寺山修司「幸福論」見ました。
第一の感想は「何言ってるか分からない」という事です。
第二の感想は「やはり寺山は科学者ではなく文学者なのだな」という事です。
一応ネットで皆の感想を見てみました。
しかし多くの人が「分からない」と言わないものですね。終わってますね。
分かるというのなら9割は理解してないといけないと思います。しかしたぶん見た人の1割も9割は理解してないことでしょう。
つまり多くの人が「分からない」と言わない、言えない人だと言う事です。
それらの人は、分からない事を分からないと認めれない事のほうが問題だと、分かる日がくるのでしょうか?
むろん分かっている人もいるかもしれないけど、誰ですか? それを私は知りたいです。
ちなみにネットの感想で言ってる事の内容くらいは、私でも分かった事は言っときます。
なので感想を言いますが、文の内容の感想ではなく、寺山の感想になります。
「寺山は科学者じゃない」と言いました。この文に対し寺山なら説明はしないことでしょう。
しかし私はします。それは寺山を越えなくては行けない時代の人だからです。
科学は(大体は)多くの人に伝わり、分かり、再現性があります。
つまり一度理解すれば何度でも再現でき、役立てる事が出来るということです。
しかし寺山は文学者であり、上手く伝える気もなければ、それを再現させ役立てようとも思っていません。
人それぞれ受け取り方が違ってもよく、そこから何かを生み出すのは勝手にやれというのでしょう。
文学や芸術はそれでいいし、そもそもそう言うものです。
しかし寺山は幸福論でもそれをやるのです。
幸福論を唱えながら伝える気も無ければ、役立てる気もないのでしょう。
そもそも寺山さえ答えが無いのかも知れませんけど、答えが出てるものさえ伝えようとはしてませんね。
ではそれが問題か? と言うと「当時」は問題では無かったことでしょう。
これは前に言いましたが、時代が大事だということです。
この本は1970年前後あたりに書かれたそうです。
学生運動の頃であり、ベビーブームの始まり頃でしょう。
だから20歳前後の団塊の世代が沢山いる時代です。つまり若く血気盛んで未来を見ている奴らが、ウジャウジャいる時代なのです。
その数年後にベービーブームの絶頂機があり、子供もまた沢山生まれます。
そしてバブルが起きるよりずっと前であり、土地の値段が上がるのもまだ先です。
つまり未来が輝いている(様に見える)時代だと言うことです。
その時なら放っておいても勝手に人が増えていき、勝手に育って生き、勝手に成長していってくれそうです。だから教える必要もないと思える時代です。
それにこの時代的にはまだ、教えるではなく「勝手の盗んで覚えろ」というイデオロギーがとても強い時期だったことでしょう。これは前時代的な職人の考えです。
職人だけではなく、職人気質はまだサラリーマンにもあった時代だと思います(まだ企業戦士であり、スーツを着てるが体力勝負的に戦っている時代でしたからね。あまり職人と差もなかった時代です)。
職人はそれで良い。なぜなら社長だからです。そして教える人に、昔なら飯を食べさせ、今なら給料を上げます。役に立たない弟子に余分な出費を強いられる。
なのになぜわざわざ教える必要があるのか? 一人前になれば「おせわになりました」と出ていくだけです。
だから「見せてもらえるだけで、ありがたいと思え」と昔は言いましたね。見せても貰えなければ盗めず、だとすればいつまでも一人前になれないのです。
逆に一人前になれば、一人でやっていけるから出て行けて、職も得れて暮らしていける。
だから職人が弟子に大きな態度を取るのが、理にかなっている時代だったと言うことです。
ただ今は多くの職では違います。師匠の技術を盗んで出て行ける時代でもないし、そんな悠長な事をやってれる時代でもない。
この様な当時の世間一般の考えも、寺山にはあったのかもしれません。
しかもです。この頃は公害問題も表に出てきてます。
ベトナムでは戦争もしてます。
つまり科学発展や勢力を伸ばす事は、良いことばかりではないのではないのか? と思い出した時代になってきてるという事です。
そこで科学的思想の西洋思想ではなく、東洋思想やスピリュチアルなものが流行り出しヒッピーなどが出てきた時代です(これは漫画家の山田玲司さんの言葉からですが、ためになります)。
だから尚更科学的なものより、非科学的なものでり感覚で理解するもの、文学的な発想や伝え方が、良いものだと勘違いしやすい時代だったのです。
それに流された影響もあるかと思います。
でも既に半世紀も前の時代です。寺山のこの頃の言葉も半世紀も前の言葉です。
だから時代が違うのです。
今は曖昧な事を言っているような時代ではなく、はっきり教え伝えていく時代です。それは日本では早急にするべきだし、西洋世界では既になっています。
はっきり言えば西洋思想や東洋思想ではなく「臨機応変に使い分けよう」と言う、ただそれだけが正解です。そのただの正解をまだ理解してないのがこの国です。
つまり科学的な物が良いものは科学的に、文学的な物で良いものは文学的にと、分けて使えと言うただそれだけです。
日本の今の、人口も下がり科学も経済も停滞している時代に(今後は分からないけど)大事なのは、皆に伝わるように大事な事を、科学的に言っていく時代なのです。
皆が分かるまで、じっと100年待ってる余裕がない時代なのです。
だから幸福論も分かりやすく言う時代であり、寺山の時代とは違うことは理解しておきましょう。
ずっと言ってるけど、習うより慣れろの最たるものとしてスポーツがあります。似てるもので楽器の演奏もあります。ピアニストなどです。
その両方ともしっかり教える人がいますし、しっかり教えてもらえなければ世界で戦えないのは皆知っていることです。
才能があり、努力もして、その上しっかり科学的に教えてもらって始めて、世界で通用する者になるのが今の時代なのです。才能だけでどうかなるなんて、あまくはない世界なのです。
ちなみにだけど、物語制作もそうでしょう。
私は頭で考え物語を作って行く事が必要だと思っています。
物語制作のための本を読んだりしてみて、それが必要だと思ったからです(ちなみに山田玲司さんもそう言う考えらしいですね)。
では才能は? と思うでしょうけど、これも同じです。
才能がある人が、科学的に考え練って始めて世界で通用する時代になってしまった、と言う事です。
作るのと、それを練るののと、一人が2つする事もなく、作曲と編曲がいるように、物語も二人で分業でも良いでしょう。もちろんどちらかが決定権を持っている必要はありますが。
(ちなみに、始めは考えず思うがままに物語を作り、その後に参考書を見ながらでも練り直すのが正解だと思います。これも作曲と編曲に似てると思います。)
では宮崎駿はどうなのか? という人へ。
どんなものにも例外があるのです。一人の感性だけで大体やり遂げる人もいる(もちろん宮崎さんも考えてない訳ではないのと、考える高畑さんが近くて刺激したのが良かったと思いますけど)。
しかし少数の例外を持ってきて「あいつがいるだろ」という人はただの馬鹿です。「イチローがいるから俺もメジャーに行って歴史に名を残せるんだ」と言ってる人の多くは馬鹿ですよね? 「宝くじで当たってる人がいるのだから、俺も当たるだろうから、もう働かない」という人は馬鹿ではないですか?
という訳で、「論」を論じるなら、科学的な物の考えを言う時代だという事です。
だから寺山の幸福論は、今だと伝え方が古臭いと言うことです。
まるで禅問答ですね。それを聞くには前提条件の知識が必要だと言うことです。そしてそれはカルト宗教がよくやる手です。
そこには問題もあることが分かってないのが、この頃の寺山です。
あまりに伝わらないでは、ただの自己満足です。
(論と言いながらただの文学作品だ、と言う人もいる事でしょう。ならただのつまらない作品です。文学と科学を両立させて、始めて寺山が願った物が出せた事になると思うのです。寺山が願ったと言いましたが、意識はしてないでしょう。潜在意識でです)
ただ内容は(分かれば)面白しろそうだとは思いましたが、鵜呑みにはしないほうが良い。
この頃の彼もそうだが、AではなくBだ、という人が多いですね。
本当は、ケースバイケースでAだったりBだったりが正解です。もしくはAB両方に正解があるというのが正解です。
寺山はだから極論です。反対側に偏っている(反対側にも正解があると分かり、面白くはあるけど)。
あれではトンチです。屁理屈です。だからダメでしょう。
この頃の寺山は30歳半ばです。
私は前から、中二病の後では、三十路病とでも言えるものがあると言っています。
人は30代になると大体身の回りが分かってきて、全て分かった気になってくるのです。もちろん勘違いです。
中二病はすぐ治るけど三十路病は長いのでたちが悪いのです。
幸福論を見ると、寺山の若さや勢いが見られ、しかし傲慢さも見えます。まだ三十路病なのでしょう。
年は関係ないと言う人もいますが、関係はある。
極端に言って10歳なら未熟でしょ? 誰であっても。
では20歳ならどうでしょう? でもまだ皆未熟だと思うことでしょう。
では30なら? 40なら? 50なら?
それに人によって違うけど、その人だけを見た場合、30歳より40歳のほうがすぐれているはずです。
もし30歳から10年経ち、何も変わってないのだとしたら、一つはもう何もかもを成し遂げていて、これ以上何も得るものすらない神のような30歳だったか、10年経っても何も進歩のない馬鹿かのどちらかでしょう。
だから30半ばの寺山は、他の同世代人より優れていたとしても、30歳半ばのまだ途中だと理解しておきましょう。
この頃だと、部分的には、まだまだだ、という事です。
幾原邦彦監督は寺山脱却を目指してたようです。
それであってますね。今となれば所詮昔の人です。
しかもアニメ、ピンドラの頃には寺山の最後の年を越えていった頃です。だから尚更寺山にしがみついていてはダメですね。
しかし考え方ややり方などの寺山イズムとでも言いましょうか? それはいつまでも残る事でしょう。
あの寺山が持っていた面白要素を、全て兼ね揃えていた人は、たぶんまだいません。
だから作ったその物は古くなるが、その感性や方向性や考え方は、まだまだ役に立つと思うのです。
この「幸福論」のやり方や言ってる内容は古臭い所もあると思いますが、この考え方や物の見方は、まだ参考になると思っています。
幾原監督が今後どうするか分かりませんが、寺山の外側ではなく、中側の面白さに気がつけば、今後も面白い事をやれると思いますが、さて、どうなることでしょう?
幸福論は、そうは言っても、寺山の考え方の基本は入っているのかも知れません。
その考え方の基本を見ただけで、この人の天才性を垣間見た気がしたことは、ここで言っておきます。