号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

いくつかの映画の感想 4

実写の映画の感想です。

ミスター・ノーバディ

「ぼくのエリ 200歳の少女」

「昼顔」

です。

 

 

ミスター・ノーバディ」2009年のSF映画。

(「Mr.ノーバディ」と言う、面白ろB級バイオレンス映画とは違います。こっちはこっちで面白いですけどね)

 

SF映画のていで作ってありますが、それはどうでもいいのです。

あれは、それらしい設定がないと納得しないから(不安だから)、一応ある設定、だからです(監督がそう思ったのかは分かりませんが)。

大事なのは「人生、色々あるよね」と言う事です。

 

色々な分岐点で、色々な可能性がある。

それらを見て、納得したり、間違えていると思ったり、参考にしたり、はたまた未来など予測は出来ないと思ったり、等をすればいい物語です。

ノーバディなのは、あなた達の、可能性の物語だからです。

 

ただ、普通の物語はほぼこれです。

大きな事件が起きない物語は、ほぼこれなのです(人生色々あるよね物語だと言う事)。

それを、色々な可能性を見せる事で、単純に面白くしているし、分岐点があるから自分で考える事も促す作りです。

これは面白くはあります。

 

ただどうかな? 微妙な塩梅じゃ無いかな?

どうも、どうしたかったのか? はっきりしない作り、つまり焦点がブレている気がするのです。

だから感動しないし、だから記憶にも残りそうにもないし、だから名作に連なる事は無い映画です。

 

最初と最後の老人、いらなくないですか?

物語上、進行役と、納め役として必要だとも言えるのですが、だとしたら多く出過ぎる。もっと出番は少なくていい。

 

逆に老人を出すなら、人生の話にしないといけない。

なのに、ただの人生の一部、恋愛の話で終わります。

子供の存在など、無視でしたからね。

 

恋愛の話にしたいのだろうけど、ちょっとスタイリッシュすぎる。

明らかに、のぼせている物語であり、酔っているだけの物語です。

(人は、たまには酔ってみる事も良い。だけどずっと酔ってるのはアル中です。それが人生に酔っていてもです)

 

もちろん、その酔っている物語をしたかったのなら分かるのだけど、そうなると人生の話ではなくなる。

あくまで恋愛話でしかない。

恋愛話にしたかったのなら、老人はいらないのです。

恋愛話に絞るなら、単純に、未来がちょっと分かる人の話で良かった気がするのです。

 

細かな事を話します。

映像は凝ってましたね。金もかかっていそうです。

 

老人の思い出話にする事により、未来が分かると言う内容も面白い。

ただ思い出しているだけだから、未来も予測が出来るだけなのに、それがちゃんと通る設定なのが面白いのです(もちろんSF設定で未来が分かる理由も入ってましたが、あれは大した事ではない。主軸と関係がない話だからです)。

もちろん、記憶障害がある事が前提ですが。

 

あとちょっと面白かったのが、出て行った金髪の嫁が、床屋で働いている所です。

まずそれを主人公が舞台で見ていると言う設定が入る(これは大した事は無いのだけど、凝ろうと努力しているのが良いと思ったのです)。

そして昔の男の写真を見ている。その後客が来て、髪を切る。その後また昔の写真を見る。と言うシーンです。

たぶんあの来た客が、歳を取った昔の男ですよね?(年取り過ぎだから違うか?)

女に気が付かない男は、元々興味もなかったと言う事。

歳をとった男に気が付かない女は、男そのものではなく、昔の思い出に浸っているだけだと、うたっているのです。ここは上手かったです。

 

そんな所です。

もっと焦点を絞れば、もっと良かった気がする映画でした。

 

 

「ぼくのエリ 200歳の少女」2008年のスウェーデンの映画。

 

押井守さんが推すので、見てみました。

まさに押井さんが好きそうな、ダルい映画です。

 

ヴァンパイア物ですね。

現代のヴァンパイア物の感じが良く出来ていて、そこは良かったです。

 

この映画、映画の映像の本でものっていたので、映像作りに凝っているのだろうと思うのです(素人なので、よくは分かりませんが)。

だから、いつもは私が気にしない、映像作りにも気を付けてみましたが、そう見ると良く出来てそうです。

何気ないので、詳しい人じゃないと気が付かないだろうけど、凝った映像作りでしたね。

 

これはネットでもみな言ってましたが、邦題がクソですね。売る気が無いのかな?

 

押井さんが好きな、何気ない雰囲気が長く続く映画です。

実生活でも、何気ない雰囲気が心地よい時もありますが、映画だとどうでしょうか?

特に今のいくらでも見る物がある時代だと、長いダルい映画は見てられないと思います。

商売としてやっていけるだけの好きな客がいるのなら、存在は否定しませんが、私は好きでは無い。

もっと客受けを狙っても、良いのでは無いのかな?

何度も言ってるけど高畑勲の「赤毛のアン」みたく、ダルそうなのにダルく無く作る事も(難しいが)出来ると思うのです。私はそれを狙う映画が好きですし、世の中でも一般人はそうでしょう。

(だから、バイオレンスにしろとかではない。ダルそうな雰囲気を多く残したままでも、やり方はまだあるだろうと言う事です)

 

内容は、微妙です。

最後など特に、メッセージ的に危ないですね。

ただちょっとは気にしているのかな?

首が飛んだり血が流れたり、怖い要素があり、だから乗れなくなってはいる。

最後も含め「失敗の物語」(反面教師)だとも取れる内容だからです。

(「天気の子」などみたく、一見良さそうに見えるものが、メッセージ的に危ないのです。子供を勘違いさせるからです)

エリに付いてきた、人殺しのおじさんがいたのも良い。最後付いていった少年の最後が、あのみじめな死に方のおじさんだとも、取れる内容だからです(つまり、おすすめ出来ない道を選んだとも取れる)。

 

ただ、普通に考えれば、この「映画の後」の方が盛り上がる。

たぶん子供の親が追う物語になる。父か母か? 両方か?

それに、殺された子供の親も追う。復讐です。

生きる為に人を殺すのを正当化するのがエリなら、自分の子供を救うため、もしくは子供のかたきの為にエリを殺そうとするのも、正当化されるからです。

子供なのに、金の力と、エリの力で逃げる逃避行。それを追う、親達。この方が盛り上がるは、盛り上がる。

それから、何年経つのか? 下手すると何十年後になるのか? 分かりませんが、最後は死ぬのでしょう。エリは死ぬ。オスカーはどうかな? 生き残った方が余韻はのこるけどね。

 

たぶん、この盛り上がる後編は作られない。

盛り上がるからです。

すなわち、芸術的に余震を残す為には、この不完全な最後で、客に考えさせた方がいいのです。その方が心に残る。

その感想が否定的でもいい。というか、否定的な感想を言うべき物語です。

盛り上がると、芸術性がなくなるから、しないでしょう。

 

でも子供向けと考えれば、つまらなくても最後は作るべきです。

いや、つまらなくする為に、そして余韻も残さないために、最後終わらせるべきなのです。

それが解放です。子供を物語から解放させ、現実に戻すのが大人の仕事です。

 

ただ、そうは言っても、この映画が子供向けとも言えないから、微妙ですね。

分別がある大人向けだったら、これでも良いと思います。

この映画の最後は、大人は否定するでしょうけど、それでいいのです。

 

ちなみに、映画ではエリの股間にモザイクがはいってましたね。

本当は虚勢された股間が映るようです。

エリがオスカーの興味をいだいたのは、イジメられていたからです。

エリは酷い目にあっていたのです。ヴァンパイアだからです。だからオスカーの気持が分かった。

ヴァンパイだから病気だとされ、子供も作れない様に虚勢されたのでしょう(それでも殺されなっただけましかもしれない。生きてる事も含め、元は裕福な所の子供だったのかもしれない)。

 

それと、父の所にやって来る男がいるシーン、変じゃないですか?

たぶん彼氏なのかと思うのです。父のです。

ヴァンパイアとはマイノリティーの暗喩だともとれるので、そこにかかっているのかな? マイノリティーがいる事自体は、普通だと言う為に。

それにもしかしたら、オスカーも男色かもしれない。

そうだとしたら、男のエリについて行ったのも、不幸は生まないでしょう。

 

ただ、少年なので、数年後女が好きだと分かったら不幸を生みますね。

それを避けるためにも、父をそうしたのかな? 息子もそのけがあると言う為に。

 

まとめると、気を使ってはいるが、どうも怪しい作りなのがこの映画です。

やって良い事と、悪い事の間くらいの話だと思ったのです。

だから手放しで喜べる話ではありませんでした。

 

 

「昼顔」1967年の、フランス映画です(斎藤工の方ではない)。

 

妻が浮気をするのだが、ただの浮気で飽き足らず、売春をする話です。

趣味で売春をする話であり、だから客も含め「色々な特殊の性癖があるよ」と言う話です。

この辺の性の話は、この後でもっとずっと開放的になり、映像的にも過激なのが上映できるようになる。

この映画の時代だと、これで新しかったのかもしないが、今だとただ古いですね。

歴史上は価値があるのかもしれないが、今だと古くさい映画だと言う事です。

 

そもそもが気になったのは、寺山修司が興味があると言っていたようだからです。

だとしたら、暗喩がある筈なのです。

 

正直、今回は分からなかったです。

ただ怪しくはある。

67年のフランスだと、次の年に5月革命です。左翼的な事も流行っているし、チェゲバラ毛沢東も流行っている時期です。

この頃のフランスを暗喩としているかもしれない。

客に、東洋人(中国人か?)がいたのも怪しい。毛沢東の暗喩かも知れないからです。

 

つまり、体を売っている事は、国を売っている事の暗喩。

自分を痛めている事は、国を痛めている事であり、それはおかしな性癖みたいだと言ってるかもしれないのです。

 

そうなると、旦那は何か? アメリカか?

気狂いピエロ」の時も言ったけど、ベトナムアメリカに押し付けのがフランスです。それでベトナム戦争になり、傷付いている事を描いたのかな?

 

最後旦那が何事もなかったかのように立ち上がる。あれは嫁の幻だと言われています。

幻に支配されているおかしな嫁とは、幻に支配されている国民の事です。

ただ、旦那がアメリカだとすれば、結局また立ち直るアメリカを表したとも取れるのです。

 

しかし初めに言った様に、これはどうも納得がいかない。

もしかしたら、ちょっとはかけているのかもしれないけど、ゴダールみたく明らかな暗喩物語ではないから、あってるかは微妙です。

 

それと、もしかしたら寺山は「暗喩物語だ」と思ったのではなく「暗喩物として使えるな」と思ったかもしれない、とも思っています。

「売春を暗喩だとして使えると思った」と言う事です。

それで作ったのが映画「サード」です。あれは明らかな暗喩物語でしたね。

 

 

まとめです。

今回の三作品は、私にはどれも微妙でした。

「昼顔」は古いからしょうがないかもしれないけど、他の二作品はもっと出来た可能性はあるな、と思っています。

ただ「ぼくのエリ」の方は、良くもなるけど悪くもなるから、どっちが良かったか分からないのですが、「ミスター・ノーバディ」は変えた方が良くなるだけな気がします。