「チキチキマシーン猛レース」は関係ありません。
ただあのアニメ、結局はレース自体の優勝者はどうでもいい物語でしたね。
賞レースなんて、そういうものだと言う話です。
前にM-1審査員の上沼さんの事に対し、文句を言っていた芸人いましたよね。
そもそもこの手の賞レースの事を理解してないからでしょう。
そしてこの事の基本を言ってる人もいなかったように思えます。
物語でもアカデミー賞とか芥川賞とかあるので、まるっきり関係ない訳でもないので、まとめようと思います。
季節から外れた事ばかり書くから、今一人気が出ないこのブログ。
しかし流行ってから時間が経つと他人の意見も聞けるし、自分自身にもまとまるし、気持ちが落ち着いた頃だと流されにくいので、まとめるには良い事だと思っています。
それに私は悪い事ばかり書くので(そのつもりではないけど)時間が経ってる方がいいですね。それだと足を引っ張る事も無いでしょうし(そんな力もないけど)。
時間がたっても悪い事を書けないのだとしたら、それは不健全だと思います。
ちなみにこのブログ、広告出るけど無料ブログだから出る奴なので、私には一円も入りません。入っても微々たるものでしょうけどね。まあ、小銭でも稼ぎたいのならYouTubeに出した方がいいですね。
そもそもM-1は「ナンバーワンお笑い芸人を決める」とか「一番面白い漫才師を決める」なんて、うたい文句で言うからいけませんね。
結成15年以内の二人以上のグループしか出れないし、一ネタ4分以内と決まってるようです。つまり制約があります。だから一番の漫才師では無いですね。
決勝戦で二回ネタをやりますよね? あれが三回なら優勝者が変わってた筈です。一回しかやらず点数が高い方が優勝でも変わってます。つまりルールで優勝者が変わるものです。
あくまで決められたルールの中での優勝者でしかないのです。
あたり前田のクラッカーですか? 分かってますか? 本当ですか?
審査員が上沼さんって言う事で文句を言っていた芸人の事はどう思いましたか?
現役の漫才師でも無い人が審査員に入っています。たぶんあそこにいる審査員のほとんどより、出てる人の方が面白いネタが出来ますね。
「なんであんたが一番面白いナンバーワン芸人を決めれるんだ」と思う人がいても、おかしくは無いですよね?
だから、そもそも決めてるのは一番面白い芸人では無いと言う事です。分かってましたか?
でも誰かが決めなくてはいけない。だから誰かを決める。しかし誰になっても文句は出るのです。
審査員で優勝者が変わる時がありますね。審査が割れる時です。だから誰であろうが文句は出るのです。
審査員の人数にも限度がある。それが数十人になろうが数百人になろうが文句は出るし、そもそもお金の問題で限度があります。
では不特定多数が良いか? 民主主義的に見てる皆に審査をしてもらう。それはそれでいいけど、どうしても一般的なものに偏ります。料理大会でカツ丼が優勝するようなものです。
カツ丼ではなく、良く知っているプロがこれがすごいと言うものを選んだ方が良い場合もありますね。カツ丼、天丼、うな重が優勝してたら、料理大会する意味無いでしょ?
ちなみに、カツ丼などの「多くの皆に受け入れられている」のはそれで意味があります。しかし大会を開く意味はない。世間でうけている物は、価値があると知れ渡っているので、もうそれでいいのです。
アメリカのアカデミー賞があります。あれもそうで、一般受けしているバックトゥザフューチャーは作品賞も脚本賞もとれませんでしたが、それでいいのです。でも価値があるし、それを皆が認めている物には、もう賞はいらないのです。
アカデミー賞は沢山客が入るものでは無いけど、良く出来た作品に上げるべきですし、その為の賞でもあるのでしょう。芥川賞も直木賞などもそうだと思います。
だから、芥川賞も直木賞も取れなくても、本屋さん大賞を取れれば同じくらい価値があると思いますけどね。
それらの理由もあり、M-1はプロ目線からの大会です。良い悪いではなくそう言う大会です。
一般受けするのは別の機会で認めてもらえるだろうから、もういいのです。
プロ目線の大会なので、少数の審査員であっています。
では話が戻り、誰を審査員にするべきか? です。
感覚的に決めるものは、誰がやってもはっきりしない。
沢山漫才などを見て来た人は見飽きてしまい、珍しいものに惹かれる事でしょう。しかしだからと言って、あまりにも普通の人が面白いと思わない物を選ぶ人もおかしい。
でも皆がうけるものを選ぶ人なら「じゃあ一般投票と同じじゃないか」となります。
その間を目指すべきなのでしょうけど、もちろんはっきりした答えは無いですね。
だからどこまで行っても「誰々さんと誰々さんと誰々さんが、こういうルールの中で決めた、最高の面白い漫才師の大会」にしかならないのです。
それは芥川賞でもアカデミー賞でも審査員は変わるのだから、毎年「誰々さんらが一番を決めた賞」でしかないのです。
つまりM-1は「誰々さんと誰々さんと上沼さんが決めた、一番面白い漫才師大会」でしかない。
なのに上沼さんの審査が気に食わないと言う芸人がいる。
「上沼さんらが決める大会」に出て、上沼さんが決めるのが気に食わないと言うのです。
ちなみによくは知りませんけど、上沼さんは一般常識から言って、ずれている人とは思えない。ずれてたらテレビで長く司会者など出来ないでしょう。だから審査員としていても間違っていないと思います。
ただ上沼さんもそうだし他の人でもそうですが、結局は誰がやっても良いのです。誰がやっても「一番の漫才師」は決めれない。だからM-1は一番の漫才師を決める大会では無いのです。「誰々さんの一番の漫才師を決める大会」なのです。
でも「面白い人の方が、面白い人を決めれるのでは無いのか?」と思いますか?
でもそれで出て来たのが一般受けとずれてたらどうでしょう? プロはピカソみたいなものを選びがちです。一般受けとずれてたら「面白くないな」と多くの人が思うと言う事です。面白い漫才師を決める大会なのに「面白くないと多くの人が思う漫才」それにどれほどの意味があるのか?
では一般うけと同じなら? ならただの多数決でいいのです。カツ丼でいいでは無いですか? 興行収入一番でもういいじゃないですか?
だから最後は審査員は誰でも良いのです。大事なのは「見ている人がそれなりに納得して大会を見ていられる審査員」だと言う事だけです。
でもアカデミー賞でも芥川賞でもM-1でも、賞を取った物は価値があると思います。
それはそれで面白かったりするのは事実です。
しかし一番では無いですね。審査員の中で優勝者が割れたりしたら特にそうです。
しかもその年は豊作だったとか不作だったと偏ります。その年の一番より、次の年の三番の方が良い場合もあると言う事です。
賞レースとはそういうものですね。
その程度のものです。
最後に価値は、自分自身で決めるのです。