本 『ホモ・デウス』 を読んで思った事を書きます。
ユヴァル・ノア・ハラリ の世界的ベストセラーだそうです。
読んだ人用の話をするので、読まないと分かりません。
前作『サピエンス全史』は読んでません、あしからず。
私事ですが、最近アニメ『輪るピングドラム』の考察をするのにこのブログを始め、気になる事を文字にする事により、自分自身が何を気にして生きているのかが分かってきました。
そしてこのタイミングでこの本『ホモ・デウス』を知りました。この本の内容は「人と言うのは何なのか? どうしてこうなったのか? を探り、それが分かるとこれからどうなるのか? を考える事ができる」という内容だと思います。これは私が気にしている事と大枠は同じだと思いました。
なるほど、気にしている人は日本にもいるのでしょうが、順序だって論理的に話す人はイスラエルまで探さないといないのだと言う事が分かりました。
そしてこれが世界的ベストセラーのなるのだから、考えていた人が世界的に少ないのだと言う事も分かります(皆の感想で「こんな事はもう知ってるよ」と言わないのでね)。
確かに良く出来た本であり、このレベルで書き上げれる人はなかなかいないのだろうけど、なんとなくでも気にしてる人が多ければ、ここまで絶賛にはならないだろうと思います。
昨今本を読んで何かを学ぼうなんて人は、結構知識がある人だと思います。そんな人達でもこう言う事はあまり気にしないで生きているのだと、世間に示しているようですね。危険ですね。だからこそ意味がある本だとも言えます。
この内容があってると思う人にとったらもちろんの事、たとえこの内容があっていないと思える人にとっても、改めて考える元になる本だと言う事で意味があると思います。
この手の本が流行ると言う事は、今や人であると言う事は何なのかと見つめ直す時だと言う事です。そしてこれからは人であると言う事は何なのかと決める時がやってくると言う事です。
では、気になった所を順番に言っていきます。
第一章
人の脅威で大きいのは、飢餓と疫病を戦争だと言います。それを克服してきたと言います。そのようですね。
私は疫病がこんなにも人類にとって脅威だという認識が無かったので、面白かったです。ただ知識がなかっただけですが。
しかし、伝染病などが人類にとって大きな脅威になったのは、最近ですね。数百年って所ですかね。
人類の移動が世界的に大きくなった時に、免疫がない人の所まで伝わるようになって初めて人類の脅威になったのだと思います。
細菌でもウィルスでも生物ですから(ウィルスは微妙ですが)増える為に感染します。
感染者が死ぬ確率が高いのは彼ら(ウィルス)にとって良い事ではない。感染した生き物が生きてあちこち動き回ってくれた方がいいし、死んだら自分(ウィルス)も死ぬ確率が大きくなります。
なので致死率が大きいウィルス等の行動は失敗です。だから元々はその殺す感染者用のウィルスでない可能性が高い。人にとって致死率が大きいウィルスは元々は人ではなく他の動物などにうつるもので、その動物にとっては致死率が大きくなく、その方がウィルスにとって都合がよかったでしょう。
つまり人にとって脅威になるウィルスは、もとは人に感染するものではなかった筈です。それが人が大きく世界を移動をするようになった時、たまたま抵抗がない動物にうつり沢山殺すのです。
なので、世界を大きく移動するようになった人がもたらした、最近の人への脅威なのでしょう。
だから飢餓や戦争などの、人がホモサピエンスになった頃からの脅威とは少し違う気がしますね。
最近の脅威なら自殺も入ってくるでしょうしね。それにテロも入ってきそうです。今のテロは数で言うとそんなに殺さなそうだけど、今後はどうでしょうね? 細菌テロや核攻撃のテロが起きるかもしれませんものね。
まあ細かい事はともかく、克服してきた、と言う事には間違いがなさそうです。自殺やテロも今後は減っていくようにする事も可能そうです(世界中でやる気になればですけど)。
そして人の長くの問題が解決された後、人は何を目指すのか? まずは不死であろうと言う事です。そうでしょう。
テレビに出てる林先生が、不老不死でないと意味がないと言ってました。不老でないと年取ったまま長生きになり、それは幸せではないと。そうだと思います。
不老不死になったらどうなるのか? 分かりませんが、やばそうな匂いだけはしますね。
危ない独裁者もいつかは死に、それで平和が保たれてきたように見えます。それがずっと残るのだから危ないですね。ただこれは社会システムの問題です。ずっと権力や富を持てないようにすればいいだけです。できればの話ですけどね。
とにかく、不死でない事を前提で社会は成り立っている、と言う事です。人と言う生き物も不死でない事が前提でなりたっている。それが変われば社会の前提が崩れ、人の動物としての前提も崩れると言う事です。
それが次の問題につながります。不死と共に未来に求めるものは幸福だと言っています。
幸福は感じてもすぐ失われ、新たな(そしてより強い)幸福感をえれる体験が必要になります。
不死になったら段々色んなものに飽きてきて、幸せを感じなくなってくる。幸せを感じないのなら生きている意味がない。なので幸福を得られるように人を改造していくだろうと言っています。
ネットで落合陽一さんがこの辺の事を言っていました。東洋思想だと「幸福」ではなく「快適」を求めるとあり、そうすべきだと言っているようです。「快適」、この言葉は良いですね。私は適度な、ほどほどな幸福が良いと思っていましたが、「快適」の方が意味として伝わりやすいですね。
強い幸せは、一口食べただけで感動できる美味い料理の様なもので、あきやすいと同時にその他のものがまずく感じ、結局幸せが持続しないばかりかストレスがたまってきやすいものです(たまにはいいと思いますけど)。
そうじゃなく白いご飯がいいでしょう。白いご飯は旨いし飽きにくく、長い目で見るとストレスもたまりにくいものだと思います。これが快適に近いものじゃないかと思います。
ハラリさんもなんとなくは気付いていて、ブッタの事を書いています。幸福を求めるのではなく「追い求める事は意味がない」と自覚すれば関心を失い、その方がいいと言う事らしいです。それから求められる言葉は「求めるのは快適」だと思います。
しかしハラリさんが出した答えは「世の中は幸福を目指し、その為に人をアップグレードするだろう。それがホモデウスだ」と言うのです。
人は考えに環境の影響を受けています。宗教とか生まれた場所の常識とかです。それらを無くしフラットに考える、なんて事は出来ません。フラットなんて無いからです。それは単位がない数字の様なものです。100と書いても多いか少ないか分からない。100個と書いてもまだ分かりません。リンゴが、と言ってもまだ分からない。自分家のふろ場に、と言えば多いな、邪魔だな、と分かる。それで大きなふろ場が沢山ある富豪ならまた違ってきます。なので基準となる前提がどうしても必要です。
ハラリさんも生きてきた状況の影響がこの本に出てますね。当たり前の事ですが。
本のこの辺でネズミの話が出てきます。頭に電極をさされ、そこから興奮するようになれる電気か何かが出ています。実はこれがこの本の中の大きな問題の答えだと思っています。
しかしハラリさんは無視します。多分考えたくないからです。こんなものが一つの答えだと思いたくないからでしょう。でもそれはフラットな考えではない。完璧なフラットは無いと言っておきながらなんですが、明らかな偏りはあると思っています。ここを無視するのは偏っていますね。
人はなぜ不死になりたいのか? それが幸せだからです。なので幸せを探すのが人の目指すだろう事です。
頭に電極でも刺して、そこから幸せを感じられるように電気か何かを流せばいいのです。
不死も感動できる体験も面白いアニメもヴァーチャルリアリティも必要がないのです。ただ頭に電極でも刺していればいい。一度頭を改造できれば後はとっても安上りです。
何かの体験で感動できても、その後はその体験に鈍くなる。しかし感動する事態を刺激すればいいので関係ないのです。鈍くなっても何か他の事で感動できるのだから、感動できるようにはなっている。そこを直接刺激すればいいだけです。
それは本当の幸せか? 本当の幸せです。本当の幸せだと感じる事と、まるっきり同じことが再現できれば同じなのです。例えば、人が子供を産もうが機械から人を作り出そうが、物理的に何一つ変わりが無いものが出来れば本物の人なのです。
ではこれは麻薬中毒と何が違うのか? 外せば幻覚を見ないとか副作用がないとかは違うと思います。しかしそんなには変わらない。働かくなり何もしなくなる。しかしこれができる未来は人は働かなくても社会が回るようになっているので、社会にとってはかまわない。幻覚を見たりしなけば他人に迷惑もかけず自己責任になるだけです。それでも恐怖は残るでしょうから死なないでしょう。ただ座って過ごすだけです。そして恐怖さえも消すことが出来たら死ぬのでしょう。座って幸福のまま恐怖もなく死んでいくのです。そう、それはもはや人ではなく動物でもない、だから死んでいくのです。
死にたくないと願うのが人です。幸福でありたいと思うのが人です。しかしいつか死ぬのが人です。ずっと幸福ではいられないのが人なのです。
それらを克服したいが、それを克服したのはもう人ではない。克服できないのが人なのです。
なので叶えられなかった願いを叶えようとすればするほど人から離れていきます。
それが神になると言う事だとハラリさんは言っている。だがこれはそう思いたいのです。人ではないものは神だと思いたい。まさかジャンキーだとは思いたくない。
人が思う全ての事は幸せになりたいと言う事です。神になりたいのではなく、神になれると幸せが待っていると思うからです。
幸せなんて動物が生きるために得た幻でしかないのでしょう。
動き続ける物が、動き続ける為にたまたま得たものです。
それをたまたま得れなかった物は動きをやめただけです。
幸せなんてその程度のものであり、人以外にとっては意味なんか無いものです。しかしこれがあるのが人なのです。これがあるからこそ人なのです。
人が生きる為に必要な情報、それが意味なのです。
つまり電極を頭にさした人は意味が無いものです。
でも本当の幸せを手に入れた人です。
だから神になりたいと願うのです。神はより幸せになれる存在です。それでもまだ完璧な幸せではない。と同時に生きる為に必要な情報もまだ必要です。つまり意味もある。
そして神になり、更にかけ上るたびに人から離れていきます。そして頂点には光り輝く頭に電極を刺したジャンキーが鎮座している事でしょう。
これは矛盾です。人を超えた者であっても人ではなくなっていきます。幸せの塊である生きたジャンキーになるのか? 不完全で不十分な人のままであるのか? 最後はどこで折り合いを付けるか? その程度の話です。
第一章のこの辺で、大体の答えは出たのではないかと言うのが私の考えです。
ただこれだとつまらないので、また続きを書こうと思います。
皆さんも、ミッキーマウスを見るたびに頭に電極を刺されたネズミが幸せかを考えてみて下さい。