号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

ルーブ・ゴールドマン・マシン

アニメ「結城友奈は勇者である」2期見ました。気になった所を書きます。批判です。

 

このアニメ見てると、押井守さんが本で言ってた事が頭に浮かんできました。

「同じジャンルの物を沢山見ろ」「駄作も見ろ」と言う事です。

何でもそうですが、似てる物を比べて見ると違いが分かりやすい。

そしてその違いでどこがどう良いのか? 悪いのか? が浮出て来る訳です。

 

まず皆「まどマギ」に似ていると思う訳でしょうが、それに比べ何が劣っているのか?

細かな所はさておき、大きな所を言います。

ここでも押井さんの言葉が浮かんでくるわけです。

「一つの台詞でも表情でも構図でもいいから、それに向かって映画を作っていくのが監督の仕事だ」と言う事です。これが演出と言うものだと思います。

そして演出と言うのは一つの台詞でもそうですが、一話の終わり、数話まとめてのエピソードの終わり、そして全体の終わりに何をするのか? まで含めた物だと思いました。

つまり全ての事で最後を決め、そこに向かい逆算して作っていくものだと思いました。

虚淵脚本で言うと、「まどマギ」もそうですが、もっと分かりやすいのが「サイコパス」でした。

サイコパスは明らかにやりたい事に向かい作ってる印象でした。「シビュラシステム」がどんなものか分かるシーンに向けて。主人公がアウトロー側に行ってしまう事に向けて。そして魅力的な犯人を主人公が追いかけて追い詰める事に向けて。

この他の細かい所も含め、それらやりたい事、魅力的な事に向けて逆算して作られているな、というのが分かりやすい話でしたね。

この時はまだ私はこう言う「逆算してそこに向かい作って行くのもいいだろう」と思っていましたが、そうじゃなくて普通は全ての作品をこう言う風に逆算して作っていくものだと思えてきました。(あくまで普通はです。なんでも例外はありますが)

ただ作り出す始めは何からでも良いと思っています。こんな設定、世界、キャラを出したい、等から考え始めても良いと思います。しかしそこから後ろを考えて行ったとしても、最後まで一度全て決めてから、もう一度戻って逆算して作り直していくべきです。

そして「まどマギ」もそう言う風に出来ていたな、と思います。同じ虚淵さんですからね。

では「結城友奈は勇者である」は? どうもそう作ったとは思えないのです。2期でも友達が死んで暗い話になって来たのに浴衣来て祭りに行ったりします。とても腰を折るのが上手い。流れを立つのが上手い印象です。

これは全体を通してみた時に、最後を見てそこに向かって一本の流れで見て無いからでしょう。部分部分、つまり一話一話ををつないだら出来るものだと思っているのでしょう。

まどマギ」の上っ面をまねても、中身の良さを分かって無いから劣化コピーにしかならないのです。

 

そしてもう一つの超有名作品「エヴァンゲリオン」も入ってますね。

有名所を足せばいいと思っているのでしょう。でもそこは良いと思います。

ただエヴァの方もそれの良さを分析して取り込んでないから、上っ面のコピーで終わっているのです。

 

私は映画「ハリーポッター」の1と2だけを見てます。そして思ったのは「やっぱり学校物はいいな」と言う事です。

単純に同じ年の男女が一堂に集まりますね。集まらないと物語が出来ませんから、自然に集まる状態を作れる。そしてまだ未熟です。つまり不完全でよく未来もあるので物語の出演キャラとしたらピッタリです。学生なのでまだ暗い話が無くても良い。給料とか住む所とか自分の子供の話とか面倒くさい話は無くても良い。男女の話も入れても入れなくても自然であり、プラトニックでもいいので好きに物語を作れます。

つまり学校は物語を作るうえでとてもやりやすい設定ですね。

 

そして「エヴァ」でも学校に行きます。しかしロボット物です。だからそれを上手くまとめないといけませんね。

そこで考えられたのが「防衛戦」です。つまり守るべきものがあり、そこに敵が来るので待っていて良い訳です。そしていつ来るか分からないので、そこで暮らし、まだ子供なので学校にも行くのです。

日本の何処に来るか分からなければ、皆が一緒の所に集まっているのは不自然です。例えば東北や九州とかにエヴァを分散配置する必要がある。

そしてこちらから攻められる状況なら、のんびり学校に行ってるのもおかしい。

それらを回避して学校に行ける状態を作る設定にする為には「防衛戦」しかないわけです。上手く出来てます。

それに加え庵野監督はウルトラマンもしたかった筈ですね。未知なる怪獣がやってくる。ミッションが始まる訳です。そしてそれを倒して終わる。これは流れとして分かりやすく盛り上がりやすいものです。ウルトラマンの良さを分かっている人が良い処を取り入れたのです。

勇者2期だと、また途中一話まるまる日常系をやってきます。でも日常系をやりたいのなら日常系アニメを作れば良い。なんでこのアニメでそれをするのか?

そこでエヴァです。この勇者アニメもエヴァと同じく防衛戦にしてるわけです。だから学校に行けて普通に生活も出来ている。

ならエヴァみたく一話の前半は日常系にして後半戦闘、でいいじゃないですか? それで緩急が付くし、前半明るくするほど後半の辛さが浮き上がって来る訳です。

この緩急のつけ方が悪い。感情も色々織り交ざって出て来る物語の方が盛り上がる筈なのに、一つの色だけを長々見せる。エヴァをまねるならエヴァの上手さも真似てほしかったですね。

 

この勇者アニメは「まどマギ」と「エヴァ」の二つの良く出来たアニメを真似てます。それは構いません。

問題は上っ面を真似ているだけな所です。

それぞれの良さを理解して取り入れて無いからです。残念です。

 

そして2期の後半、勇者の章になると無理やり感が強くなってきます。

話が進み複雑になって行くほど調整が難しくなってくるものです。

つまりよくよく考えて作らないと無理やり感が強くなってきます。

このアニメは始めからあまり考えて作ってないので、2期まで来ると更に無理なのがはっきりしてきます。

 

このアニメ、ご都合主義がありますが、まあある程度は目をつぶります(私だけではなく、多くの皆がそうだろうと言う事です)。最後頑張ったら理由もなく上手く行く所とかです。

ちょっと雑過ぎるとは思いますが、これは頑張れが何とか行くと言う事を伝えたいと思えば、まあ何とか通るものです。

しかしこのアニメの肝心な所、心に訴える所です。この肝心な所で手を抜いてはいけない。ここでご都合主義をすると全てが破綻します。心に訴える所も無くなれば何も残らないアニメになるからです。

 

基本このアニメは泣かせたいのでしょう。だから2期は皆がよく泣く。もらい泣きですね。これは簡単で効果はあります。しかしダメですけどね。

漫画家の山田さんが「泣かせるのは簡単だ」と言います。押井さんも似たような事を言ってたと思います。

私は半分はそうだと思うが、半分は違います。

私は「天気の子」でも泣きそうになりますが「いや違うな」とすぐ気が付きます。

つまりそれらしい雰囲気、状態を作り、良い音楽にのせて、キャラに泣かせるか叫ばせればそれらしくはなり、もらい泣きをさそえると言う事です。

しかしそれは「まるめこんだ」でしかないのです。

その時の一瞬はそれでまるめこめても、それは長続きしません。

一年後、十年後に覚えていて「あのシーンは感動した」と思えたらそれが「本物」です。

その一瞬をまるめこみ、おぼえてもない物、おぼえていても「違うな」と後では見えた物は本物では無いと言う事です。「偽物」です。そして「詐欺」です。

とにかくこのアニメ2期はもらい泣きをさそいます。詐欺アニメになっています。気を付けましょう。

 

そしてご都合主義です。シーン内のキャラの動きでこれをやるのが私は昔から嫌いです。それは何も信じられない嘘っぱちだけで出来てると露呈するからです。見てられないのです。見るに値するものでは無いと物語の方から言ってくるからです。

例えば友奈がおかしいとニボッシーが気が付くシーンです。なんで正直に話してくれないのかと怒りにニボッシーが走り去っていきます。そこで体調が悪い友奈は倒れる。明らかに「体調が悪い」じゃないでないですか。それを振り返りもしないで倒れたのを見もしないで走り去っていくニボッシー。

他の子も長く友奈の異常を無視します。実際の中学生だとこれほど体調がおかしい子がいても分からない事があるのは間違ってない。しかしこの子らはいい子なのでしょう? 他人を気づかえる子達なのでしょう? なのに友奈が明らかにおかしくても長々無視です。

これらは監督がそうしいたが為にそうしてるだけです。この子らの設定や物語の設定を無視し、友奈を一人で苦しませる為だけの「捻じ曲げ」です。これは冷めるので決してしてはいけませんね。やる奴よくいるけどね。

 

物語は作り物です。

だから物語は全て人がそうなる様に作ってるだけのものです。

だから友奈を一人苦しませるために、周りの子らを鈍感にしてもかまわないのだと思っているのでしょう。間違いです。

なんで「ご都合主義」という言葉があるのか? と言う事です。

全てが人のおもい通りに進むのだから、どうなろうがご都合主義じゃないですか?

しかし同じ作り物でも「ご都合主義」と「ご都合主義に見えない物」があると言う事です。違いがあるのです。

問題は「見てる人がどっちに見えるのか?」だと言う事です。

 

ここを考える上で参考になるもので「ルーブ・ゴールドマン・マシン」があります。

番組「ピタゴラスイッチ」の中で出て来た「ピタゴラ装置」と言った方が通りやすいでしょう。

ドミノとかボールとか棒やひもなので、次々作用して基本倒れてつながって行く装置の事です。

これは装置を作り、そして初めの一押しだけ人が手を出します。

しかしその後は手を出してはいけないものですね。途中で失敗して、例えばドミノが止まってしまったとして、その時画面の外から手が出てきてその続きを倒すシーンがあったとしたら残念ですね。

全てがつながり順々倒れるように作っているが、そうなる様に人が作った物です。だから人が途中で手をかけても同じじゃないか? と言っても、それは違う。始めの一歩は人が手を出すのだから、途中出しても同じだろ? と言っても違いますよね?

途中で人が手をだすのは「つまらない」のです。人に見せる為の物でつまらない時点で失敗です。

そしてつまらない理由として「意味が無い」のです。ドミノがつながってなくて所々で止まり、その都度人がその続きを倒していいのなら、始めから人が全て倒せばいいじゃないですか? つまり意味が無いのです。それでいいのなら、なんでも出来るからです。

 

そして物語です。これも装置やそこに置くキャラの感情を決め全てセットする。

そして用意スタートと始まったら、それらが次々に作用していって物語が勝手に進んでいく「様」に見せるべきなのです。

終わりの方に急にご都合主義な設定が現れる。もしくは人の行動や感情がおかしくなる。これはドミノがつながって無い時に、画面外から出て来る人の手です。

これが見えた時点で失敗です。それではなんでもありだとバレるからです。

人の葛藤も悲しみも意味が無いのだとバレるからです。

監督がやりたいように全てがなるだけだとバレるのです。

もちろん監督がなりたいようになるのは皆分かっている。ただそれを意識させた時点で見る気がなくなるからダメなのです。

皆がなる様になるのは分かっているが、物語を見ている間は思わせてはいけないと言う事です。

 

「ルーブ・ゴールドマン・マシン」で始めに全て作り上げる。

そこからは皆が知っている物理法則にそって、全てがつながって勝手に進んで行く。

物語はそうするべきです。

途中で皆が信じてた物理法則を変えるから、ルールを変えるから、それがご都合主義と呼ばれるものになります。

ご都合主義は客を裏切った行為です。

「ルーブ・ゴールドマン・マシン」で手が画面外から出てきてドミノを倒したら「裏切られた」と思うのです。

 

さて、このアニメは問題だらけでしたね。

でも最後まで見ました。最後まで見れないアニメが多い中で言ったら、可能性がある作品に見えたのでしょう。

別に他の名作の良い所取りでも良いと思っています。見た事の無い要素何てまず無いですからね。

でも、他の作品の何がどの様に良かったかは、よく考えるべきです。

他の作品の良さを掴むのが上手かったのが庵野監督です。虚淵さんも良さが分かり取り入れる人だと思います。

この人達レベルまで行ってほしいと言うのは、無理なのでしょうかね?