもそうで、文句を言ってるからと言って全否定ではないのです。

ただ悪い所は悪いと言うべきだ、と言う事です。

物事を正確に見つめて、そこから「さて、どうするか?」を模索していくべきです。

 

 

2023年10月28日 追加

 

数年ぶりに見直してみたら、何と分かりずらい文なのでしょう。

なので大事な所だけ、自分で補足します。

 

【物事は多面性がある】

【世の中の問題のほとんどは、量の問題である】

【絶対の正解など無い】

【なので全ての答えは、あっている可能性で見るしかない】

【実用性から、一般常識と言うのが必要である】

 

と言う事を、長々話していたのです。

 

全ての事に多面性があると思えば、単純に良い悪いでは表せないと分かると思います。

一つ位の物や事に、多数のパラメーターがあり、それぞれに違う値が入っている複雑なものだと言う事です。

 

それなのに、複雑な物を単純化し過ぎたら、それはもう何も表してないと同じです。リンゴの絵を単純化して赤一色に染めても、もはやりんごではない。

 

そして問題のほとんどは、質の問題ではなく、量の問題だと、強く意識しましょう。

右か左か? ではなく、その途中のどこか? と言う問題だと言う事です。

 

絶対の正解など無い。100パーセントの正解は無いのです(ほぼ100%あっているはありますが)。

 

なので全ては可能性の問題だと言う事です。

「この結果から50パーセントあってる」となった後「この違う結果からも50パーセントあっている」となれば「二つかけて75パーセントあっている」となると言う事です。

ただこれも決して100パーセントにならない事は知っておきましょう。

 

物や事には、多数のパラメーターがある。

そのパラメーターにも「マル」か「バツ」の二択ではなく、数値が、例えば0から100まである「量」で入っている。

その上その量の数値が、刻一刻変わる。明日には変わっている。

しかも、その数値が固定値ではなく、確率で入っている。「50を真ん中にした正規分布の確率で決まる」等です。

この様に、複雑な作りで、世の中のほとんどの物や人や国や問題は出来ていると、理解しましょう。

 

一般常識が必要です。じゃないと話にならない。

上でも言ってるけど「ナイフで刺せば死ぬ」と言っても「そうとも限らない」と言う人と、どうして会話が成り立つのだろう?

 

この一般常識と言うのが曲者なので、上でも長々話したのです。

もし、この一般常識の方がおかしいと言うのなら、それを変えるように頑張るしかない、と言う事です。

 

ちなみにこの国一般常識はテレビを見るのが一番です。

テレビの影響力が大きいから、テレビで言った事が一般常識になった、と言う意味でもあります。

でも、もうみんな分かっている様に、テレビの一般常識も怪しいので、疑いましょう。