号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

中庸

儒教の四書のひとつ「中庸」の事を書きます。

ただ元の本は難しそうなので、アマゾンで説明本を検索しました。

と言う訳で、伊與田さんと言う方が大事な所を分かりやすく説明している本「中庸に学ぶ」の感想にしておきます。

 

前から私は「問題の多くは質の問題ではなく、量の問題だ」と思っています。

最近儒教の中に中庸(ちゅうよう)と言う言葉があると知り、これが近いのでは無いのか? と思い、この本を読んでみようかと思った次第です。

元の本を伊與田さんが解説する時に、この人の考えが含まれますね。そこから更に私の考えが含まれるので、もしかしたらずれているかもしれない事は言っておきます。

 

【天の命ずる之を性と謂う】(てんのめいずるこれをせいという)と言う文から始まります。

天とは何なのか? 私の考えでは、神と言うよりは運命に近いと思っています。まあ神であっても神の決めた事もまた運命とも取れるので、運命で良い気がします。

それが命ずるのだから、神が決めたか運命がそう定めたかしたものが「性」だというのです。

性(せい)とは? 特性、個性、使命、と書いてあります。私はこれらを踏まえ、性質が近いかな? と思いました。生まれた場所、時代、男か女か、貧乏人か金持ちか、動物か人間かで性質が違います。これらは生まれた時に勝手に決められている訳です。生き物にはそれらによって出来る事と出来ない事がある。

 

【性に率う之を道と謂う】(せいにしたがうこれをみちという)と文が続きます。

この生まれた時に決められたものを理解する事が、自分の進む方向を理解する事になる、そうです。

身長が低ければ野球選手にはなれません。昔に生まれたらビルゲイツにはなれない。動物に生まれたら作家にはなれない。逆に王族に生まれたら出来る事も多いが、だからこそするべき事も多いという意味だそうです。

この本は儒教なので、決まってる事に加え、人がするべき事も定めますね。だからこの性と言う言葉にも性質と同時に「その中で出来る、人としてやるべき事」が含まれているという考えらしいです。それが道(みち)であるというのです。

そしてそれが天が定めた事である、という教えです。

 

ここで儒教とは何なのか? と言う事の私の考えを書いときます。

この本を見ると、やはり儒教と言うのは「人とはこうするべきだ」と言う教えが含まれます。そしてそれは一見綺麗事に聞こえるのです。

事実を書くのは皆が納得するでしょうが、こうする事が人として素晴らしい、という教えを聞いて誰が納得するのか?

もちろん、それを聞いて納得して素晴らしいと思った人がすればいいのですが、それだけだと不特定多数に勧めるには弱いですよね?

だから宗教は絶対なる神がいて、それがこうしないといけないと定めているのです。

儒教はハッキリした完璧な神がいないですね。しかしやるべき事は定める。神がいないのにやるべき事を定めるなんて進んでますね。より現代的です。紀元前500年も前の事なのにです。やはり昔の中国は進んでいたのですね。

ではこれはただの綺麗事なのか? いな、ですね。

儒教は動物として、あるいは種としての「人」が長くそして多く残るようにするルールなのです。

動物だってお腹がすいた時、目の前に餌を取った同じ種がいて、そいつが弱そうなら奪います。それでいいのです。それが弱肉強食であり、本能のまま生きて行けば、より多くの仲間が最後に残る様になっているのです。

しかし人はそれより力を得てしまったのです。だからダメなのです。

極端な例で言えば、人は自分がいい思いをする為に沢山仲間を殺せるのです。だまして小屋に家族を閉じ込め皆を焼き殺す事も出来ます。そしてその家族の食べ物を全て盗むことも出来る。動物は出来ません。せめて目の前の一匹から餌をとる程度です。それなら一匹が死に、一匹が生き残る程度です。しかし人間は一人が生き残るどころか、生き死にに関係なく楽をしたいが為だけで、同種の人間を沢山殺せるのです。

これは種としたら本末転倒です。こんな事をしていたら種としたら弱っていきます。

動物は個人が生き残ろうとするだけで良かった。力が無いからそれで同種を沢山殺したりは出来ない。しかし人は力を得てしまった為にそれが出来るのです。そしてそれを繰り返せば種が滅んでいくのです。

人間は力を得てしまったが為に、本能のままでは持たなくなったのです。本能のまま甘い物や油物を食べれば、糖尿になり痛風になり肥満になり死んでいくのです。

今の時代で言うと、原爆もあります。原発もあります。自制心が無いといつでも滅べるのです。

力を得た人だからこそ、自制心が必要なのです。考えが必要なのです。それをまとめたのが儒教です。人が種として生き残る為に必要で求めるべき物が儒教なのです。これを実践する事が、より多くの人が生き残り、より多くの人が幸せで生きていける法則なのです。これが人間の生存戦略なのです。

実際は、どこまで昔の人がここまで気が付いてたのかは分かりませんが、感覚的には気が付いていた人もいたように見えます。そう思うと、孔子達は進んでいた訳です。

 

これをふまえると、天が決めた道と言うのは「生まれた時に決まっていた、種としての人として、それぞれがすべき事」と言う事だと思います。

そしてそれに沿って生きて行く事が、結構自分にとっても幸せになる(事が多い)のだと思います。鳥は飛ぶべきですし、魚は泳ぐべきです。その方が幸せに近い生き方が出来ると言う事です。(でもペンギンもいるし、魚も両生類などになり陸に上がりましたけどね。全てでは無く、生き方は色々あると言う事です)

 

【道を修むる之を教えと謂うなり】(みちをおさむるこれをおしえというなり)と続きます。

先人たちに、経験して編み出した道を決める方法を素直に教えてもらえばいい、と言う事です。

短い人生で一人が分かるのは限られているのだから、他の人や昔の人が残した「人の道」を聞いて、正しいと思ったらそれに従えばいい。そういう「教え」があるので聞いてみた方が良い、と言う事です。実践的ですね。

 

この本でここで書いてある事です。

学ぶと言う事は知識の積み重ねであり、そこから経験して納得でき理解する事を「覚る」(さとる)と言うそうです。「悟る」とも「暁る」とも書くとも書いてあります。

これはこう言う事だと書いてある本を読んでも、それは書いてある事を覚えただけしかないです。それでは「辞書みたいな人」でしかないのです。昔はコンピュータもないので、このただ知ってる辞書な人の価値も高かったのですが、段々価値が下がってきてます。今後ますます下がってくるので、言葉より中身を理解する事がより大事になります。ちなみに日本の教育は、まだこの辞書な人を量産する作りですね。残念な国ですね。

例えば英語がまるっきり分からない人が、英語の国語辞典を見た所で何も分からない。知らない事を、知って居る事で説明できて初めて伝わるのです。

日本語の辞典でも同じです。難しい言葉を、簡単な言葉で説明します。この簡単な言葉が分からなければ、また辞書を引き、更に簡単な言葉で説明されている事を願います。しかしどこまで行っても言葉でしか説明されてないので、どこかで「この言葉は知っている」と言う言葉で説明されてなければ分からない。

例えば辞書で「愛」を引きます。そこには「親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち」とか「特定の人をいとしいと思う心」等と書いてあります。でも「いつくしみ合う持ち」とか「いとおしい」とかが分からなければ結局分からない。これらは最後は経験でしか分からないものです(細かく言えば未来はそうでもないのかもしれません。未来はコンピュータが体の反応や目の動き、それから起こる今後の行動等から、これは「いとおしい」だ、と判断できるのかもしれませんけどね。でも今の所、人間にとったら経験でしか分からないと言う事です)。

結局学んだ事だけでは不十分であり、経験し覚る(さとる)事が大事です。

 

この本で次に出て来る事です。

東洋道徳の根幹をなす「慎独」(しんどく)

つまり「一人の時でも慎むべき」と言う事です。

誰も見てないから、誰も気が付かないから、ちょとだけだったら、と思い、悪い事やずるい事をするのは良くないと言う事です。

この精神をこの国は無くしてしまいましたね。司馬遼太郎さんが「元々この国の役人はずるい事をしなかったのに、今の時代は変わってしまった」と言うような事を言ってたと思います。皆普通にずるい事をする国に成り下がりましたね。そうすると国がおかしくなり、いつかは皆が苦しむ国になります。今はそうなってはいないでしょうか?

そうは言っても、この綺麗事をやれと言って誰がするのでしょうか? 

そこで私が大事だと思う事を言います。「慎独」を国にとっての美徳にするべきです。もしくは美徳に戻すべきです。

逆にそれに反した人をもっと責めるべきです。田中角栄さんの事をテレビで言ってる人がいて「あの人は悪い事もしたけど良い事もした。大きな良い事もしたのであれでいいのでは無いのか?」と言うような事です。間違いです。角栄さんの問題はやった事より「あれでいいんだ」と後世の人を勘違いさせた事です。良い事をすれば少しくらい悪い事でも良いのだと、この国の政治家は思ってる様に思いませんか? 角栄さんを褒めるからそうなるのです。「あの人は良い事もしたのに、悪い事をして残念だ」と言って、決して褒めるべきでは無いですね。

他の政治家も一般人も「ずるい事」をした人を責めるべきなのです。そして誰も見てない所で頑張った人を、ずるくやらなかった人を褒めるべきなのです。「慎独」を国の美徳にするべきなのです。

では、今のこの国は誰が責められてますか? 不倫をした芸能人ですね。それを葬り去る位攻め立てます。これは偉い人からのガス抜きですよ。まんまとはまっています。もう、末期症状ですね。子供を餓死させた奴、誘拐して何年も監禁した奴、ガソリンまいて火をつけた奴、この国で責められてるのはそいつらではなく、不倫をした芸能人です。

責められるべき人が責められ、褒められるべき人が褒められる。そんな当たり前の事が出来るだけで「慎独」が美徳だと認識されるのです。逆に認識されないのは、この当たり前の事が出来てないからです。当たり前な事が出来ない国に、未来があるとは思えません。私のこの言葉があってるかは、すぐに答えが出るでしょう。当たり前な事も出来ない国が、このコロナ禍で何が出来るのか? 見ていてください。

「慎独」は見てもいない所でも慎むと言う事です。今は見てる所でも慎まなくなってきてはいませんか? ただただ残念ですね。

 

さてここでやっと「中庸」に関する事が書いてあります。

ただ正確には「中庸」では無くて「中」の事ですが、たぶん同じ事を言っているのでしょう。

【喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂い】(きどあいらくのいまだはっせざる、これをちゅうといい)とあります。

ここでの「中」は無心つまり「空」の状態だと書いてあります。

ちなみに私は違うと思っています。確かに外から見ると無心のようだが、無心ではなく喜怒哀楽のバランスが取れていて、大きく感情が外に出てない状態では無いのか? と思っています。

そこで思ったのが、ここで言う「中」と、それに「中庸」もそうですが、感覚的に分かりやすい言葉で表すと「バランス」かな? と思っています。

ここでの「中」の意味は他にも「化合」だと言っています。つまり「異質な物を掛け合わせ、新たな物を生む」という意味だそうです。

著者はその生まれた物が「空」だと言いたいのだと思います。「空」とは「から」では無いのだろうけど、無心とも言っているので違うと思います。やはり「バランス」の方が皆さんに意味が通りやすい気がします。

【発して皆節に中る、之を和と謂う】(はっしてみなせつにあたる、これをわという)と文が続きます。

ここでも「中」の字が出てきますが、これは「当たる」「的中する」の意味だそうです。論理とか的とかから外れてないと言う事であり、だから中にあるという意味で「中」なのでしょう。

つまり「感情を発して節度よく的中させる、これを和と言う」という意味です。

この辺が、儒教は優れているな、と思わせる所ですね。つまり喜怒哀楽を節度よくなら出しても良いと言う事です。

怒らないといけない時は怒れというのです。悲しい時は悲しめばいいというのです。その通りだと思います。子供が大きな間違いをした時は怒るべきです。社会や政治にもおかしい時には怒るべきなのです。もちろん節度よく間違いなく的中させなければならないと言っています。必要以上に強く長く怒ったり、いつまでも悲しんでいるのは違うよ、とも言っています。

儒教ではなく、何かの宗教や宗派によると、感情を排除し無の極致になるのが良いと言う教えもあるかと思います。しかしそれは人を超えた者になろうとする、と言う事です。でもほぼすべての人は、人として生きて死んでいくはずです。だからほぼすべての人には、人としての進むべき道である儒教の方があっていると思います。そしてそれは現在でも通じます。多数の人の為になるものなので、儒教は優れているのだと思います。

前に戻り「喜怒哀楽の未だ発せざる中」の中が空ではなくバランスだと思ったのもここからです。喜怒哀楽はあるのです。その感情も持っていても良いのです。ただそれらの感情のバランスがとれている為に外には出てない状態、それが「中」だと言っていると思います。感覚的に私には、他の文から読み取れる事で言うと「儒教にとっては、バランスが取れている状態は空でも無心でもない筈だ」と思いました。

この二つの中の事を「未発の中」と「既発の中」と言うようです。

「未発の中」とは「外から見て分かりやすく強く発してない」と言う事だと思います。そしてさっきも言った様に「異質なものを集めて何か新たな物を生む」と言う意味もあるとすれば「尖った物を集めて、強く偏った主張はしない、バランスのいい新たな物を生み出す」と言う事では無いでしょうか? 

つまり「さしすせそ」です。料理で砂糖、塩、酢、醤油、味噌の事ですね。この順で煮物に入れろというやつです。これらは一つ一つは尖っている味付けの物だが、それを集める事により、皆が喜ぶまろやかな旨味になりますよね。これは強くは発してないが、味が無いわけでは無い。逆に旨味は増してる訳です。未発とは何も無いのではなく、偏って一つ発する強い物が無い、という意味では無いでしょうか?

「既発の中」は発する時は間違いなく丁度良く発しろと言う事です。これも「バランス」ですね。

「バランス」とは? 例えば囲碁が十個入るおわんがあるとする。バランスよく入れると白の碁石を五個、黒も五個でバランスがいいと思いますよね? その通りです。しかし例えば白の碁石を半分に割り、その半分を十個入れ、黒も同じようにして十個入れてもいいのです。他にも今日は白を十個だけ入れて、明日は黒だけ十個入れてもバランスは良い。今日は白を十個入れて、その上に何とか一個乗せて白を十一個入れる、明日は黒を九個だけ入れる、明後日は白四個と黒六個入れるでもいい。

つまりバランスとは時間も数も合わせ、全体で取れてればいいものです。つまり度を越さなければ誰かに怒ってもいい。そのフォローをその人に後ですればいいのです。それが子供なら怒った理由を告げて、それを子供が納得すれば別に後には残らないものです。もちろんトラウマが残るほど怒ったりするのは、度を越していると言う事です。

逆に明らかにやっていけない間違いを起こした子供に怒らないのは、バランスが悪いのです。バランスをおかしくした子供を、正しくバランスのいい人にする為に怒るべきなのです。それが全体を見て、そして長い期間をふまえてバランスを取ると言う事なのです。

この気持ちを外に適度に出す事を「和」と言ってます。これを「和」の漢字で表すのもまた良く出来てますね。

まとめると、「既発の中」もまたバランスで言い表せます。

つまり「中」とは今の一般的な言葉で言うと「バランス」の事であり、「中庸」もまたバランスではないでしょうか?

このバランスを、人として人の目線で実践的に伝えようとしているのが、儒教です。

 

【中は天下の大本なり。和は天下の達道なり】(ちゅうはてんかのたいほんなり。わはてんかのたつどうなり)とあります。

つまり「中」は天下の大本なのだと言うのです。あらゆる意味で「バランス」を取る事が大事だと言うのです。

「和」は天下の定めた人の道を達成するのに、必要な事だと言いいます。

人なのだから感情が大事なのだと言う事だと思います。それを間違いなく発する事が大事なのだと言っていると思います。

「中」はバランスです。「和」もバランスが必要です。しかしこのバランスと言うものを会得するのは難しい。知識としては、一番右から一番左まで全て見えてないと、中心なんてどこか分からない。感情の出し方などは、それこそ言葉ではなかなか説明で出来無い事です。なので「和」は経験からしか会得出来ない。知識も経験も沢山あり、そこに知恵が加わり、始めてその中心が見えてくるものなのです。それが「覚る」と言う事です。だから本当の意味の「中庸」が分かる何て、難しいものなのです。

 

まだ「中庸」の始めの方です。そしてこの本「中庸に学ぶ」でも三分の一位です。

でもこれが一番大事な所だったと思います。私には後は細かな事に思えました。なのでここいらで終わりにします。

 

中庸は、私のよく言っている「問題の多くは質の問題ではなく量の問題である」と言う事と、根本は同じだと思いました。

ただ想定している状況は違います。なぜなら昔と今の状況が違うからです。

今は法律で何かを便宜上白黒はっきりさせないといけなくなりました。そうじゃないと国や人種を超えたルール作りが出来ないからです。

そして特に日本の学校勉強の弊害ですが、何かはっきりした答えがある問題ばかり学ばせます。

しかも勉強をしないでゲームばかりしてる子らにも同じで、ゲームも一つの答えがある作りです。

それらの状態が「問題とは何かしらのはっきり言える答えがある筈だ」と思わせてしまっているのが、現代です。

だから私は、バランスを取る事が必要だと言う事を「問題の答え」の事で使う様に考えたのでしょう。この考えが今の時代には一番必要だと思ったからです。

多くの実際の社会の問題は「量の問題」なのです。

想定している状況は違うけど、この根本的な考えに昔々に到達するのだから、孔子はやはりすごかったのだと知りました。

皆さんも良ければ、「中庸」自体は難しいけど、「中庸に学ぶ」位は読んでもいいかもしれませんよ。