号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

3 大事なものは意識か?

本 『ホモデウス』 の続きです。

やっと第一部 二章です。

毎度の事ですが、私個人の考えが多く入っているので、自己責任で信じる時は信じて下さい。

 

この人は歴史学者だそうで、歴史の事になると切れ味が良いですね。

この本の内容からするとあまり大事ではないだろうど「ヘビの子供たち」と言う文があり、ここは面白いですね。

アニミズム「他の動物と人間はあまり本質的な差はない」と言う考えがあり、元々人はほとんどがそうだったろう、と言う事です。

そして聖書が出来た頃は狩猟民族から農耕民族になっているのでそれがなくなっているが、聖書にもその名残り(アニミズム)が残っているそうです。

「元はイヴと言う言葉はメスのヘビの意味で使われていた」と言う事ですね。

それで面白いのは「昔の人は人類の元は爬虫類だと分かっていたのかもしれない」と言う事と「アダムとイヴを惑わしリンゴを食べさしたのは女だったかも」と言う事です。

もっと言えば元の話は「イヴ事態がアダムを惑わし失墜させ、二人ともどこかに追放されたのかもしれない」とも考えられます。昔から男は女に惑わされ失墜するのですね。

「宗教が違う日本人にこれが何なんだ」と言う事になりますが、日本の漫画やアニメにもよく使われる要素なので(これはこれで変な国ですね)この辺の事は物語の中では面白く使えそうですね。

 

人が狩猟をやめ、豚や牛を飼い食べる事になったので、それら人以外の動物の価値を下げる教えを唱える宗教が出てきた。それゆえに人の価値が神の次にえらい位置に置かれる事になった、そうですね。面白いですね。

そうみるとやはり日本は特殊ですね。多神教の仏教を取り入れたが、もっと原始的な日本古来の神道も同時に残す。

一緒に残るのが面白いですし、森羅万象に神が宿る神道を残した事が、今の日本人の感覚を西洋人とは違うものにしてますね。日本人には神の次に人がいると言う感覚が、西洋人に比べ薄い。それでも動物は飼って食べる事になったので、やはり動物の位は低くはなっている。その一方、物には魂が宿る何て所は残っていたりします。日本の侍はその刀事態を大事にする。西洋の騎士は剣を持てる事が大事であり、その剣事態が大事ではない、と言うような事を聞いた事があります。この辺にも違いが出てますね。

他の宗教を一緒に残す、これが出来たから日本はキリスト教も普通に入ってきて残っていますね(過去は弾圧されたのでしょうけど)。

一神教キリスト教多神教の仏教と八百万の神々の神道が、同じ場所でしかも同じ人の中で(薄くだが)共存している。

ハラリさんにはこの辺の事ももっと見てほしいですね。日本は面白いですよ。

 

 そしてこの辺から難しい問題になります。

人はアルゴリズムで動いているのか? そうだと思います。

動物に意識はあるのか? あるでしょう。ただ人よりは簡単な物しか考えられないだけですね。

私はずっと「世の中の多くの問題は質の問題ではなく量の問題だ」と思っています。誰も言わないので持論ですが。

意識は知識を複雑にしたものだと思います。境界線はない。

人間も動物も脳の量の問題です。質の違いはない。動物も人より簡単な意識はあるでしょう。では両生類は? 魚類は? 昆虫は? となりますが、もっと簡単になっていくだけです。ただ元々が意識が複雑な頭の中の動きの事なので、複雑さがなくなっていく昆虫の意識を意識と呼ぶのか? という問題があります。「昆虫の意識はもはや意識とは呼ばない」となったとしても驚きません。青色がありどんどん彩度を無くしていく、グラデーションでグラフの右に行くほど白くなっていくとします。どこまでを青と呼ぶのか? と言う問題と同じです。

 

意識とは何か?

その前に、まず無意識で動く人の動きを考えておかないと混ざって分かりにくい。

意識しないで出来る動きが人にはあります。よく使う普通の事です。音楽でもスポーツでも家事でも泳ぐ事でも、始めは考え意識しないと出来なかった事が、なれると何も考えなくても出来る。意識しなくても出来るようになります。

これはコンピュータのマクロの様なものです。一連の動き、手や足の動きと角度や順番等をパッケージ化して一まとめにしておく。そしてそのまとめたものを名前を付けて意識外のどこかに入れておきます。そして必要な時にそれを呼び出す、

「パッケージ(バタフライで泳ぐ)」等です。そしてそのまとめられた動きを呼び出すとその通りに(順番、角度、時間等)動く。この場合はバタフライで意識しないで泳げる事でしょう。

これはマクロの様なものですが少し違うのは、家庭にあるコンピュータは二つのソフトが同時に動いているようで、実は素早く切り替えてるだけで、同じ時間では一つしか動いてない。忍者が速く動き一人が二人に見える「分身の術」をしているだけに過ぎないのです。

でも人のこの無意識で動くマクロは、脳の中の意識する所とは別の所にあり独立しています。そして両方一緒に動かせる。マクロ用に別のCPUを持っているようなものです。

なので人は考え事しながら会社や学校に向かい歩ける。考える所、つまり意識する所と別にある無意識マクロ(会社に向かい歩く)も同時に動かせる。だから考え事に夢中になっていたら、気が付いたら目的地に付いていた、なんて事があるのです。

この無意識マクロは生まれた時に持っていたもの(本能)とは別に、自分でも新たに書き込めます。それが練習です。初めは意識して体を動かし練習する。すると同じ動きがまとめてマクロとして意識とは別の所にためられていきます。そして一度マクロでまとめておけば、今度からはマクロを呼べばそのまま動いてくれて便利です。

進化の過程で、そもそも意識よりこちらのマクロの方が初めにあったと思います。そして新たなマクロも書き込めなかったでしょう。意識なんて複雑なアルゴリズムが出来たから、そこから導き出された動きをまとめて、新たに覚えておく事にしたのでしょう。

ではこれはなぜ必要なのか? ですが、まずはスピードです。ボールが飛んできた。その状況を意識して考える。意識は複雑な脳の動きであるがゆえに遅いのです。だからマクロに任せる「パッケージ(よける)」です。意識とは違い、簡単な動きだけのパッケージなので早く動作するのです。サッカーのドリブルや踊り、演奏、料理なんかもそうですし、そもそも歩くなどの事すべてそうです。なれない動きも意識してのんびりなら出来るが早くは出来ない。それは複雑な脳の動きで考えながらやっているからで、間に合わないのです。ただ理由もなく「こう動け」とだけ書いてあればそれを実行するのは早いのです。

それに効率です。複雑な脳の動きはその分カロリーを使います。パソコンの将棋のプログラムで初めの一手を考える。プログラムの作りにもよるのでしょうけど、たぶん初めの一手から複雑に考えます。初めて将棋をするプログラムなら、もしかしたら初めの一手で負けるかもしれないからです。架空の将棋のルールで、もし敵がこちらの王が取れる位置に角が初めからいたらどうでしょう? チェスならビショップです。それを始めは歩やポーンで防いでいるが、それをどかすと王が取られ負ける。初めは知らないのでそういうルールかもしれないと考えるのです。この歩やポーンを動かせば負けないだろうか? と。しかし一度やってみて考えればそんな事は無いと分かる。歩はどこを動かしても直ちに負けたりはしない。何度もやっていけば、相手も動いてない初めの一手はこれが良いと言うのが決まってくるはずです。なら毎回考えず初めの一手はこれとだけ覚えておけばいい。意識して考えると言う事はパソコンは電力を、人はカロリーを使います。それは無駄なのです。

人の脳の動きはこの無意識で動くマクロと、意識して動かす複雑な演算の両方あると思ってないと分からなくなります。

 

では改めて、意識と何か?

でもまだその前に、意識と言う言葉は学問によっても違う意味で使われてりして、はっきり決まってないそうです。なのでもしかしたら皆さんと違う意味で使ってるかもしれません。注意してください。

意識とは複雑な演算です。

ちなみに知識は簡単な演算でしょう。その境界線は無いと思います。

パソコンが3DCGの絵を画面に出すために、裏で一生懸命演算してます。それに似たものです。

ただ必要なパラメーターがある。それらがあって始めて意識だと思う。しかしその必要なパラメーターもいくつかあり、それが全てないと意識ではない、と言うわけでもなさそう。いくつかがあれば意識だと思えそうです。

一つは個別識別番号、言い換えればシリアルナンバーです。

ドラクエなんかでキャラクターがいます。それぞれにパラメーターがある。名前があり性別があり顔の絵があり攻撃力防御力がある。しかしそれぞれに見えない通し番号がふってあります。それで同じ名前でも違うキャラクターなのだと判別している。しかしプレイヤーからは見えません。人も人に自分でも見えない通し番号みたいなものをつけてます。それで同じ名前でも同じような見た目でも別人と判別してます。そして「人A」「人B」「人C」と判別していくのですが、その中に特別な人間「人X」もいます。「人X」は自分です。意識には、この識別能力とその中の特別な人間、自分と言うパラメーターが必要そうです。

それに感情にもつながる話ですが「重要度」というパラメーターも必要そう。個々に重要度のランクが付いています。大体は「人X」が最重要です。自分が一番です。しかしおじいさんに孫がいて、孫が「人C」だったとすると、「人C」は「人X」より重要度で上にくる事もあります。

あとは、感情だったり感覚だったり時間や空間認識能力だったりがあると、より意識があるように見えます。

しかし必須でもなさそうです。感情が無いような話し方しかしない人がいても、意識はあるとは思うでしょう。ただ感情が無いロボットは話が色々通じないでしょう。面白いのは感情が無いAIがいたら、それに意識があると認めない人が多そうですが、何かの原因で感情を無くした人がいたら、それでも意識はあると思う事でしょう。つまりはっきりした答えはないのです。

他に感覚や、時間や空間の認識能力がないAIにも話が通じなさそうですが、それでも意識はあるように見える事は出来るでしょう。

これらのパラメーターを駆使し、それらに照らし合わせて演算し答えを出す。複雑なパラメーターが色んなレベルで関わってきます。複雑であればあるほどまるで意識があるかのように見える事でしょう。

そしてこの一つの答えを出すことが大事です。そこはアルゴリズムと同じで何かを与えれば、ルールにそった何かしらの加工をされて何かが出てきます。それは一連の答えかもしれませんし、複数の答えかもしれませんけど、何かしらの答えを出す。この答えが受け手に分かるものでは無いといけません。受け手が分かればアルゴリズムは成立であり、それが複雑であれば受け手が意識だと思う、ただそれだけです。

 

例えば車を雑に扱ったとします。そして壊れます。普通はもっと長く使えるはずの物が早く壊れる。昔のおばあちゃんなんかは「もっと大事に使いなさいと車が言ってるのよ」なんて言います。もしその壊れた車を見てそう思えたのなら会話成立です。あるルールに沿ったアルゴリズムに何かを与え、出てきたものが「早く壊れる」です。そしてその言葉が通じれば話が通じたのと同じであり、そのアルゴリズムが複雑になったものが意識だと思っているだけです。

ハラリさんは交通渋滞や経済危機でこの辺の事を話していますが、これを意識だと思えないのはただ単純な動きだからです。「いや複雑だ」と言いたいでしょうけど、それは途中の与えられるパラメーターやアルゴリズムに意味が無いからです。つまり私たちに意味があるものでは無いもので複雑になっているからです。ある数を一度複雑な暗号に変換します。それをまた戻します。すると元の数になる訳ですが、それは何も変わっていないでしょ? それらを何十回も繰り返せばさぞ複雑な事をしているように見えますが、結局もとの数字になるだけです。これは分かりやすい例で、別に元に戻る必要はありません。意味の無いものでも複雑にできると言う事です。

そしてアルゴリズムもそうですし、経済危機でも意味のあるもので複雑にできれば意識だと思います。ただ経済は人の意識並みに複雑には出来ないでしょうから、実際は無理だと思います。しかし意識なんてそんなものではないでしょうか?

 

必須では無いでしょうけど、あればいいもので感情があります。感情は何なのか?

でもまたその前に、感情が出来るのにも基本ルールがあります。それにそって感情は出来てます。

それは絶対条件で生き物の基本です。それは生きる事です。もっと細かく言えば動き続ける事です。そしてそれはコピーでもいいのです。動き続ける為の動きをする物を残せればいいので、自分でも他人でもコピーでもいいのです。コピーは子供です。これ(動き続ける事)があるから生き物なのです。これのみが生き物の絶対条件です。

そして感情はこの条件に合うように出来てます。うれしい事はやろうとする。やろうとすれば生き残る可能性が大きくなる事がうれしいのです。寂しい事は避けようとする。悲しい事はもっと避けようとする。苦しい事、怖い事はもっともっと避けようとするのです。それが生きる為に必要です。怒りはあらがう行動です。攻撃をする準備をしてるのです。戦う事が生きる道の時は戦う。怒にまかして手を出さないといけないのです。だから怒りながら逃げる人はいません(それをする人は戦うために作戦として回り道をしていると思っているだけです)。その生きる為に手に入れた、状況に対する反応をまとめたものに名前を付けたのが感情です。例えば悲しい事は、涙が出たりやる気がなくなったりそこから逃げようとしたり(しかし出来ない)頭が回らなくなったり等の、その時の体の反応の事です。

これら感情は生きる為に必須なものなので、消せないし制御しにくい所にあります。だから意識では感情を上手くはコントロールできません。それをうまくコントロールできないのは、進化の過程でそうなったがそれでもたまたま生きてこれたか、もしくはその方が上手く生き残れたからでしょう。

感情も無意識で動くマクロと同じで、無意識で勝手に動くし、意識で使っている所と同じ時に別々に一緒に動くのです。だから周りの状況を判断している意識は、脳の別の所で勝手に動いている、感情のあたえる自分の体の動きを感じ取り(いつもはしないが今は殴り掛かりたいようだ、我を忘れて上手く考えられない、あいつの事がとても嫌いだ、自分は興奮している等)これは「怒っている」と認識するのです。

経済も何か基本ルールに沿った行動をある条件の時に必ずするようにしてあり、それを経済が何かいつもと違う一連の動きを見せてると分かる別の監視しているものがあれば、経済は「怒っているな」「悲しんでいるな」とその状況に名前を付け判別できるのではないでしょうか? しかしそれが分かっても分かった事を示さないと、私達が分かったんだなと分からない。だから経済自身がある状態だと分かったら、それに合わせて話し出す(人の声が録音されたテープでも)口を壁にでも付けておいて「てめーこのやろー!」と言い出したら「怒っているな」と私達にも分かる事でしょう。それが人間が怒っていると認識したのと何が違うのか? 違うのでしょうけど、それは人間はこれよりはもっと複雑だ、と言うだけです。質の問題ではない、量の問題です。

 

そして意識は複雑な演算だと言いましたが、なぜ必要か? 無意識マクロで全てがまかなえればいいですがそうはいきません。無限に無意識マクロをもっていられればそれだけでいいのですが、実際は限界があります。

「遅刻しそうだ。車で法定速度60キロの所だが70キロ位は大丈夫だろう。しかし雨が降ってきた。でも周りの車も70キロは出している。先週違反切符を切られたので今度捕まったらやばそうだ。そもそも70キロでも間に合いそうもない。でも部長は怖い。でも部長は嫁の父親だ。さて何キロで走ろう?」という状況の時用のマクロは作って置いとけません。その時々で考えないといけない。複雑な演算をしないといけないし、それが出来た方が長生きしそうです。そしてその難しい演算で出てきた答えを、今後も何度も使いそうならマクロに登録しとけばいいのです。「パッケージ(遅刻しそうなときは時速75キロで走る)」です。

 

複雑な意識から出されたものであっても、Aと言われたらBと返す簡単なマクロであっても、結果は同じです。だから151ページで「他我問題を解決した人はいない」と言っています。そうでしょう。

マクロには限界があるので怖いのですね。多分ちょっと話せばボロが出ます。それでこいつは複雑な人ではなく単純な機械なんだと思う。それが人には怖いのです。複雑な問題にも答えれる自分と同レベルの人が、人には大事なのでしょう。

そこで152ページ、チューリングの言葉が出てきます。「コンピュータに意識があるかなんて関係ない。肝心なのは人々がどう思うかだけなのだ」と。

結局自分と同じレベルの複雑な演算ができる人が欲しいだけです。そして出来ていると思わせる物でも構わない。人にとって自分が生きる為に必要なものの一つが、その複雑な演算ができる人なのです。だから意識なんて物が大事なのだと錯覚しているだけです。意識がどうなんだとか細かなごちゃごちゃした事は本当はどうでもいいのです。人にとっては自分がどう思うのか? が大事で全てなのです。