号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

春はまだ先

アニメ「四月は君の嘘」感想です。ネタバレです。

 

このアニメは他の作品に似ていると言われてましたね。

内容的には、色んな作品の良い所を集めて出来た作品に見えます。

見た事もない作品なんて無いのだから、昔の作品の良い所取りでも良いと思います。

でも出来たらコピーを超えた作品を目指してもらいたいですね。

 

コピーには種類があります。

まずは、劣化コピーです。表の見た目だけまねただけの作品です。

車で例えるなら、見た目はフェラーリそのまんまだけど、走ると遅い。乗り心地も悪い。走るとガタガタする。すぐさびる。等の事です。

 

次は、コピーです。これは見た目だけではなく、性能もそのまんまです。

車で言うなら、フェラーリやポルシェに似てるし、性能もそっくりだと言う事です。

ここが「四月は君の嘘」の場所です。

物語の良い所が分かっていて、それを真似て取り入れています。

世の中にはそれすら出来てない劣化コピーがあふれているので、コピーに見えても価値があります。それは性能でもフェラーリそのまんまになるのだから、価値があるのです。

しかしです。フェラーリと同じなら、フェラーリでいいじゃないですか? なんで同じ性能で似てるけど、他の作品を選ぶ意味があるのか?

一つは、例えばフェラーリが製造を止めた時です。それでフェラーリは手に入らないけど、同じ様なのが欲しい時にコピーが必要になります。

物語は同じのを見てもしょうがないので、コピーに見えても他の作品が必要になります。それが元の作品とレベルが同じなら、価値があると思う事でしょう。

 

しかし、出来る事ならコピーを超えたものを目指してほしいですね。

一つは性能自体も超えたものです。元のエンジンよりさらにいいエンジンを作り、取り入れて車を作るようなものです。「エヴァンゲリオン」等はこれでしょう。

これは理想ですが、そうそう出来ないので、こうなれと言うのは酷ですね。

 

他には色んな部品を取り入れ、出来上がりが新たなものに見える位の出来に仕上げる事です。「キルラキル」です。

二次大戦の戦車で、エンジンを飛行機の物を入れた物があったようです。

それにドイツの有名な戦車砲であるのが、元は対空砲だったのを対戦車に使ったものです。

こういう他で使われえている物を混ぜて、新たな性能の戦車を作れたのなら、新たな価値があるものが出来たと言う事です。

部品自体は他にあった物なのにです。

しかしこれも物語で狙うのは難しいですね。

 

後は細かな問題点を良くしていく事です。これが狙えるし、頑張ればなんとかなる物だと思っています。だからここは目指すべきです。

例えば車で、バックミラーが少し見にくいとか、椅子が固いとか、ホイールの見た目が気に入らないとか、エンジンの音が気に入らないとかです。

これらを直す事で、より完璧な物を目指すのです。

それで元より完璧だと思える何かが出来たのなら、もうコピーとは言われないのじゃないでしょうか?

恋愛ものの最高峰とか、アクションの最高峰とか、ラッキースケベの最高峰等を目指すべきです。

そして「四月は君の嘘」はここまでは行ってませんでしたね。どうしてもどこかで見た事のある物と比べ、せいぜい同レベルでした。

 

しかしもう一度言いますが、コピー商品すらめったに無いのですから、良く出来た方です。

見れた作品でしたし、次の回を見たくなる作品でした。

映像まで含めれば、このレベルの映像で作ってくれた事で「より完璧な作品を目指した物」に達していたとも言え、価値があるものだとは思います。

 

でも、最後までみたらもう一歩かな? と思え仕方なかったです。

では個人的にどうすればより良かったのか? を書きます。

個人の感想です。それに出来上がった物にあれこれ言うのは簡単なのは承知の上で言います。

 

まず、なんで死んで終わりなのか?

死んで終わらすのはいい。個人的には良くないが、作品としたらそれもありです。

それに、世の中何でも上手く行くわけでもないと言うメッセージにもなるので、その意味でもありでしょう。

しかしそれに向かって全てを作って行くべきです。

なんで死ぬか生きるか分からない状態で最後まで行き「死にました」と言うのか?

あれではただ驚かすだけの理由で死んだかのような作りです。

 

死んで終わらすなら、物語として「死を乗り越える」作品にするべきです。

始めの「母の死から乗り越える」とかぶりますが「また大切な人が死ぬのか」を乗り越える作品になるので、それは良いと思います。

そしてそうするなら「最後まで死ぬか分からない」作品ではなく、途中で「もういくばくも無い」と言うべきです。死ぬのが分かり、それを公生が乗り越える作品にするべきですね。

最後の方で公生がやる気がなくなります。トラウマがあるとしても何か釈然としないシーンです。まだかをりの状態が悪いだけなのにです。

しかしここでかをりが死ぬ事を知ってしまったとしたら、このシーンで皆が納得するはずです。明るく前を向ける訳が無いと皆が思う事でしょう。

 

この落ち込んでいる時に、かをりが公生にネタバレをするべきです。

始めから嘘であり、昔から公生を知っていて近づいた事です。

そこから数話にかけて「かをり編」をするべきです。

ちょっとまどマギのほむらに似てきますが勘弁です。

まだ眼鏡をかけ下向きだったかをりが、自分の死期を悟り、自分を偽り公生に近づく。

そして昔からの夢だった公生とのセッションを目指すのです。

体調が悪いとか、実は下向きな暗い子だとかを隠しながら、一話の始めからの事をかをりの目線からもう一度描く。

そして「かをり編」の最後に公生とのセッションを持ってくる。

アニメ最初の方に見たシーン。公生とのセッション。ここから新たな物語が始まると公生は思った。物語を見てる人達も思った筈です。

しかしかをりにはゴールだったのが分かる。これが終わりだったのが分かるのです。これが全てだったのがここで分かるのです。(ちなみに結局かをりがヴァイオリンを弾いたのはここが最後だったので、こうするべきでもあります)

しかし次の夢が出来てしまった。自分の夢の存在だった公生に、ピアノを続けてほしいと言う夢です。それでここからの物語でのかをりの行動の理由が分かる。公生にも私達にもです。

ここで公生はやる気を取り戻す。かをりの為にピアノをやろうとするのです。

 

そして最後のコンクールの日です。

この日は数時間だけ、かをりに病院からの外出許可が出る。

公生のピアノ演奏を聴いてもらう事になっている。

だから皆で朝早くから迎えに行くのです。

病院から出発する時、かをりが倒れる。公生にピアノを続けてほしいと言って。そして集中治療室に運ばれる。

ひろこさんはこんな状態だと無理だと思い、コンクールは辞退すると電話で伝える。

数時間後、かをりは亡くなる。

皆が悲しみに暮れている時、ふと公生がいないのに誰かが気が付く。

どこに行ったのかと探していると、ひろこに電話がかかってくる。辞退すると言ったコンクールから「公生が来てるけどどうなってるのか」と。

皆がコンクール会場に向かう。と、今まさに公生の番が始まる時だった。

公生は椅子に座り、ゆっくりピアノの演奏をしだす。

 

っていうのはどうでしょう? ここからはアニメの最後の演奏とほぼ同じでいいですね。

これで公生が死を乗り越える作品になります。

公生は聞いてくれるかをりはもういないと分かっている。もう会えないと分かっている。しかしピアノを弾きます。

これはアニメを見ている人達にも同じです。見てる人達も死んでいるのは分かっている。この後にハッピーエンドが無いのも分かっている。しかしそれでもピアノのシーンを見ます。

ここでアニメを見ている人と公生の気持がつながるのです。ここで死を乗り越えると言う意味が、見ている人にも伝わるのです。

万感の思いを込めて、それでもピアノを弾く事を選ぶ公生のシーンは、元の話よりずっと良いと思いませんか?

 

私にはこうなっていたらコピーとは言わせない物語になっていたと思います。

つまりまだまだ物語には先があると言う事ですね。

多くの物語はコピーであったとしても、まだ完ぺきには程遠いのですからね。