個人的な感想になりますが、シンエヴァの点数は100点です。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」感想、考察、ネタバレです。
ただし前置きはあります。あくまで「エヴァンゲリオン最後の映画」と言う意味での100点です。
押井守さんが映画「 シェイプ・オブ・ウォーター」に98点を付けました。残りの2点は人がどんなに追ってもたどり着けない2点だそうです。
これが1点でない所が押井さんの性格を表している気がします。
何かの偶然が重なり、奇跡的にあと1点とれたとしても99点でしかない。
つまりどんなに奇跡が重なっても100点は無いと言う事だと思います。
岡田斗司夫さんはこの映画シンエヴァは99点だと言ってました。私もそう思います。
テレビ版エヴァからの25年の呪いや考えや気持ちが合わさり、沢山の人の思いが重なった1点が加わり、押井さんが言っていた人が普通たどり着く最高点98点+1点の、奇跡の99点だった気がします。
100点はありえません。それは完璧だからです。それは人の点数ではない、神のみに許された点数です。
テレビ版エヴァは「少年よ神話になれ」と歌ってました。
しかしシンエヴァでは、人として生きるのが正解だと言う事にたどり着いた話です。
人として生きて行き、最高点数が99点なのです。
だから神の99点は、人として生きる事の100点なのです。
完璧ではない事も認めた人としての満点が、映画シンエヴァンゲリオンでした。
エヴァの考察は、流石に多くの人がやっています。
見ると「なるほど」と言うものも多くあります。
私は同じ事を言ってもしょうがないので、なるべく違う事を書いていこうと思います。
まず、岡田さんが言ってたのが「庵野さんはやりたい事があり、それに理屈をつけて行く」と言う事です。私もそうだと思いました。
分かりやすいのが、始めのパリの所で上からピアノ線みたいなものにつられている戦艦等です。昔の特撮のオマージュをしたいだけで、理由は後付けですね。
しかしそれが成り立つ設定です。つまり異世界からの不思議な科学力がある世界です。
だから理屈などあってないようなものです。なんでもやれる世界なのです。
だから色々な考察をしている人がいますが、実はあまり意味は無いのです。なぜならどうとでもなるからです。
これはなぞなぞですね。作者が作ったなぞなぞを説いてみろ、と言うやつです。
意味はないけど確かに面白いなぞなぞではあります。だから単純になぞなぞとして楽しめばいいのです。
ただ表の答え、つまりこの世界での答えの他に、暗喩(メタファー)があります。
例えばシンジ君は概ね庵野さんの事だろう、と言うやつです。
この暗喩はこの映画では満載です。そもそもが物理法則がはっきりしない世界であり、精神が物質化する世界なので、暗喩なのか? 物語上の事なのかがあいまいに思えてきます。面白いですね。
暗喩まんさいなので、暗喩の方が段々見せたい物であり、表じゃないのか? とさえ見えて来る映画でした。
私は面白いなぞなぞ的表の謎解きは誰かに任せて、おもに暗喩の方を考えて行こうかと思います。
登場人物
シンジ
多くの要素は庵野さんです。子供の要素の庵野さんです。ただ他の人の要素も含めれます。最後アスカにさよならを言う。アスカはアニメのキャラの化身であり、アニメキャラ好きだったけど奥さんがいるから家に帰る、と言う事です。
(21年4月8日追加、彼は今回の最後いい子過ぎましたね。これは「終らせる意志」の象徴になったかのように見えました。では庵野さんでは無いのか? と言うとそうでもない。何かを大人として期限まで完成させる時は、自分が隠れて「終らせる意志」の象徴に見えてきます。だからあってますが、多くをしょい込んだ時の大人は、子供から見るとつまらない常識人に見えるだろうなあ、とは思いました。ただ常識的でない25年があったからこそ、エヴァの異端児つまらない常識人が終わりを告げる)
ゲンドウ
大人の要素の庵野さんです。だから「アニメを作らないお前は価値が無い」と大人庵野さんは子供庵野さんに言い「なんで作らないといけないんだよ」と子供庵野さんが答えてたのが、エヴァの始めの方の話なのです。
(21年4月8日追加、ゲンドウに庵野さんの父の面影はあるのか? まあ、あるはあるでしょう。しかし庵野さんは歳も取り、自分に父の面影が見える事に気が付く。だからゲンドウには庵野さん自身と父の両方があるでしょう)
レイ
自分を守ってくれる母代わりのコピーです。そして複製できるフィギュアです。
この子は最後髪が伸びてました。つまり人になったのです。物語上ではこの後生まれ変わっても人として生きて行けると言う事でしょう。
それと例えば10年家にいた熊の縫いぐるみはもはや家族みたくならないのか? と言う事です。レイはフィギュアであり、もちろんアニメのキャラです。しかし長年いたぬいぐるみが家族みたく思えてくるのが人なのです。だからこの子は25年皆に愛されて、もはや人みたいな存在になったと言いたいのでは無いのか? つまり肯定です。この子が好きなオタクの人達の気持も尊重してるのです。間違ってはいないし否定はしないと言う事です。
(21年4月8日追加、レイは誰なのか? が謎でした。もちろん多くの人の混合物だとは思ってましたが。
長年持っている縫いぐるみは誰かになって行きます。その人自身の分身だったり、友達だったり、親だったり、恋人だったりです。これがレイですね。元は何もない0(ゼロ)であり、だからその後足していけばどの数字にもなれる。
だからレイは皆の作り上げた気持ちの何か全てであり、見てる人の数以上いると言う事。
なので見てる人自身も表し、庵野さん自身も表す。
一人で全てであり、だからエヴァ的であり、このキャラこそがこのアニメの真骨頂なのが分かってきました。
黒アヤナミが死ぬ理由は色々あるでしょうが、これで第3村で生まれるから死まで、つまり人生を表した事になります。そしていつか死ぬとしても何かを残す事になり、今やってる事は無駄では無いと言う、歳をとった庵野さんの心境だったのかも知れません。つまり全ての人の代弁者になれるのが綾波でした。)
アスカ
アニメに良くあるつっけんどんだけど主人公が好きになる子ですね。アニメのキャラの化身です。
この子は最後ケンスケと結べれるのを匂わせます。気に入らない人がいるようすが、もうよくないですか? 25年もたってるのです。物語上でも28歳です。アイドルとして長年皆に愛され頑張ってきたので、もうお相手を見付けて卒業で良くないですか?
(21年4月8日追加、考えると、アスカのトラウマもまた庵野さんの気持が入ってたかもしれません。作り物は作り手の分身になりがちですからね。そうだとして、シンジが庵野さんだとしたら、アスカだと自分の作り物かつ分身なので救えないのが分かります。だからマリなのでしょう。マリだけが、最後シンジ君とトラウマを話し合い解決しませんでした。内なる話し合いがいらない存在であるマリこそが外からの使者で、エヴァの世界に来て庵野さんを見付け、そして連れ出してくれる存在なのですね)
マリ
庵野さんの奥さんで漫画家の安野モヨコさんです。モヨコからモモコになりピンクのプラグスーツだそうです。だから最後シンジ事庵野さんが選ぶのはマリなのです。
岡田斗司夫さんが言ってた面白い事は、マリはアスカにマウントを取りに行くと言う事です。アスカを好きになりそうなシンジを奪うためにアスカと戦うのです。さっき言ったよにアスカはアニメ等のキャラの化身です。漫画家のモヨコさんはキャラにはマウントがとれるのです。しかし漫画家だからこそキャラも好きであり、だからアスカと仲も良いのです。
シンジ君を「ワンコ君」と呼びます。岡田斗司夫さんは、モヨコさんは庵野さんを犬あつかいしてるように感じるようです。確かにNHKのドキュメント番組で、モヨコさんの口調に出てましたね。ワンコ君は、庵野さんの自虐ネタですね。
(21年4月8日追加、ネットで書いてあったのが「エヴァの世界は庵野さんの分身で出来ている世界だ。そこに外からの存在マリが加わる事で、現実と和解する」と言うような事が書いてありました。なるほどです。マリは庵野さんではないスタッフが作ったキャラのようです。そして中身はモヨコさんです。そしてイスカリオテです。全てが外の存在を表します。つまりマリもモヨコさんだけではなく、色々な意味の集合体だと言う事です。自分以外の存在と手を取り、実写の外に出て行くラストですね)
カヲル
一番の要素はイクニさんです。でも庵野さんの要素も入ってるでしょう。だからなのか、カヲルはゲンドウでしたね。この辺のシンジ、カヲル、ゲンドウ、レイ等は複数の混合物だと言う事です。だから時に庵野さん、時にイクニさん、時に沢山の人の集合体になったりします。この辺の多様性を認識しておかないと、この物語は分かりませんね。
カヲルは渚で海と陸の間の存在だと言ってました。この意味は良く分かりませんでしたが、海側が人類と逆の側、例えば使徒、なのは分かりました。だから三波(レイ、映画版アスカ、マリ)はコピーであり、死ぬと使途が死ぬように光の十字架が出て来るのですね。
(始めは一人で間の存在かと思いましたが、両方入っている方がしっくりくる気がしました。半分はゲンドウなのは間違いがないので、残り半分は何か? になります。
一つはメタファーとしてゲンドウ=庵野さんとイクニさんのハイブリットだと言う事。
21年4月8日、追加
ネットでゲンドウとユイのハイブリットか? とありました。その方が自然ですね。ゲンドウがユイと一つになりたいと思う気持ちから作られた。そしてそれは子供であるシンジ君その物じゃないですか。ゲンドウは自分とユイが一つになった証が既にいる事に気が付き、それで納得して消えてった。
となるとカヲル君は両親でもありシンジ君(もしくは兄妹)でもある。どっちであってもだからシンジ君を全肯定する存在でした
21年8月19日、追加で訂正、しつこくてすみません。
見なおしたら、単純にゲンドウのコピーかもね。それで役割が使徒と人をつなぐ役だっただけかも? 元第一使徒がつなぐ役だったとすれば、ここにエヴァの謎の神の威光が感じられ、神のいる国の人でも見れる話になると言う事なのかな?
レイとカヲル、シンジ君の二人の親のコピーが、ずっと助けていたと言う事になる。ここに実は親の温かさがあった、と言う話につながる。そうなるとピンドラのペンギンの正体もここからと言う事か。
それと海と陸とはセカンドとサードインパクトの事で、暗喩的にアメリカとソ連になる。右派と左派両方の間が丁度いいと言う事であり、これで寺山作品のオマージュとしての答えも表していると言う、よく出来た作品だと言う事。)
主要キャラ、皆お相手を無理やり見つけてエンドです。
実際の世界の見てる人も、自分の伴侶を見付けろと言うのです。それが本当の幸せだと言うのです。
それと同時にキャラの皆が幸せになるのが、終わらせるやり方になるのです。それで見てる皆が、物語を気にしなくなるからです。カミーユがそうですし、叛逆の物語でもそうでした。殺しても精神崩壊でも気になってしまい気持ちが終わらないのです。逆に、皆の幸せが、皆の終わりになるのです。
ネットでのコメントで「今更伴侶を見付けろと言われても」と言ってる人がいました。
例えば、ディズニーランドは喜ばし安全に家に帰すのが仕事です。その中に「家に帰っても家族もいない。ここで暮らしたい」と言う人がいたらどう思うのか? 家に帰らすでしょ? その人の面倒を見るのがディズニーランドの仕事ではない。そしてエヴァも同じです。喜ばし安全に帰らすのが仕事なのです。その後は自分で何とかするしかない。あまえるな、と言う事です。
さてまずは旧エヴァからです。
旧エヴァは全てを否定する物語に見えます。
他人も作り物も自分さえも否定する。そして全てぶっ壊しぶっ殺す、そんな物語です。
それを庵野さんは当時、新しく、格好良く、魅力的で、素晴らしいと思っていたのでしょう。
つまり子供だったのです。
エヴァQの始めの方で、シンジ君は「お前のせいだ」と言われます。しかし何が悪かったのかは言ってもらえませんでした。
そして「戦う」と言っても「お前は何もするな」と言われ、それでもまだ何が悪かったのか説明してくれません。
ここの演出がしつこく鬱陶しかったのが印象的でした。なぜ誰も何も説明しないのだろう? と思っていました。
しかし今思えば、ここのシンジ君は庵野さんだったのですね。
テレビ版エヴァで最後訳の分からない事をしました。その後の始めの映画版でも訳の分からない事をしました。
結果ぼろくそに言われ、庵野さんはどうでもよくなり、死のうかとも思ったようですね。
庵野さんは良かれと思ってやったのです。しかし皆にお前のせいだと言われる。そしてたぶんその後何かやろうとすると「お前はまた壊すから何もするな」と言われたのでしょう。その事をエヴァQでは表していたのです。
これは文句です。そして皆に対する攻撃です。やばいですよね?
エヴァQの後で庵野さんは精神的に病んでしまったようです。ここを見るとその片鱗が見えていたのですね。
私はそれでもテレビ版エヴァは庵野さんのせいだとは思っているのですが、しかしそうだとしてもなぜ悪かったのか? どう悪かったのか? は言うべきでしたね。
それを誰も言わない。いや言えないのです。皆そこまで考えて無いからです。だからただ庵野さんに文句を言ってたのでしょう。
せめてもっと年上の大人が言うべきだしたが、大人もまとまった考えが無いのがこの国です。だから上手く説明が出来なかったのでしょう。それがエヴァQから見えますね。
私は前から物語もコミュニケーションだと思っています。
一対一で話し合ってるのはコミュニケーションだと分かりますよね?
それでほぼ一方的に片方が話したとしてもコミュニケーション能力が必要です。
では一対二では? 一対多数では? 一人がカメラに向かい話し、多数がテレビで見ていたら? それが録画でとって、多数は後日見る物だとしたら?
これらにコミュニケーションが必要だと思えたのなら、じゃあ物語では? 同じでは無いでしょうか?
コミュニケーションと思えれば「自分は良かれと思った行動だが、皆が怒った」とすれば問題が自分にあったと思うのが普通です。
「良かれと思った」とか「格好良いと思った」とか「先進的だと思った」等は関係が無いのです。多くの相手が怒った時点で失敗なのです。
旧エヴァは庵野さんは良かれと思ったのでしょうけど、皆が怒ったのなら失敗なのです。正しかろうか間違っていようが内容がどうだろうが、何も関係が無いのです。
これは逆説的にシンエヴァにもあてはまります。これを良くないと言う人が少数いるみたいですが、多くが喜んだ時点で物語としては正解です。
ただ個人が勝手に自分にとったら失敗作だった、と言うのはかまいません。それは自由です。しかし自分が気に入らないから失敗作だった、と言うのは世間では通じません。
ちなみに「嘘」もあります。これはその時は相手は喜んでも、後で怒るものです。つまりその時だけ喜んだから良いと言うものでも無いのです。「君の名は」はうけましたが、少年や少女が20年後みても、まだ素晴らしいと思えるのか? と言う事です。もし多くの子供が20年後にも「君の名は」を褒めていたら、私が間違っていたと言う事です。(いや私も「君の名は」はラスト以外は嫌いじゃないですよ)
今まで否定していた事の良さに気が付き、肯定をする事を始めます。
これは自分の肯定にもなるのです。
そして皆が喜び、自分の幸せにもつながります。
これが全ての人の正解なのです。
私は今回改めて考えてみて、庵野さんは富野さんににているな、と思いました。
富野さんはガンダムで成功します。しかしその後ガンダムほどは上手く行かず病んでいきますね。
しかも元は実写映画を作りたい人で「アニメなんて」と思ってる人でしたね。
アニメに溺れる子供を嫌い、アニメを作りながら、そこに留まらないようにする為にキャラを殺していきました。
これは自己矛盾です。魅力的なアニメを作り、その作り物に溺れる人、戦争に魅力を感じる子供を毛嫌いします。この相反する気持ちが富野さんをおかしくして言った様に思えます。
そしてZガンダムでは主役級キャラ、カミーユを精神崩壊して終わらせます。
その後全くうけなかった1994年のⅤガンダムでは初めの方からキャラを殺していったようです。この頃はもう駄目だったのでしょう。
そしてこの後で精神を病んで、一回アニメから退きます。
しかしその後、1998年のアニメ「ブレンパワード」で復活するのです。
しかしだからこそエヴァの最後で投げ出したように見え、皆からけなされました。
そして庵野さんは、エヴァの後におかしくなっていったようです。
そもそも庵野さんは富野さんの作品も好きでした。特にⅤガンダムが好きだったようです。富野さんが病んだ作品であり、あとで「あの作品は失敗でなかった事にしたい」とまで言った作品を褒めたのが庵野さんです。この時点で庵野さんの未来は決まっていたのです。
テレビ版エヴァのラストは、描いてないですが「病院で寝てるシンジ君が頭の中で皆に「おめでとう」と言われている話」と見ても、通りますよね? つまりカミーユと同じ精神崩壊エンドだったのです。
問題は庵野さんは「富野作品はⅤガンダムで最後だ」とⅤガンダムDVD販売のコメントで言ってたようです。
つまりこの後の復活した後の富野作品は否定していたと言う事です。
ここで間違えた。気が付かなかったのです。富野さんが何に気が付いたのかを。
富野復活作「ブレンパワード」では植物とか自然とかを思わせる物や名が出て来ます。そして農業を物語上やり始めます。そもそもが家族の問題の話で、家族は大事だと言う話です。
これは基本に戻ったのでしょう。どんなに未来に行っても、昔ながらの人としての基本の生活に、人としての安らぎがあるのに気が付いたのです
それにオープニングテーマの絵は女の裸ばかりです。これも生殖を諦めアニメばかり見ている人に「異性に惹かれると言う基本が生きる上で大事だ」と言いたかったのでしょう。
異性に惹かれ、そして結婚して子供が生まれる。そんな普通の生活に、人としての安らぎある生活がある、と気が付いたのです。
この「ブレンパワード」の事を聞くと気が付きますよね? これはシンエヴァそのものじゃないですか。つまり庵野さんも最後ここにたどり着いたのです。
しかしたぶんエヴァQの時もまだ富野さんのたどり着いた場所に気が付いてなかったのじゃないでしょうか? 庵野さんはQの後に精神的に病んだようなので、そこで同じく病んで復活した富野さんの理由に気が付いたのかもしれませんね。(もしくは悩んだ結果、同じ所にたどり着いたのかもしれませんが)
たぶん気が付く前の庵野さんは、ブレンパワードとかの富野さんを見て「年取ったな」とか「日よったな」とか「つまらない当たり前の事を言う人になったな」とか思ったのじゃないでしょうか?
そう「当たり前の価値、重さ」に気が付いてなかったのです。
親が子供に「体に気を付けて」とか言います。
あまりしつこく言うと「分かってるよ!」等と怒るのが子供です。
では分かっているのか?
知ってはいる。頭では体が大事だと知っているのです。
しかし気持ちでは分かって無いのです。悟ってはいないのです。
体が大事だとは、大人になり体を壊して行ったり、身内が亡くなったり、新聞などでちょっとした事で死ぬ人もいる事等を知るようになって始めて「心」で大事さが分かってくるのです。
何が分かってないかを分かって無いのが、分かってない人の特徴です。
子供でも、自然が大事だ、食べ物が大事だ、異性が大事だ、家族が大事だ、それは頭では知ってるかもしれない。しかし心では分かって無いのです。
庵野さんもです。知ってはいた。だから分かってる気でいた。だが心で大事さが分かってはいなかったのです。その事にシンエヴァでは気が付いたようです。
面白いのは、今度は庵野さんが他人に言われてます。シンエヴァ否定の人の中に「何今更当たり前の事を言ってるのだろう?」と言う人がいますね。この人達は昔の庵野さんです。知ってはいるが、心で価値に気が付いてないのです。
これを物語上で表しているのが、何も食べない病んだシンジ君におじいさんが「食べ物をそまつにするな」みたいな事を言うシーンです。
このシーン浮いてるし、いらないでしょ? これがいるのなら意味があるのです。
つまり昔の庵野さんです。実際の父かおじいさんに言われたのでしょう。食べ物をそまつにするなと。
庵野さんのおじいさん位の年は戦争を知ってます。「食べ物がある=生きられる」であり、逆に「食べ物が無い=死ぬ」事だと分かっているのです。だからうるさく言う。
そしてその下の世代を表すトウジ等は「まあまあ、しょうがないよ」となだめます。庵野さんのおじいさんの下の世代は、食べ物が無い苦しさはある程度知っている。しかし生きると直結する事までは知らない世代です。だから「大事なのは分かるけど、落ち込んでるのだからしょうがない」と言う。
そして庵野さんも子供の頃は分からなかった。この時は庵野さんを表すシンジ君は無言でしたね。怒るでもなく困惑するのでもなく、ただ無言です。分からなく興味も無いのです。子供の頃の庵野さんもこうだったのでしょう。
ここのシーンで、子供の頃は「頭では食べ物が大事だと分かってはいた」しかし「大事さは心では分かっていなかった」と伝えたかった気がします。
これがメッセージです。
まとめると
食べ物が大事? 農業が大事? 本当の異性が大事? そんな事は知ってるよ。
そんな事を言う富野さんは年取っておじいさんと同じ事を言いだし、魅力も無くなった。
しかし間違いだった。本当の大事さは分かっていなかった。
と言う事です。
これは最後に通じます。
最後、庵野さんの田舎の風景で終わります。
ネットで「つまらない何もない田舎の風景を映して何なんだ?」と感想を言ってる人がいました。
何もない田舎だなんて誰よりも庵野さんは知ってるのです。だからこそそこから飛び出したのじゃないですか。
たぶん否定してたのです。田舎も、五月蠅い父かおじいさんも、そして間接的に自分もです。
しかし当たり前の事を言うおじいさんの言葉に真実「も」含まれていたのだ、と気が付いた時、どう思ったのか?
「あの田舎も良い所があるよな」と思えたのでは無いでしょうか?
つまり否定してきた色々な物を、認める事が出来たのです。
いつも青い鳥は自分のうちにいるものです。
正解も良さも近くにあったのです。
ちなみに富野さんはその後ターンエーガンダムで世界名作劇場の様なアニメを作ります。
これは見るとジブリっぽく見えますよね? つまり宮崎駿や高畑勲らしさです。
富野さんはこの二人に正解があるのが気が付いたのです。
そして宮崎さんは富野さんの仕事では先輩らしいですが、同じ年生まれです。先輩だとしてもライバル心は生まれた事でしょう。
しかし素直に認め、自分でも似た事をする。これが富野さんですね。弱さも認め前に進む事が出来る人なのです。
つまり庵野さんの正解も、また近くに元々あったのです。
青い鳥はいつも自分の家にいるのです。
庵野さんは宮崎さんが師匠だそうです。しかしジブリっぽい作品は作らない。
そして富野作品も昔のは好きでした。しかし最近の作品は好きではない。
それがシンエヴァでは気が付いたのです。この二人の今の価値に気が付いた。
だから今回シンエヴァではジブリっぽさがありました。正解に気が付いたのでしょう。
(3月28日補足、岡田斗司夫さんのネット動画を見ると、今回の庵野さんの作りは宮崎さんの作り方否定なやり方だったそうです。これも面白いのは、ただ取り入れるのではなく、自分が良いと思った所を取り入れたのでしょう。これもまた正解ですね)
富野さんも肯定するから畑仕事もするし、女性キャラの異性的な魅力も否定しないのです。胸もおしりも強調する。異性に興味を持つのは自然な事だと言う、富野さんやイクニさんの肯定なのです。
それらの肯定が、自分の田舎の良さに気が付いた事と重なったのでしょう。
全てを肯定できるようになったのです。
アニメ好きも肯定する。だからアニメを棄てません。最後までキャラはアニメです。
実際の世界も肯定する。だから最後実写なのです。そこで人は生きて行くからです。
最後にホームで他の主要キャラが反対ホームにいましたね。
これも物語上だと、どうとでも解釈は出来ます。だからそれは誰かに任せます。
大事なのは、否定では無いと言う事です。
あのキャラ達の存在も否定はしない。皆が好きであり、どこかにいると思いたい存在のままでも良いじゃないのか? と言う事でしょう。
もちろんそれでも、シンジ君は伴侶とホームを出て実写の世界に行きます。時々とりあえずは距離を置く、それが大事です。
虚構であるアニメ等とのバランスと距離感が大事だと言う事であり、否定では無いのです。向こうのホームに見える位が正解だと言う事です。
全ての良さと大事さに気が付き、それを否定はしない。
アニメ等の虚構も否定はしない。
しかし距離感は大事だと言う事です。ドップリアニメばかりにつかってる人生はダメなのです。バランスが大事なのです。
ああ、ちなみにこのマーク「:||」なんだと思いますか?
まあ世間で言ってる事で正解だと思いますが、もう一つ付け加えておきます。
見た目で、カーブの線路等の横についてる脱線防止の細長い金属の物体です。
線路に沿って付いていて、線路から外れない様にサポートする。
これは鬱になったシンジ君が「みんなどうしてそんなに優しいのか?」と言うやつです。あれは庵野さんの叫びですね。皆優しかったのでしょう。
だからこそ線路から外れないで終点までこれた。
そして奥さんと駅から出て、これからの人生が始められるのでしょう。
全てを肯定して、そしてちゃんと終わらせる。すばらしいですね。