号漫浪正大

輪るピングドラム ~アニメを見直す

南極とメモリーグラスと宝塚とドラえもん

アニメ 宇宙よりも遠い場所 を見て、見えてきた事を書きます。

ネタバレです。しかしこのアニメの事もそうですが、そこから思えた事「距離感」について話そうと思います。

宇宙飛行士の毛利さんが南極に行ったとき「宇宙は数分で行けるが、南極は何日もかかるので宇宙よりも遠いい」と言った事からこの題名が付いたそうです。実際に日本からだと距離で言っても宇宙よりずっと遠いですね。しかし私が言いたいのは精神的な距離の話の方です。

 

と、その前に、アニメの話から。

良く出来てますね。で、何が良く出来ているのか? さあ? 分かりませんね。

サッカーで言うと、とても上手い動きは分かる。ドリブルで何人も抜いてシュートを決めれば素人でも上手いと分かる。そして明らかな失敗も分かる。パスの失敗シュートの失敗、それに持っている球を取られたら明らかな失敗です。

しかしなんとなく上手くやっている事が分かるのはプロですね。ボールを持っていない選手の動きのここが上手いと言われて、初めて素人でも分かる。

なのでこのアニメは、なんとなく上手いだろう事をしているのは分かるけど、どこが? と言われて説明できるのはプロですね。残念ながらプロでないので分かりません。

 

余談になりますが、じゃあなんで私はいつも他のアニメの文句を言っているのか? ですが、例えばプロの様に車は作れないけどタイヤだけなら? またはサイドミラーだけなら自分の方が上手く作れるんじゃないのか? と思っているのです(これも思い込みかもしれませんけど)。それに私の言ってる事があってなくても「ここは違う」と考える元になれば幸いと思い書いています。

 

細かな上手い所は分からないけど、それでも分かる事を書こうと思います。

テンポはいいですね。一話を見ている途中「長いな」と感じました。しかしつまらなくて長いのではなく、ここまで話が詰まっていてまだ終わらないのだと思ったからです。

それはテンポよく、普通のアニメの一話以上の話が第一話に入っていたと言う事だと思います。

しかしそれでも「早いな」と思わせない。丁度いいテンポなのです。

言葉もシーンも「いらないな」「長いな」「うざいな」と言う所が無い(あまり)。でも速足ではない。説明が足りない訳でもない。丁度いいのです。これは、出来る人から新人に、言葉では伝えられないのではないでしょうか? もしくは難しい。だからこそこれが出来る人は素晴らしいですね。たかがテンポですが出来てないアニメが多すぎますね。アニメ「エルゴプラクシー」も上手かったですが、もっと上手く感じました。

 

話も普通ですね。大きな試練があるわけでも人類の危機があるわけでもない。ただの青春ものです。なのに飽きずに何話も見れるのだから、何かが上手いのでしょう。

南極で亡くなった母の話でずっと引っ張ります。これで最後まで引っ張るのか? 弱すぎないか? と思ってましたが、本当にこれだけで最後まで行きます。しかも飽きずに。流石ですね。

 

しらせ(ひらがなの方が分かりやすいのでこの表記で行きます)が母の亡くなった南極に行きます。そこに母がいるからです。亡くなっていると分かっているのに、心では分かっていない、認められないのです。

年をとって分かってきた事は、人は誰かの死に際は見とくべきですね。

年間規模で会ってない人が亡くなったと聞かされます。しかし自覚がないですね。「いやあ、久しぶり」と角から出てきそうな錯覚を覚えたりする時があります。

だから病気で「もうすぐ死にそうだな」と言う時に会うか、死体と対面するかして、お葬式かお通夜に出て、初めて死んだのだと自覚をするものだと思えてきました。

震災とかで亡くなった家族の死体を何か月も探す人がいます。それも分かる気がします。自分にけりが付かないのです。生きている訳がないと知りながら、もしかしたら? と思ってしまう。死体を見付けて初めて死んだのだと自覚できるものなのでしょう。

なので誘拐とかで行方不明になった人を持つ家族はけりが付かない。これはもうなんて言っていいかも分からないものですね。

この辺の事をこのアニメは良く描かれていますね。しらせはメールを送ります。たくさん送ります。生きてるわけないと思いながらも、死んだのが自覚できないのです。

なので南極に行きます。行かないとけりが付かない。前に進めない。

しかし行って分かる。ここで母の死体がでも見付ければけりが付くが、たぶん無理だろうと。なら結局南極まで来ても何も変わらないのではないのかと気が付くのです。

私は途中「これはどうするのだろう?」と思ってました。母の死体でも見つけるのかと思ってました。アニメ的にそれはないだろうと思いながら「ではどうやってけりをつけさすのか?」と思っていました。で、パソコンを見付ける。なるほど、そう来ましたか。死体を見付ける以外でやれる事としたらこれしかない、見事ですね。

このアニメは死体を見付けるわけにはいかない。そういう距離感のアニメです。ファンタジーよりじゃないといけないのです。それでこのやり方。やはり見事です。

母のパソコンを見付ける。自分が送っていたメールが沢山届く。まだ開けていない、誰も見ていないメールが。もしかしたら母に届いたのではないのかと言う、幻想に近いものが砕かれます。メールは届いてない。母は死んだのだと気付かせる。それに自分がメールを送った日々が思い出されます。それもあって泣けて来る訳ですが、理由がどうあれ泣けるのがいいのです。悲しいのは事実を認めたからです。事実を認めて初めて前に進める事もあるのです。

 

あと気になったのは「めぐっちゃん」ですかね。この子だけ異色でしたね。

他の子は皆いい子ばかりです。正確に言うと、名前のある人はいい子ばかりですし、めぐっちゃんも悪い子ではないですね。でもリアル寄りの悪い感情がある子はこの子だけでしたね。

この子はバランスだと思います。主役級はいい子ばかりで構成されてます。それが狙いなのでしょう。しかしこれだけだと流石に馬鹿みたいな物語になります。だから主役級から離れた所でバランスを取りに来たのでしょう。

普通はこの子は南極に行く四人の中に入りますね。この感情のまま。しかしそれをしない。そういうコンセプトのアニメなのでしょう。

 

最終話でしらせが言います。南極は「全てがむき出しの場所」であり「隠れる場所が無い地」、そして母は「仲間と一緒に乗り越えられる時間を愛した」「仲間だけで乗り越えていくしかないこの空間が大好きだったんだ」と。

この物語は南極物語ではなく仲間との物語でしたね。だからこのような仲間と一緒に乗り越えるしかない場所ならどこでも良かったのでしょう。その中でも南極は他の設定(しらせがお金があっても行けない場所とかの)と合わせてもぴったりでしたね。

 

昔テレビで尾木ママこと尾木さんが言ってました。「家族で山登りをする家族は仲がいい」と言うような事を。理由は言ってませんでしたが私が思うに、まず家族で行くのなら子供が小さすぎないし、大きすぎない。多分小中学生じゃないかと思われます。その年ならまだ父親も元気です。山を上るくらいだから元気な人なのでしょう。しかし子供が行くのだからそんなに険しくない山です。だからプロでもない父でもどうにかなる山です。今は違うかもしれませんけど携帯の電波が入らなかったでしょう。なので携帯も見ずに皆で話すしかない。子供が途中で帰ったりもできず、「先に行ってて」なんてことも言えない。迷ったりしたら危ないので皆近くにいるしかない。小屋とかにいても広くはないので一緒の所にいます。そして父親が一番大きいし強く頼りになるのです。母も母で頼りになる。皆が昔ながらの務めをはたせる所なのです。親が子にとって役に立つし意味があります。等の周りの状況が、家族をまとめ仲良くなる様にするのだと思ってました。

そう、このアニメもそうなのですね。この事を言ってます。

 

そして昔何かに書いてあったのですが「文明は寒い所でより発達した」と言うような事です。初めは暖かい所で発達したのでしょうが、その後寒さに対処できるように発達してから、だいたい西暦に入ってからは寒い所の方が発達したと思います。これも寒いので皆で集まって乗り越えないといけなかったからだそうです。暖かく冬もなければおのおのが勝手に生きて行けそうですが、冬が来るのならそうはいかない。食べ物を貯蓄したりするし、冬は寄せ合って暖を取って生きていかないといけない。そこから細かなコミュニケーションを取っていき、そこから複雑な文明が発達していったのでしょう。

これもそうで、このアニメでは寒さも大事な要素です。寄り添って助け合わないと生きていけないのです。

仲間が大事な話なので、やはり南極でぴったりなのです。

 

でもこの環境だから仲間とのコミュニケーションが取れ、より仲良くなれる。と言う見事な環境を得たのに、今一それが物語の途中に感じれない。

それこそ、今一ギクシャクしためぐっちゃんをこの四人の中に入れる方が定石ですね。

初めから皆いい子ばかりなので、この環境だから仲良くなれた、が無いですね。

それに終わってみると物語が弱いですね。まだ色々できた。しがらみや対立などを入れて、それが南極で溶け合って仲良くなっていく。そして初めはバラバラだったのに最後は皆で乗り越える、と言うのが定石です。その方が盛り上がったはずです。

しかし見てるとこれは作り手が出来なかったのではなく、やらなかったのだと思えてなりません。この位上手く出来るのにそれが出来ない訳が無い。ならわざとです。ではなでなのでしょう? 何をやろうとしたのか?

 

このアニメを見ていて途中気になった事です。

なぜ四人ともいい子ばかりなのか? 

なぜこの話はアニメなのか? 実写じゃないのか?

それはこのアニメだけの事でもなく、社会がこういう物を求めているのでしょう。だからこの作りにしたのでしょう。これが今の日本の現実で、これが皆の感じている距離感なんだろうと思った次第です。距離感の話です。

 

 昔「メモリーグラス」という歌がありました。ヒットしましたね。「水割りをください、涙の数だけ」「あいつなんか飲み干してやるわ」と歌うあれです。

この歌男の人が歌ってるのですが、歌詞が明らかに女の人のセリフなんですね。

なのにとてもしっくりきます。昔はなぜだろうと思ってました。

例えばバーで横の席に女の人がいて「あいつなんか飲み干してやるわ」と呪いの言葉をつぶやきながら水割りを飲んでいる人がいたとします。どうしますか? 帰りますよね。

しかしドラマなんかでテレビ越しなら見てられる。

つまり距離感ですね。実際にいたら見てられないけど、ドラマなら見てられる。

歌でもそうで女の人が歌ったら近すぎます。その場面が目に浮かびちょっと怖い。しかし男が歌う事で少し距離を置けます。それこそ丁度テレビ越しで見てる位になる。なのでこの歌は男が歌うべきなのです。

 

宝塚歌劇団ありますよね。実際に見たことはないのですが、テレビとかで少し流れたのを見たりします。もちろん皆女の人が演じるのですが、男役の人の動き、仕草が不自然ですよね。どうも男らしい動きをしようとしてるらしいのですが、明らかに違う。でもあれでいいのです。不自然だから実際に存在しない男が出来上がる。たいがい少女漫画の男は存在しない不自然な男ですよね?(少年漫画の女もそうですが)男役の仕草が不自然だから少女漫画の男になるのです。もしとても上手く演じられ、どう見ても男にしか見えないのなら、始めから男が演じればいいだけなのです。

 

ドラえもんがあります。あの絵柄だからいいのです。ドラえもんは実写版が出ませんね。実写にすると馬鹿らしくて子供でも見てられないものになると思います。絵でうそだよ、と始めから言っているから見てられる物語になっているのです。そしてあの絵柄でアニメだからこそ、本当にあるかも? と幻想を抱かせない。子供に対するやってはいけない嘘にならないのです。

 

これらは精神的な距離感の話です。近ければいいのではない、リアルならいいのではないのです。最近ディズニーもののアニメを実写化してますが、どうでしょうか? 本当に必要かな? と思ってしまいます。

 

さてこのアニメ 宇宙よりも遠い場所 ですが、アニメですよね。

実写ではなくアニメなら見る人がいるのでそれを取り込め、視聴率が取れるのでそうしたのだと思います。

これ以外にも最近の流れとして、ファンタジー要素がない現実の物語をアニメでやる風潮がありますね。それもそう言う事なのでしょう。商売だからそれでいいのだと思います。

しかしアニメなら見る、実写なら見ない。これはこのような現実の生活のアニメでも、もうアニメでないと見てられなくなったのでは無いでしょうか?

女子高生が南極に行く青春物語が、今の日本の子供の感覚ではファンタジーになっていると言う事ではないでしょうか?

今はこの位の現実にあってもおかしくない話が嘘になり、信じられなくなっているのではないでしょうか?

昔は信じられた。数十年前なら信じられていた。例えそれが幻でも信じられていたのです。今はこの位の夢ももはや嘘なのです。アニメでないと見てられない嘘なのです。遠くに行ってしまいましたね。どこまで遠くに行ってしまったのでしょう?

 

アメリカはチャンスの国だと言います。つまり日本はチャンスの無い国です。アメリカ人はアメリカがチャンスの国だと思っている。それが美学として現実として多くの人が思っている、それが大事なのです。

出来る範囲で誰かにチャンスをやろうとしたアメリカ人がいたとします。周りの皆がそれを信じているから邪魔をしないし、それが美学だと思いほめるのです。しかしそうだと思っていない日本人はチャンスをあげようとしない。危ないとか無駄だとか言って邪魔もするのです。

南極に行く女子高生。それをリアルに思えたのなら、あり得ると思えたのなら、その可能性がある時にそうしようとする人もいる。そしてその周りの人もそれもありだと邪魔をしない。しかし嘘だと思っていたらチャンスもあげない。周りの人も何やってるんだと邪魔をするのです。今の日本はそうなってはいないでしょうか? 夢も希望も無くなってはいないでしょうか? だから自殺者が多いのではないでしょうか? 今の人のこの夢との距離感は、この国にとって良い事なのでしょうか?

 

主役級四人が良い子ばかりです。周りの大人もいい人ばかりです。

これも距離感の話ですが、これは作り手や社会の話ではなく、見ている人が自分でとる距離の事です。

見ている人は見ている人でリアルだと見てられなくなっている。もう何も不安もなく面白く楽しくないと見てられない。これは何でしょうか? 昔より人が弱くなったのか? いや、むしろストレスなのでしょう。

社会はストレスを与え夢を見れなくさす。子供はストレスに負け現実から目をそらす。デフレスパイラルみたいなものでしょうね。下の世代、子供の世代を現実から目をそらせれば扱いやすいですからね。まんまと罠にはまってますね。そりゃ夢も希望も無くなります。

 

しかし、このいい子ばかりがわちゃわちゃしてるのを眺めるって事は? これは私の嫌いだった日常系の延長にある話じゃないのか? と思った次第です。

昔ゲームで「出てくる女の子と全て付き合える」と言うようなものが出てきた時「世も末だな」と思いました。しかし何も起きない日常をただ眺めるアニメ、俗に日常系と呼ばれるものが出てきた時「これはやってはいけないだろう」と思いました。皆と付き合えるゲームがなんて健全だったのかと思えたほどでした。

アニメの世界でも、夢の世界でも何も起きない女の子の日常を眺めるだけ。夢の世界なのに付き合いたいもヒーローになりたいもない世界、それを延々眺める。もうやばいじゃないですか。デストピアじゃないですか。夢も希望もなくした白い世界じゃないですか。

だから嫌いを通り越し、もうやばいのではないのか? と思っていましたが、山田玲司さんの話を聞いて少し気持ちが変わりました。山田さんが言うには「でも自殺防止にはなる」だそうです。もうそれを言われたら何も言えないですね。ならありなのでしょう。しかし日本がやばい事には変わりはないですが。

 

そして 宇宙よりも遠い場所 ですが、これはその一歩先のアニメでは無いのか? と思いました。

もうシガラミとかぶつかり合いなんかがあると見てられない人用で、だからこそいい子ばかりなのでしょう。

いい子ばかりがわちゃわちゃする物語です。でも日常系とは少し違う、部屋から飛び出します。そして仲間と一緒に助け合います。そして主役級以外には少し現実の嫌な所も置いときます。そう、少し前に進んだ日常系では無かったのかと。

 

このアニメは見てる人のレベルに合わせ勝手に乗ればいい物語になってます。

オープニングでキマリが目を開け起き上がります。

世間を普通に歩けてる人はキマリに乗ればいい。歩けるが走れない人はキマリみたくどこか遠くに旅に行こうと思えばいい。そういう人にとっては、オープニングの起き上がるシーンがそのまま物語のオープニングになります。そこからがスタートです。

しかし歩けなくなって止まった人には? そういう人にはこの起き上がるシーンが全てになる。目を開けベットから起き上がろう、が全てのアニメになるのです。

自殺防止で日常系を見てる人や、そこまでいかなくてもストレスでベットから動けなくなった人にはこのアニメが一歩になる。何もない物語ではなく、基本いい子ばかりがわちゃわちゃするがちゃんと中身があるアニメを見る、それこそが第一歩ではないのか? このアニメを見るこそが目を開け起き上がり第一歩を進んだことになるのではないのか? と思うのです。

日常系にはまり動けなくなった人向けなので、このアニメはこの作りなのではないのか? 「ここから出よう」「仲間を作ろう」と言うメッセージと、いい子ばかりの物語はこの為だったのでは無いのか? と思うのです。

 

一歩でどの位の距離を進めるのでしょう? その大きさは? 重さは? それは人それぞれですね。

このアニメはとても短い、しかしとても重い一歩を歩ませる力を持っていたのかもしれません。

人には実際の距離より「距離感」の方が大事だなと思わせるアニメでした。