号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

人にとっての海

4月17日にアニメ映画「海獣の子」の感想を書きました。

この映画、妙に気になるのでその後もたまに頭に浮かんでました。

たぶん原始的な暮らしをしている人の世界観を元に作られた漫画からの映画化だったので、その世界観が気になっていたのでしょう。

自分的に少しまとまってきたので、もう少し付け足そうかと思いました。

 

この映画、どうも私の考えに合ってる作りの様な気がしてきまして、監督の考えなのかな? と思い、ネットでコメントを探してみました。

文化庁メディア芸術祭で大賞を取ったらしく、渡辺監督と原作漫画を描いた五十嵐さんのコメントが書いてありました。

監督はどういう考えかは分かりませんでしたが、五十嵐さんの方はもしかしたら私と同じ様な考えなのかもしれないな? と思えてきました。

 

最後のシーン、坂でケンカした友達と会って終わりになります。

ここが原作漫画と違うらしいのですが、この辺がどうも「結局普通の物語として終わった」「こじんまりと終った」という様な否定的の感想が多かったようです。

しかしここは五十嵐さんのアイデアを監督が採用したようですね。つまり原作者も監督もこれであってると言う考えだったのでしょう。

文化庁メディア芸術祭でのインタビューで、五十嵐さんに「一番印象深かったシーンは何ですか?」と聞いています。

この海の漫画を描く原作者が、このレベルの映像で作り上げたアニメで、一番印象深かったのは何だったと思いますか?

私個人はこのコメントでふるえたのですが、五十嵐さんはどのシーンが大事だと思えたのか。本当どこだと思います?

 

その前に

前に書いた感想と分けると分かりずらいので、まず前に書いた私の感想文を置いときます。

 

 

2020年4月17日

「主観的と客観的」

 

考えるんじゃなくて、感じるんだ。

この言い方、私はちょっと嫌いです。

 

アニメ映画「海獣の子供」感想です。

 

考えると言う事は、客観的にも考えれると言う事。

そして、感じると言う事は、自分にとってはどうか? と思う事。

このアニメが言っている事は「自分達にとっての世界の意味は?」が全てである。

それは良く言えば、結局全ての生き物は、世界の全ての事に対し、自分にとって意味があるのかが全てだと言う事。

悪く言えば、それは小さな生き物個々の自分勝手な思いで、客観的には見えてはいないと言う事。

 

書籍「ホモデウス」を書いたハラリさんが「人生は物語では無い」と言ってましたね。

このアニメは「世界は物語だ」と言っていると思います。

私はハラリさんの考えに賛成なのですが、でも人は人にとってどうかが全てだと思えば、このアニメの様な「人にとってどうなのか?」も一つの考えだな、と思えてきました。

 

しかし、ほぼ全ての事に良い面と悪い面がある様に「人にとってどうか?」の世界観は危険もあります。現実から目をそらしてしまいがちだからです。自分に都合のいい世界観を構築してしまいがちです。

客観的にみると「世の中に意味なんか無い」と言う仏教的な考えの方が正解だと思います。

そしてそれをふまえてから「でも人なのだから、人から見た世界の意味はどうなのか? に最後は行き着く」のが正解では無いでしょうか?

 

このアニメは客観的な世界を表してはいない。主観的に世界を見ている。つまり、人にとっての世界を表している。

しかしそれは、世界の半分しか表してはいないと言う事です。

だから半分の事、現実があいまいです。初めから現実を描く気が無いので、このアニメのおかしい所を言った所で意味が無いですね。

ただ作ってる人達は、人から見た世界観が現実につながるのだと思って作っている。つながればどこまでが現実かがあいまいになる。作ってる人達の現実感があいまいだから、客には分かりずらく、言いたい事が伝わってこないのだと思います。

 

トラックで何処かに行き、そこでトトロみたく木の中のトンネルを超えますね。あれは不思議な世界への入り口ですね。

なら千と千尋の神隠しみたく、あそこから非現実に行き、そして不思議な体験をしてから帰ってくる、そんなよくある作りの方が伝わったと思います。

 

人から見て感じた世界の話。

それを世界と認める事が出来るのか? が賛否の分岐点だったと思います。

 

 

ここまでが前に書いた感想文です。この考え自体はあまり変わっていません。でも一面しか見てなかったようです。

なのでもう少し深い所まで書き足します。

 

アボリジニとかの原始的な暮らしをしている人達の世界観、宇宙観、等が海獣の子に影響してますね。

これは漫画家の山田玲司さんが言ってた事ですが、この人がネットでこの映画の事を言ってる時に、アボリジニ等の人が書いた絵を見せてました。その中に人の形をしていて、その人の中に宇宙が書いてある絵がありました。たぶん皆さんもどこかで見た事があるような絵です。この「人の中に宇宙がある」というのがこの人らの考えなのでしょう。

しかしこれはどういう事なのか? と昔から思っていました。

たぶん一個の答えでは無いのでしょう。しかし私としての答えを探しました。

 

皆さんは宇宙を知っているのでしょうか? 海を知っているのでしょうか?

 

五十嵐さんは埼玉の人です。埼玉県民にとって海は憧れなのです。

同じく埼玉県民の山田さんも言ってましたが、この埼玉県民が書くから妙に海が綺麗なんだと言う事です。つまりあこがれの海であり、妄想の海なのです。

そしてこの話には水族館が出てきます。主役の子が水槽の前に立っている絵がメインの絵ですね。山田さんはこれもそうだと言うのです。この原作者が書いてるのはこの水族館なのだと言うのです。作られた、人がこうだろうと思った理想の海なのです。

でもなんでこの映画はこんなに水族館を押すのかな? と思っていました。海や宇宙を押せばいいのにあえて水族館、それに海が関係ないあのエンディングの描き方。もしかしたら、深い意味があるのかもしれないと思えてきました。

 

では、水族館しか見てない埼玉県民は海を知らないのか?

じゃあ沖縄県民は海を知っているのか? 海沿いに暮らす原始的な暮らしをしていた人は海を知っていたのか? 宇宙を知っていたのか? なんでこの人達が日本海の寒い荒れた海沿いの人達より、海を知っている理由があるのか? そもそも宇宙なんて、見える物は地球上ならどこでも変わらないだろ?

人が見ている物なんて、光が目に入り認識したものでしかない。

光なんて、電磁波の中のある波長の範囲の物でしかない。見えるのは、限られた波長の電磁波だけでしかないのです。つまり他の多くの波長は見えていない。

しかも重力や磁力等の力も見えないし、あまり小さなものも見えない。見える物は大きさの限界がある。それに地球から見える物なんて、ある一点から観測したものでしかない。

そして人の寿命なんてたかが知れている。実際人が知っているなんて多く数えて数千年でしょう。(その前の事は人がいても情報を残せてないので、今の人には意味が無いのです)

それらを考慮して、果たして人が知っていると宇宙と言うのはどの程度なのか? 知っていると言っていいレベルなのでしょうか?

海もそうです。綺麗な海があったとして、そんなの上の方だけじゃ無いですか。200メーターも潜れば見えなくなります。しかし深い所の方が、海は多いのです。その表層の海を知っていたとして、それで海の何を知っていると言うのでしょう?

つまりどこまで行っても限られた宇宙や海しか知らないのです。

 

埼玉県民より沖縄県民の方が海を見ているかもしれない。

でも見ているのは光です。そしてそれが脳に行って電気信号か何かで残ってるだけです。

宇宙を見る。もし空一面に液晶テレビがある世界で、空を見ると宇宙が映っていて広がっていたとします。それが実際に地球から見た宇宙と同じに見える映像なら、何が違うと言うのでしょう?

将来バーチャル映像で、本当の海を見てるとしか思えない映像を一年見た人と、実際の海を一年見た人と何が違うのか? もちろん実際の海を見た人は、それ以外の音とか匂いとか感覚で受けたものがあるので違うのですが、見た物だけを取ってみると、同じに見えるのなら同じなのです。

宇宙船で宇宙を見た人がいたとします。肉眼で見たのか? 液晶テレビ越しで見たのかで違うのでしょうか? ではガラス越しならありなのでしょうか? 眼鏡越しならありなのか? なら光ファイバーなどで、実際の光を曲げて船内まで伸ばして見た映像は本物なのか? ならそれで地球まで伸ばせて見れたのなら本物なのか?

見たと言っても結局は脳で反応している。光に脳は直接は反応しない。目から入ってきた光をどこかで何かの電気信号みたいのに変えて脳に送り、その信号を脳が反応している。ならその信号を直接脳に送れたら、実際の映像にしか見えないのでは無いのか? 例えば未来、人の目から入った物を信号に変えるのと同じ事が出来る装置を作り、それを録画しておいて、それを一年後に直接脳に送る。それが、物理的に直接見た時と何も変わらない事が出来るようになったのだとしたら、それはもはや同じでは無いのか?

実際に見たなんて、実際に見た事と同じ事が再現でいれば、実際に見てなくても同じなのです。

つまり「実際に見た」と思ってるだけです。

 

しかも「実際に見た事がある」というのは脳内で記憶されているものでしかない。記録でしかないのです。

 

人にとっての宇宙は、人から見た、しかも脳内で記録された宇宙でしかない。

人にとっての宇宙は「自分の中にある宇宙が全てである」と言う事です。

海もそうで、人にとっては「本物の海」ではなく「人が見て感じた物であり、記録された海」でしかないのです。

これがアボリジニ等が思った、人の中に宇宙が広がっている事だと思います。

人にとったら「見て感じて記憶されている自分の中の宇宙や海が全てである」と言う事です。

 

では埼玉県民の妄想した綺麗な海はどうなのか? 人が思い描いた海である水族館はどうなのか? 

これらも人にとったら同じなのです。

人にとったら、自分の中に切り取られて加工された物が全てなのですから、水族館も妄想も、実際の宇宙や海と変わりが無い。変わりが無く価値があると思えれば、同じなのです。

 

これは井の中の蛙に聞こえますし、何か残念ですね。

でも事実です。事実は認めるべきです。そしてそれでどうするかを考えるべきですね。

この考えは「人にとってどうなのか?」が全てなので、生きて行く上で実践的になります。

つまり綺麗な海を守ろう、自然を守ろうは良いですが、もし綺麗な自然がナウシカ腐海みたいなものらどうしますか? ナウシカでは綺麗事で、どうにかなりそうでしたが、どうにもならなかったとしたら、綺麗な腐海が広がり人が生きられないとしたら、焼き払うでしょ?

動植物を守りましょう、もそうです。それが人にとって害でしかなく、人を滅ぼすような生き物なら撲滅するでしょ?

地球の為、他の動植物の為、自然を守ろうとするが、その自然が人を滅ぼしかねない物なら、それを消し去るのです。それも自然な生き物の行動でしょう。なんで人だけ生き物から除外する人がいるのでしょうね?

最後は広大な宇宙も海も水族館も、人にとったらどうなのかが、人にとって大事な事なのです。

そして全ての生き物にとっても、自分にとってどうなのかが全てなのです。

 

人の中にある宇宙が人にとっての宇宙の全てだとしたら、その捕らえ方では、ある程度自分でどうにかなると言う事です。

宇宙は何も変えれなそうですが、それをどう思うのかは人が決めれると言う事です。

海もそうです。それを綺麗だと思うか、怖いと思うか? それを守ろうと思うか? は決まってるものでは無くて、人が決めれると言う事です。

向こうから与えてくる情報は同じだが、受け取り方は自分次第であり、それが個人個人の体の中の宇宙になる。

そしてそれは全てにおいてそうです。例えば、友達から自分に与える情報は同じだが、それは友達の一部しか見れてない。それにそれをどう受け取るかは自分次第なのです。

 

では人にとって大事な事は何でしょう?

人にとったら海や宇宙なんてどうでもいいのです。そこから感じ取れる事が大事なだけです。

それに、日々の生活の方が大事なのです。子供には友達付き合いの方が大事なのです。お腹が減って死にそうな時、目の前の友達とケンカしている時、海の心配はしないでしょう。

宇宙も海も、人にとってどうなのか? が全てだとしたら、人にとって友達や家族がどうなのか? と同じレベルの話なのです。

そしてその中で自分にとっての大事な物を選べばいいのです。

これは日々生きていく人にとって大事な考えです。

だから海獣の子では最後友達と会うのです。その前に家族にも会うのです。海が大事なのではなく宇宙が大事なのではなく、そこから自分にとって何をもたらすかが大事であり、それを人の暮らしの中でどう生かすかの方が大事なのです。

 

始めに戻ります。

五十嵐さんが映画「海獣の子」で印象的なシーンはどこかと聞かれ、答えた事は?

「始まりの日常シーンだ」と言うのです。「海君の出会う前の琉花の心の動きを追いかけた一連の場面が好きですね」とも言います。

つまりこの映像を作り上げたアニメに向かい、原作者五十嵐さんが大事だと言うのが、日常の生活だと言うのです。結局最後は日常に行きつくのだと言っていると思います。

たぶんこの人は分かっているのでしょう。

広大な世界であっても、結局は人にとってどうなのかが大事なのだと。

人にとっては「人の日々の生活にとって、どうなのかが大事だ」と言う事を。

この作品は地に足の着いた物語ですね。

これを監督と原作者は作り上げたのです。

私は舐めてまして「こういう雰囲気物は分かってない人が、なんとなく作っているものだ」と思ってました。間違ってました。

こう考えると、水族館も、綺麗な海も、時間が無いのに日常のシーンを入れるのも、最後のありきたりな終わり方も、実はよく考えられていたのでは無いのか? と思えてきました。

思ってたよりずっと深い、良く出来た作品でした。