アニメの方の「シドニアの騎士」見ました。
感想、ネタバレです。
このアニメから考えられるアニメと漫画の違いに付いても言います。
アニメの結論から言うと、始めは面白いのですが、最後まで見るとどうかな?
まずいい所
たぶんですが、この元の漫画の原作者、弐瓶さんはSF(小説?)からの影響がつよいのでしょうね。
ガンダムなどのロボットアニメに影響された人が描くと、どうしてもそれらの常識に流されます。
このシドニアの騎士を見てると、他の多くのロボットアニメが過去のアニメに流されているのに気が付きますね。
過去のアニメが常識として頭にこびりつき、幅の狭い世界になってきている気がします。
これは良くないことですね。それでは広がりがないからです。
しかし少し違うところからの影響から来ている人が描くと、こうも常識に違いが出て新しい感じがして面白くなるのだな、と改めて思えました。
やはりアニメからアニメを学んではいけないし、漫画から漫画を学んではいけませんね(アニメ、漫画だけ、ではいけないと言う意味です)。
もちろん、SFを見ている人から見れば、このアニメも新しくはないのでしょうけど、アニメや漫画として見ると新しく見えますし、この程度離れた所からの情報位は取り入れるべきだと言うことです。
人とかが3DCGですが、それもこの原作者の描く、人がロボットっぽい絵柄に感じが似てるので、意外とあってますね。
そもそも元が未来を描くSFであると言うことから、弐瓶さんが描くロボットっぽく描く人であっているのですけどね。
そして本当の未来人が、どこか3DCGに似てくるのも(狙って描いてるわけでは無いでしょうけど)あっている気がして面白いですね(未来では不老不死とか性別を変えれるとか、どこか作り物みたいな人類になっている気がする、という事を暗喩的にあらわしている用に見えると言うことです)。
なので始めは面白いのですが、最後まで見ると、どうも話や演出がこなれてない気がしてきます。
始めは星白がヒロインっぽいのでうが、簡単に死にます。
後で復活するのか? もしくは何か記憶が記録として残っていて谷風に伝わるのか? と思っていたら、そうでもないですね。
だとしたら死に方が簡単すぎる。それまでの話の流れから言うと、死ぬ時が弱すぎるのです。
死ぬ事自体は、まあありでしょう。そこから主人公が乗り越えていく物語にするのもありですから。
では二期からのイザナがヒロインっぽくなるのはどうなのか?
イザナがヒロインになるのはいいとして、それを二期後の映画でなかったかのようにしてます。あれはないでしょう。
それでは二期でやっていた事がおかしいからです。物語的にです。
もしそうしたいのなら、始めからイザナをヒロイン的に描かず、どうなるのかな? 誰がヒロインかな? と描く必要があります。それがない。
つまりラブコメや恋愛物みたいな描き方をするのなら、恋愛物として上手く描かなければならないのに、それが下手なのです。ならいっそ始めから恋愛物にするべきではない。
結局つむぎがヒロインになりますが、あれはいいと思います。SFっぽい作りにあってますね。
しかし、そうしたいのなら、そこに向かい全てを逆算して演出していくべきなのに、そうなってない。
だから全てを一本の話としてみると、上手くない作りでしたね。もったいない。
最後にちゃんと決着を付けるのはいいし、残っているキャラも決着を付けようとしているのも好感が持てます。
ただ、どうも取って付けたかのような決着の付け方だったのが、どうかな? と思えました。
くなとを良い奴にして終わらせますが、星白を殺した張本人なのに、どうなんだ?
イザナも急にゆはたと付き合い始める。それなら始めからそういう方向もあると前もって演出しておくべきなのに、それが無い。
つむぎがご都合主義で人になる。あれもせっかく融合個体だったのだから、融合状態で人の大きさになり、人とガウナの架け橋になるとすればよかった気がします。
落合もかなたも中途半端な行動でしたね。
かなたに谷風が最後言った言葉も訳が分からない。「シドニアの騎士だからだ」みたいな事を言って落合を攻撃する。谷風は馬鹿なのかな?
どうも最後には作者の限界が見えて来た気がして、残念でした。
ガウナがなんなのか? 何かしら答えを出すかと思っていたら、何もなかったですね。
どうも落合が「記録するもの」とかなんとか言ってましたが、だから? としか思えなかった。それは「だから、こうすべきなんだ」という答えがなかったからですね。
ここで私はエヴァの使途を思い出しました。あれも人を滅ぼす(ように見える)謎の敵が襲ってくる話です。
あれも普通に見ると訳がわからないただの敵なのですが、実は暗喩があるのが分かって来ました。70年代頃の左翼ですね。
この暗喩があるおかげで深さが出てきます。暗喩としてみなくても、左翼的な生命体が、70年ごろの左翼運動家みたいなよく分からない理由で攻撃をしてきてる、と見ることも出来るからです。
つまりあの使途という不思議な生命体に、裏の複雑な理由が実際にあったと(勝手に)考えられるという事です。
実際の物を暗喩とすることにより(実際にあったので)整合性の取れた裏設定を勝手に思い描くことが出来ると言うことです。
もし使途に色んな裏状態があったとして、それを今後(やらないだろうけど)庵野さんが描こうとしたら、元の暗喩にそった内容から整合性の取れた設定が簡単に思い描けることでしょう。
だから使途などのエヴァの敵は深さが出てるのです。見えない裏側が本当にあるからです。
しかし「シドニア」の敵や「ゆゆゆ」の敵はそこまでの深さは無いことでしょう。
だからエヴァはレベルが違いますね(そこを始めから狙ったわけではないでしょうけどね)。
(リアルは複雑です。だからリアルな物を暗喩として持ってくると、整合性の取れた複雑さが増すのは面白い効果ですね)
シンエヴァあたりまで来た時の裏の深さも違います。
それは長い時代かけて描いてきた、とても多くの設定があるからなのもあります。
しかしそれ以外に「アニメだった」ということもあるのです。
つまり「多くの人が関わって作っていたもの」という事です。
多くの人が作り上げてきた物(ロボットの絵的なものから設定等も含めて)であることから、一人が思い描けるものを超えているのです。
漫画はそうはいかない。
以前から思ってますが、漫画は(大体基本は)一人で絵も書き、物語も作ります(アシスタントがいるのは知ってますが)。
この違う2つをやろうとしてるので、元々無理なのです。
始めから二刀流と目指すのが漫画家です。大谷翔平を始めから狙ってるのです。
アニメもそうですし、実写の映画もうそうですが、(実際にない)風景や細かな小道具の絵や設定などは、監督以外が作ります。脚本も他人です。映像だってカメラマンが決めるようです。だから監督は演出などに没頭が出来る。
しかし漫画家は(基本)全て一人が決めます。だから難しすぎるのです。
シドニアの騎士を見てるとそこに気が付きます。
最後まで来ると、どうしても限界が見えてくるのです。
これは原作者の能力がどうとかいうのではなく、そもそも無理だと私は思っています。
ただ、たまに映像会の大谷翔平があらわれます。
宮崎駿さんですね。
でもめったにいない。普通は無理なのです。
だから沢山の才能を集め、それをまとめるように作った新エヴァやピンドラは、もはや一人の人間では到底たどり着けない物になっているのです。
だからそれと比べると「シドニアの騎士」は今一に見えるのですが、そもそもが違うものなので比べてはいけないものですね。
ただもしこの原作を元に、他の沢山の人の才能が合わさって始めから練り直した物語が描けたのなら? なんて事を考えてしまいます。
逆に言えばそれくらいの事をして、初めて人智を超えたすごい物が出来るのでしょう。
良い悪いは別として、思ったより漫画とアニメは違うものなのだな、と最近思えてきました。
だから違うものと理解して、アニメや映画にするのなら内容や描き方を変えてくる必要があるのも分かってきました。
早く世間がそれに気がついて、大きく変えてくる必要があるのが常識になってほしいと思います。
ちょっと気がついた細かな事をここに書いときます。
漫画は断片なのだな、と気が付きました。
映像ものだと「何かが起きる」ときから、それを逆算して前もって準備しておくべきです。
例えば「誰と誰が付き合う」と言うのがあれば、それに向かい前もってそうなるのが自然に見える前準備を入れておくべきです。それがなく急に付き合うと「なんだそれ?」となりがちです。
しかし漫画は断片であるという思いがある。少なくとも見慣れている人だとあると思います。
一つは連載なので、途中の止まっている間が長い。長い途中で勝手に脳内で補完するのでしょう。
絵で見ても動きがないので止絵で描き、途中を脳内で補完します。これも「補完するものだ」と言う脳内での動きを助けると思っています。
連載が終わってから一気に読んだとしても、漫画は途中でいくらでも止めれます。だから自分の時間の長さで読める。納得出来るまで読んでから次に進める。だから自分の脳内補完する時間が得られやすいのです。
などの事から、漫画のほうが「大事な前もった準備」が無くても成り立ちやすいのです。なくても勝手に脳内補完してくれるからです。
だから「漫画だと成り立っているから、前もった準備がいらない」と思った間違いなのです。
流れていき一気に見せるアニメなどでは、前もった準備をしておいてそれが結果に結びつき、初めて演出が完成して納得するのです。
これらも漫画とアニメは違うものだ、と言うものの一つだと、今回のシドニアの騎士で気が付いた、と言う話でした。