号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

2 ホモデウスは最後の晩餐

『ホモ・デウス』 の続きです。まだ第一章です。

第一章が面白いと言われてるそうで、そうみたいですね。これから言う事の大きいな所をざっと言っているのでそうなるでしょう。

第一章で気になった所を書きます。

 

芝生小史 という話がありますね。この中に歴史を学ぶとは何かが書いてあります。

歴史学者だけあってこの辺は「なるほど」と言う事が書いてあります。

「歴史を学ぶのは、私たちを押さえつける過去の手から逃れる事である」と言っています。これを私なりに解釈して書きます。

「現在の状態はなるべき事になっている」と思っている人がいますが、そうじゃなく歴史の中でたまたまそうなっている事がある(もしくは多い)と思います。

歴史を学びなぜそうなったのかを学べば、それは必然の事ではなく、なった理由があると分かる。誰かの思惑や偶然で今の状態があるのだと分かる。たまたまそうなったと分かればそれをこれからも信じていくかどうかを選ぶことができる。と言うような事だと思います。

例えばプロ野球選手の年俸はあっているのでしょうか? あの半分じゃな成り立たないのでしょか? もしくは倍もらってはいけないのでしょうか?

多分半分の年俸でもやっていけます。他のスポーツを目指す人が増えるのでレベルは下がりますが、やっては行ける。それでも一流選手の何割かは残り、その他のレバルが下がるので一流選手がより光り面白くなるかもしれないと思います。

では倍のお金はどうか? これは経営もあるので難しいかもしれません。

でももし今の世界が半分の年俸の世界だったらどうでしょう? そこから更に半分の年俸と倍の年俸を考えます。そこから半分でもやっていけるでしょう。つまり今より四分の一です。ほとんどお金にならないスポーツをしている人も多くいるので、やっていけます。そしてそこから倍の年俸の方はどうかと考える。つまり今の年俸と同じになる訳ですが、もちろんやっていけます。初めから今より半分の世界なら倍になれば喜ぶでしょ?

つまり市場原理でなったのではなく、歴史の流れでたまたま今の年俸になっているのです。そういう必然で無いものがある、と言う事です。

水は下に流れる。だから最後は一番低い所に流れ落ち着くのではないのかと思う人がいます。そうでもない。小さな水の流れが右と左に分かれそうになる。その時たまたま誰かが置いた石が左にあり、右に流れます。一度流れればそこの地面は水で掘られ低くなり川になる。そしてもうその石をどかした所で水はずっと右に流れ続けるのです。そして大きな川になってしまえばもう簡単には動かせない。そして左に行けば海に行ったかもしれない流れが、右に行ったことで何処かで湖になるかもしれない。そう言う事があるのです。

この本では芝生の話をしてますね。歴史を学び、本当に皆さんの思っている当たり前はそうなのか? 考えてみるべきだと言っています。

 

他に本に書いてある事で面白いと思った事を書こうと思いますが、どのあたりに書いてあったかは忘れました。本のもっと後で書いてあったのかも知れませんが、忘れないうちにここで書いておきます。

 

このような未来予測をする事で、それを考える事になりそれで未来予測が外れる事になるかもしれない。そうなればいいと思う。と言うようなことが書いてあったと思います。

特に危ない事はそうですね。危ないと騒ぐほど何も起きないものです。

2000年問題の時はそうでしたね。皆で危ないぞと騒いでいたので逆に大丈夫だと思いましたが、そうでしたね。

だからこそ、原発事故はもっと危ないと騒いでおくべきでしたね。それなら防げたはずです。危ないと言えない風潮でしたからああなったのでしょう。でも今はどうでしょう? また騒げなくなってませんか? 危険ですね。飽きないですね。この国民は焼け野原にならないと立て直せないのだと思えてなりません。原発事故の時の吉田所長は、東日本には住めなくなると思ったそうですね。それが起きなかったのはたまたまですよ。

 

他に、全てについての専門家はいないので、未来の事は分からない。まだできてない発明がいつできるかは誰にも分からない、と言ってました。そうですね。

AIも自動運転も役に立つ量子コンピューターも実際いつできるかは分からない。自動運転なんか2020年にも走っていると言うような事を言ってませんでした? あと一年ですよ、無理でしょ?

大学の先生や民間の開発者は今にも出来ると言うのですよ。「いやあ、いつできるか分からないね」なんて言わない。それじゃ自分の価値がないみたいじゃないですか。それじゃ開発費くれないじゃないですか。だから良い事言うのです。

マスコミもそうです。それを流し見てもらうのが仕事です。「来年にも出来そうな自動運転」と言えば見てくれる「いつ出来るかなんて分からない自動運転」で誰が見ますか? なので躍らせてくるのですよ。騙されちゃだめですよ。

未来の事なんて誰にも分からない。専門家はその専門の所は大体わかるでしょうが、複雑になりすぎていて細かな専門の所しか分からない。だから細かな発明が合わさった未来の道具はいつできるか分からないのです。

 

不死やAI等の、人間の存在価値や物理的な脅威になる発明を止める事は出来ないだろうと言っています。そうだと思います。それが出来るのなら世界が一つの国にならないとダメです。世界が一つの国には、近い将来にならないと思っているでしょ? ならダメです。危険なものを追い求めていきます。未来も必然ではない。偶然が重なり亡ぶこともあるでしょう。今出来る事は「危険だ」と自覚する事です。そうすれば確率は減っていきます。この国で言えば少なくとも原発事故は防げた筈ですしね。

 

そして人がホモデウスになろうとするにあたり、三つのやり方があると言う。もしくはこの三つの重ね合わせたものになるだろうと言います。

その二つ、生物工学とサイボーグ工学により人をアップグレードする事ですが、どうでしょうね? やる人はいるでしょう。でもどの位改造するのか? どの位の人がするのか? は考えどころです。

結局有機体の所が残れば、非有機体で出来ているAIロボットには勝てません。ピラミッドの頂点にはいられない。

木でできた馬車に乗っていた人が鉄の車に勝とうと、木のまま頑張って勝負するようなものです。多分ですが無理です。

有機体ならスピードも丈夫さもコンピュータには勝てない気がします。物理的な電気信号を運ぶにしても、人間の脳だと他の新しく作られたものと同等にできない気がします。こんな眠くなったり疲れたりするもので勝てる気がしません。丈夫さもそうで、マッハで走れるようになっても、道を曲がったら気絶するでしょう。

AIロボットに勝てないのなら、そもそもAIロボットを引き連れてそいつに何かをやらせれば良いだけで、自分を改造する必要もない。自分を改造すればするほど人から離れていきます。ならほとんど改造しないでいる人が多くいてもおかしくない。意外と漫画攻殻機動隊の様に、サイボーグと生身がある一定の割合で混ざっている世界が来るのかもしれませんね。

 

そして残り一つのアップグレードの方法「すべて非有機体に置き換える問題」です。

カウボーイがいたとします。やはりカウボーイの乗り物は馬が格好いいだろう、と馬に乗りたいと思う。しかし不便です。足もバイクより遅いのでサイボーグ化しようと思う。速く走ると揺れるので足にタイヤをつける。もっと早くとペガサスの様に羽もつける。ジェットエンジンもつける。それだと寒いからと風防もつけ冷暖房もつける。ステレオとカーナビもつけるといいだろう。さあこれで快適になった。で? 俺の馬はどこに行った?

前に言った様に、人は改造すればするほど段々人から離れていきます。サイボーグになりたがらないのが多いと思ったのもその為です。そしてすべて非有機体に乗り換えると言うのはどういう事か? と思うのです。それはAIロボットと何が違うのでしょうか?

未来、ある人間が生身の体から非有機体に乗り換えようとします。目をつぶります(つぶらなくてもいいのですが雰囲気です)。

(1)目を開ける。すると目の前に生身の体の自分がいます。自分は機械の体になっています。成功です。「さあこれで俺はホモデウスになった。君はご苦労様、あとは任せて死んでくれても結構だよ」

(2)目を開ける。すると目の前に機械の体の自分がいます。自分の体は元のままです。成功です。目の前の俺に「あとは任せて死んでくれても結構だよ」と言われます。死ねますか?

結局置き換えるとはコピーを作ると言う事です。目の前に自分のコピーがいるかいないかの話で、残った自分にとっては何も変わりはありません。コピーがいるからと思い死ぬか思わず死ぬかの違いだけです。後に残す子供の面倒とかがあるのなら、コピーがいれば少しは安心して死ねるかもしれませんが、それなら任せられる信頼のおける友や家族がいるのと何が違うのでしょう?

では生身の体の自分が死んでからそのコピーを動かせばいい。それでも今動かすか後で動かすかの違いだけです。結局自分にとってはコピーがいるからと思い死ぬかどうかの違いだけです。同じように死ぬだけです。

ならコピーをする時に生身の体は静かに殺せばいい。しかしこれもコピーが出来ようが出来まいが、静かに苦しまず寝たまま死ぬ事は何も変わらない。コピーがいなくても静かに苦しまず死ねます。

他人にとっては自分が生きているように見えるでしょう。でも自分にとってはただコピーを作り死んでいくのだから、死ぬのには変わりが無いのです。

そして出来たコピーはAIロボットと互角に戦えるでしょう。能力も変わらない、丈夫さも変わらない、そして中身もAIロボットその物なのです。ただ人間の脳の中身をまねて作られただけのロボットです。それはもはや人ではない。

AIロボットと差がなくなるので何か分かる印を残すのでしょう。でも偽装されますね。そしていつかこれは人なのか? AIだったのか? 誰にも、自分自身でも分からなくなってきます。生身の人が消えた時にすでに人はいなかったのです。

 

もちろん未来に行けば生身の人さえもコピーでき、結局本物だ偽物だと言うこと事態が意味がなくなってきます。

ただそうであっても人はあらがっていく気がします。死ぬ可能性があっても生身で(不死とか少しは改造するでしょうけど)生きていこうとするのでは無いでしょうか?

結局ハラリさんは、神はもういないと言うような事を言いながら、まだ人は神にすがろうとするだろうと言っているのです。人々は神は存在しないと言いだしたが、自分が神になろうとするだろうと思っているのでしょう。

クリスマスにハロウィンに七五三にお葬式がある日本だと、やはりこの辺の感覚が違うものだな、と思いました。日本は攻殻機動隊銃夢の世界なのだと思いました。この漫画は外見が変わっても人の中身は変わらず、ほとんどの人々は相変わらず昔と同じことを繰り返しているような漫画なのです。そうなるのではないでしょうか?