号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

なぜドミネーターをむけない?

アニメ「サイコパス」テレビ版二期を見て思った事です。ネタバレです。

 

「これは手練れの犯行だな」と言うのが第一印象です。

第一期は一割のとても上手く出来たおかずの為に、九割をあっちこっちから買ってきた総菜を詰め込んだだけの幕の内弁当でした。

しかし今回は明らかに料理人の手が全体に係わっている。

物語全体としたら今回の方が明らかに良く出来てます。

 

でも前の方がよかったと言う人が結構多いようですね。

一つのゴールに向かい走っていくやり方は、分かりやすく盛り上がりやすいですね。

そもそも一期は面白いネタを思いついたので始めたのでしょうから、それが面白いのは当たり前で、その次はゼロからなので難しいのでしょう。

 

それにキャラが前の方が良かったと言いますが、確かに今回のキャラは弱い。

しかし前回もよくある見た事のある(何度も)ありきたりなキャラで中二病全開です。分かりやすいが言うほど良く出来てましたかね?

たぶん前回の狡噛の部屋の壁に沢山写真やらなんやらを貼っているシーンで、笑いそうになった人がどうかで、今回の評価は分かれますね。あれがありなら前回の方がいいでしょう。あれが無しなら……それでも前回と同じ位の評価になりますね。つまりどっちにしろ二期はキャラが弱いのは認めます。

 

今回、常守がつまらないのはしょうがないですね。前回の続きで、今回は偉くなり進行役になるとある程度はつまらなくなる。

時代劇の「三匹が切る」の「殿様」と言う名のキャラは「千石」と比べるとつまらなく感じてました。しかし後で「殿様」がいなくなり進行役が「千石」になると「千石」がつまらない。しかも「殿様」よりしまらない感じの役になりました。そんなものですね。アムロよりシャアの方が人気があるものです。主人公や進行役はやるべき事があり制約がありますから、どうしてもつまらなくなります。

では狡噛がいたらどうだったか? 敵を追っている陰のある時の狡噛は良いが、映画「リーサルウェポン」の主人公の様に影がなくなった後は絶対つまらなくなったと思いますよ。

だから常守も二期と思えばあんなもんじゃないでしょうか? キャラの使い方としたら間違ってはいないと思います。

 

霜月(しもつき)がうざいと言われているようですね。あれはうざいですね。しかしそういう風に描いているのだから狙い通りですね。

あれは一般人代表でしょう。公安局刑事課二係や三係の面々も一般人ですが、死んでしまいますからね。生きている人で一般人の感情を持っている人が必要です。そもそも変人ばかりなのでこの世界の一般の感覚が分かりずらくなります。前回は宜野座(ぎのざ)がその役をになっていたのですが、今回は自由に動けないわき役ですからね(このキャラは今回もっと使えたよな、と思いましたが)。

 

前回は絶対的な敵キャラが一人いたので、それを追うと言う分かりやすい設定でした。

同じ事をしてもしょうがないので今回はそうする訳にもいかず、今一何をしたいのかが分かりずらく、しかも盛り上げがかけます。

でもそうなるだろう事は見る前から分かっていた事なので、その中で出来る事としては良くおさめたシナリオだったと思います。

前回は前回で良さがあり、今回も違う良さがあるアニメでした。後は好き嫌いの話ですね。

 

そして最終話に言っていた事に対しての、面倒くさい話をする前に。

 

このオープニングテーマは良く出来てましたね。何かひかれます。毎回とばしたくなるものと見てみたくなるものがあるのですが、これは毎回見てみたくなるオープニングでした。

この絵は物語の中身を示してましたね。

手を取り握手しそうでしない。最後は銃を向ける。これは撃ち合う事になるのを暗示してますね。最後にまた銃が出てきますが白と黒でしたね。正義と悪、それと同時に両方の正義で撃ち合おうとする事の暗示です。

椅子に座り部屋の景色だけが変わる。ホログラムが関係してくる。一人であるが沢山の人でもある。部屋が全部で七色で、七人の脳の集まりが鹿矛囲(かむい)でしたね。そして色んな色が係わり、何色なんだ? にかかってきます。

飛行機が出てきて反転します。これは直接的ですね。

落ちていく常守、しかしその中でも銃を撃ちます。落ちていく中でもあきらめない反抗ですか。

一見何て事のないシーン、車に乗っている常守。外のネオンの色が常守にうつりこむ。これも、何色なんだ? にかかっています。

東金(とうがね)が出てきます。しかも半分黒く。これは分かりやすいですね。しかも局長と東金が重なり合う等からも関係があるのが予想されます。

東金と一緒に狡噛も出てきますね。これは同じカオス(混沌)に属しますが、イビル(悪)とジャステス(善)で裏と表で違うものだと言う所でしょうか? ちなみに常守と局長(東金の母)はロー(法)に属し、ジャステスとイビルで表と裏です。

これらの事がオープニングで匂わせますね(他にもまだまだ細かいのがあるようです)。話が進むと後半は同じオープニングなのにはノイズが多くなってましたね。とても考えられているし挑発的なオープニングでした。

 

ローとカオス、ジャステスとイビル。狡噛も合わせると、この組み合わせの四種類が出てくる面白い話になってますね。

そしてシビュラシステムが第二期の最後に善悪のないただのロー(法)になったように見えます。それなら、鹿矛囲が善悪のないカオス(混沌)であったシナリオだったらもっと面白かった気がしますが、そう作るのは難しすぎますかね?

ちなみにローとカオスと、ジャステスとイビル、この二つを取り違えている人が多いですね。未成年でたばこを吸っていて「俺は何も悪い事はしてない」と言う人がいます。それはジャステス(善)の話ですね。そうではなくてロー(法)の話をしている事が分からない人が多いですね。似ているが違うものです。そこを分けて考えないとこのアニメも分かりずらいですね。シビュラシステムは初めからずっとジャステス(善)ではないのです。

 

いよいよ面倒くさい話です。

そして残念ながら作者は(脚本家か監督か両方か)今一よく分かってないような気がしますね。呑み込めてない(もしくは私が呑み込めてない)。

もしくは作者は前提条件がある。みてる人には説明してないが、これはこういう意味だろうと言う勝手な前提条件を持っている。

鹿矛囲が「集合的であるならばドミネーターを向けた者もその一部となる。別の誰かが向ければあれは違う色になるかもしれない」と言う所があります。何度聞いても意味が分かりません。

多分、集合的なのでシビュラだけでは無くドミネーターを向けた人も含めたもっと大きな集合体とも考えられる、と言いたいと思います。でもどこを枠にするかはシビュラが決めるのでしょ? 何処を枠にするか誰かが決めないと無限に多くなりますしね。もっと大きな枠でとらえればシビュラが悪と考えられるかもしれないと言う意味かも知れないが、それでもシビュラの物差しならそうならないと思います。

別の誰かが向ければ色が変わるのはなぜか? なぜでしょうね? シビュラの中の犯罪係数を上げる脳を排除したように、潔白な人が向ければシビュラが排除対象になる、と言う意味でしょうか? でも今のシビュラ自体の犯罪係数がゼロならならないでしょう。

もしくは相対的な数値になっていて、潔白な人が向けたらシビュラは相対的に悪と判定されるのか? でも犯罪係数の仕組みが分からないのでこれも謎です。

もしくは比喩かな? と始めは思いました。常守が自分の判定でシビュラを見れば悪に見えるかもしれない。そうなら壊せ。と言っているのかと思いましたが、どうもそうでもなさそうです。

これは禅問答ですね。禅問答が分かるのは分かる人達の共通の前提条件があるからです。それが分からないと誰にも分からないのが禅問答だと思います。サイコパス2では製作者の中で、枠とか判定システムとかの前提条件があるのでしょう。それが分からないので誰にも分からないんじゃないでしょうか?

ちなみに、前回の一期だと(たぶん虚淵さんの影響じゃないのかな?)難しい事を言っているようで、実は避けています。言い訳がとても上手いです。本の引用をしているだけで難しそうに聞こえて、ただ言っているだけです。

これは下手なことを言うよりは避けた方がいいと言う判断だと思いますし、それであっていると思います。

難しい事を言う人がいますよね? 難しい事は難しいのです。よっぽど分かっている人でないと難しい。自分は分かっていると思って言っているのでしょうけど、普通じゃ分からないものが難しいものなのです。なので普通の人では分かっていない可能性が高いと思うべきです。自分が「どれだけものを知らないか」が分かったら、少しはものが分かってきたと言う事です。

 

それでも分かる範囲内の話をします。

まず始めに、鹿矛囲は透明な存在なので、どこでも自由に出入りが出来た筈です。「今の時代家のドアの鍵もかかっていない」と言ってたと思います。それに権力者を自分の仲間とすり替えていたので、普通の人だと手に入らない情報も手に入ったのだろう。「この世界は表に出回っていない隠された技術、科学力がある」と言うような事も誰か言ってましたね。だから鹿矛囲は普通の人が出来ない事も出来るのでしょう。それと普通の人だと知りえない情報、シビュラシステムの事も大体分かっていたのでしょうね。だからシビュラシステムの脳の集まりを見ても驚きませんでしたね。

さて、鹿矛囲は何をしたかったのか?

パノプティコンと言う交通分野で使われていたシステムがシビュラシステムの代わりになりそうだった。それを防ごうとした奴らがいた。そいつらの陰謀の為にパノプティコンが正常に動作しなくなり事故が多く起きた。その中に鹿矛囲のかかわった飛行機事故があった。その為友達が皆亡くなり、自分は透明な存在になった。

陰謀を巡らしたのがシビュラシステムだったのかもしれない。もしくは陰謀を企てた人がその後シビュラシステムの中に脳として取り込まれたのだろう。どっちみち悪い奴らがシビュラシステムの中に逃げた為に(もしくは逃げれてた為に)、のうのうと生きている。それに対して仕返しをしたかったのだろう。

それに自分の利益の為だけに、自分をフランケンシュタインの怪物にしてしまった東金の母もシビュラシステムに取り込まれていたので、こいつにも仕返しをしたかった。

そもそも自分を無視したシビュラシステムも、それを支えている市民も気に入らなかったが(なので市民が死んでも良かった)、調べて行くうちにシビュラシステム自体がおかしくあってはならないものだと分かってきた。なので壊すか、それが出来なくても今より正常に保つようにしようとした。つまり犯罪者の脳を排除しようとしたのだろう。

東金母は犯罪係数が325だったが、シュビラは307でした。つまり325は東金母事態の犯罪係数だと思われます。シュビラには犯罪係数が大きい奴が隠れていたのです。免罪体質の犯罪者だけでは無くてね。ちなみに局長の状態で東金母は撃たれたが、義体なので撃たれた時はまだ脳としてはシビュラの中で生きていた筈です。

 

それと同時に集団サイコパスの判定を可能にさせたかったのだろう。それは自分(鹿矛囲)と言う者を認めろと言う意味と、もう一つあります。「個人個人のサイコパスが濁ってないのに、集団になると何故か濁る事がある」と言う事です。

それは「集団の中の個人がそんなにおかしくなくても、集団になるとおかしい事が出来る」と言う事です。

第二次世界大戦時の日本にはヒトラーはいませんでした。大きな権力を持った一個人の絶対悪はいなかった。しかし国としてはおかしかったと思います。他国の国民を沢山殺し、自国民も沢山殺しました。それぞれ少しずつずれていた、無謀だった、無知だった、無能だった、自分勝手だった、そんな程度の人達が集まっておこなったのが先の戦争です。多くの人があのような戦争を望んだわけでは無かったのに、多く集まった時の集団になると戦争を始めました。個人個人が大量の人が死ぬのを望んだわけでも無いのに、集まると大量に人が死ぬ戦争を止めれない時があるのです。だから負けて終わった時国民は悲しみましたが、ホッとした筈です。だからこそアメリカに占領された次の時代を素直に受け入れられたのです。戦争の終わり頃は皆止めたかったが止めれなかった、個人個人は止めたいのに集団になると止めれない、そんな時があるのです。

だから個人が良くても集団を監視しなくてはいけないと言う事です。そしてこれはシステムを監視しろと言う意味でもあります。法を監視しろと言う意味です。

個人個人が悪人じゃなくてもシステムがおかしいと人が死ぬのです。福島の原発事故は間接的に死ななくてもいい人が死んだはずです。あれは人が死んでもかまわないと言うほどの悪人はいなかったと思います(そう信じたい)。しかしあのシステムでは悪人がいないのに人が死ぬのです。人がそこまで悪くなくてもシステムが悪いと人が死ぬ。

サイコパスのシビュラでは免罪体質の犯罪者が混ざっている。それ自体は犯罪をしても逃れられるが、集合体で考えると免罪にはならないので、そいつらがいると犯罪係数が大きくなる。なのでこの仕組みでやっと免罪体質者の犯罪者の脳を排除できたのだろう。一期のおかしな所の訂正ですね。

鹿矛囲はおかしな脳をシビュラが排除してもまだ納得はしてなかった。この事からも、残ったそれぞれの脳が問題が無くてもシステムとしては問題を残している、と言いたかったのだと思います。

 

それと他の面もあります。「個人の悪が集団に紛れて悪行を重ねても、集団としては悪じゃないのでお咎めが無い」のはおかしいと言う事です。東金母の事です。そしてパノプティコンをおかしくした関係者もシビュラにいたのでは無いでしょうか?

私は前にサイコパスは今現在の現実を表していると言いました。その訳にもつながります。

分かりやすいのでまた福島の原発事故の事で言います。あれは旧経営陣三人に無罪判決が出ましたね。あれは人災では無いでしょうか? 本当に天災ですか? 想定外だったのは「自分が生きているうちに大きな津波が来るのは想定外だった」だけですよね? あれを天災だと思う人には、私がこれ以上言える事はありません。しかし人災だと思える人は聞いてください。人災なのに誰も刑罰に問われない。あれほどの事故が起こったのにです。これこそシビュラシステムじゃないでしょうか? 悪い事をしても誰も罪に問われないのがこの国です。

あれを法律で裁けない。それは法律の問題です。システムの問題なのです。

あの旧経営陣三人を有罪にすれば済むと言う話でもない。あれはハンコ押し係だったかもしれないからです。あの三人が違くても、例えば今後社長が何かあると責任を負わされるとなれば、今後は社長にハンコ押し係を置くようになります。本当の権力者は(親会社の)会長とかになり「お前は本当は社長になれないが社長にしてやるので、何かあれば責任とれよ」と回ってきた書類にハンコを押すだけの人を、社長に置くようになるだけです。

これは責任の所在をハッキリしとかないからですね。権限を与えて責任も取らせるのです。そして資料も残す。公共的なものは名のある大学教授とかが指摘した資料も残す。つまり今後大きな津波が来て酷い事になるので、今のうちに対応しろと言う事を、部外者が言った事も残すのです。後でそれをどうしたかを問えるようにする為にです。

でも法律を変えないといけませんね。でも法律を変えるべき政治家自体が、今後責任をとらされることになる。つまり絶対変えようとはしないのです。万が一、政治家が自分も含め昔の責任を取らされるようになる法律を作ったとしたら? 官僚にもそうするでしょう。民間でも大事な電気、水道、通信や交通に関係する所にも広めるでしょう。そして他の民間会社にも広がっていくのです。つまり全ての権力者が嫌がるのが責任の所在をハッキリさせる事です。マスコミも政治家も他の会社も全ての所の権力者が、止めようとするのがこの法律です。なので変えれる訳が無い。だから誰も法律上責任を問われない場合がある事が、これからも続きます。逃げ道がある。これが今のこの国です。

私は確信してます。もし明日大地震が来て、どこかの原発が真っ二つになり、日本の四分の一が誰も住めなくなったとしたら、誰が責任を取るのか? 絶対に誰も責任はとらない。

ではこの事に気が付いた一般の人はどうするのか? (私も含め)ほとんどすべての人が霜月の様に「忘れます。見なかった事にします」と言うのです。霜月は一般市民代表だと言いました。あれは現実の一般市民代表なのです。霜月を情けないと思った方、あれが今の国民代表ではありませんか?

シビュラには悪人が混ざっても裁かれません。今の日本でもシステム中にいて、そのルールに沿っていたので悪い事をしても裁かれない、と言う事があるのです。さっきの原発の事とか、もっと良くある事で言うと、官僚が天下りをする為に無駄な公共事業に金を使ったりするような事です。つまり身近に良くある事なのです。オリンピック、石原さんは黒字になると言ってませんでした? でも大赤字でしょ? 石原さんが悪くなくても誰か悪い奴らがいたと思いませんか? 年金問題も老朽化した橋も原発も洪水も待機児童問題もお金で解決、又は今よりは良くする事が出来ます。公共的な問題のほとんどは、お金の問題なのです。そのお金でだますのは国家反逆罪だと私は思いますけどね。

 

最後局長が今後「魔女狩りが起きるぞ」と言います。犯罪係数が大きくないのにそいつがいると全体の犯罪係数が上がる。だからそいつを排除しろ、となると言うのです。そいつ自体も犯罪係数は高くないのだから(高い奴はそもそも捕まっている)誰が全体の犯罪係数を高めているのかよく分からないので、魔女狩りの様になる、と言いたいのでしょう。

でも元々やっていた犯罪係数自体が魔女狩りのようですから、大して変わらないですね。

シビュラは300越えの犯罪者は即抹殺するので(それが作中に出てきたように被害者だったとしても)集団でもすぐ抹殺しようとするから、この言葉が出てくるのですね。

そうじゃなくて普通に誰が原因でそれをどうするべきか細かく対処すればいいだけです。相変わらずシビュラは言う事がおかしさ満点ですね。

これもシステムの問題です。シビュラはこんなおかしな事を平然と言います。しかしシビュラは変えれないのです。そして現実のこの国のシビュラも変えれないのです。もはやどこから来た言葉なのかも分からないものが、支配しているのです。まるで神の神託が支配している国の様ですね。

 

今出来る事は? とにかく知る事ですね。そして常守の様に目の前の出来る事をしながら待つのです。

最後常守は「人が社会の未来を選ぶ」と言いました。

人は弱いですから選んだ事を「ただ自分の心の中にしまってある」でも構わないと思います。

それは心の弾丸を銃に詰めておく事です。必要な時がもし来たら、その時に撃てるようにね。