号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

誰がサンディーを殺したか?

映画「ラストナイトインソーホー」見ました。

感想、ネタバレです。

 

実は大して言いたい事もない話です。

始めの方はよく出来てますね。絵的に見せるのが(魅せるのが)とても上手いです。

お金もかかっているし、妙に力が入っています。

サンディーが出てきて、落ち始める所までの事です。

上手いのと、凝ってるので、この初めの方を見せたいが為の物語だった気すらします。

 

しかしそれ以降がダサいですね。B級かC級のホラー映画調になってきます。

諦めたのか? そもそも興味すらなかったのか? 分かりませんが、作りが急にいい加減ですね。

そもそも初め田舎から出てくるシーンも、エリーが踊っている所以外は妙にダサい作りです。

もしかしたら、このダサく、だから長く感じるオープニングが効いてくるような作りかも? と思っていたら、そんな物はなかったですね。

 

最後まで見れば分かるけど、黒人のジョンですか、いい加減な取って付けた役でした。名前がジョンなのもいい加減です。

ジャックも始めは良かったのに、最後はただの悪人と言う名の駒てきな使い方です。

おばあさんも、そしてお母さんも取って付けた役で意味がない。もしかしたらミスリードで役立ったかも知れませんけど、なら使い方が悪い。

ジャカスタの使い方もいい加減。

そもそも元警官のおじいさん、どうなったの? 死んだの? この役のいい加減な所に、この監督のいい加減さが出てますね。

 

つまり、いい加減なのにミステリーをやろうとするから無理なのです。細かな配慮が出来ない人がミステリーをしてはいけない。

だからその辺を誰か他人に任せればよかったのに、と思いました(いや、やった結果だったのかもしれないけど)。

 

ではミステリーの所をどうすれば良かったのか? を考えます。素人の個人の意見です。

 

本当は映画「アイデンティティー」みたく、次元の違うミスリードが良いのだけど、そうなると根本的に大きく変えないといけないので、今回は止めます。別の映画になるからです。

なので、この映画を大きく変えず良くしようとする、とします。

 

そもそもミスリードとは「何かを考える事自体を、ミスリードする」方がいいですね。そうじゃないと難しいからです。

つまり「この殺人事件の犯人は誰か?」と言う問題があるより「実は犯人は誰かなど関係がない事件だった」とする方が良いと言う事です。考える問題自体を間違えさせるのです。

人は馬鹿ではないので、問題がはっきりしたら答えは分かるものです。

それでも分からないようにするには、漫画「名探偵コナン」みたくとても複雑なトリックが必要になり、実行不可能になります。

もしくはそれが答えでいいなら、なんでもやりようがあるだろ、と思えてしまう物になります(それがトリックで出来るなら、他の手の混んだトリックで他の人が犯人でも成り立つという事)。

そもそも複雑すぎるトリックは客にはうけない。「だからなんだよ」と思われてしまいます。

だからそうならない為には、考える問題自体を間違えさせる事が大事です。

 

例えば、この映画「ラストナイトインソーホー」で言うと「サンディーを殺したのは誰か?」とすべきでした。

実際のこの映画では「サンディーを殺したのはジャックだ」とエリーに思われてしまいます。そして「あのおじいさんがジャックだ」とも思っていると言う物語です。

だから裏を考えたらすぐ答えが出て来てしまう。反対を考える事は簡単だからです。

「おじいさんはジャックでは無いだろう」とは皆思うはずです。そうしたら「あの昔にいた変な男の事か」とは皆分かると思います。

それで他にジャックらしい男がいないので、ジャック探しが問題の答えではないだろうから、監督がやりたい事は他の事になり、「サンディーが生きてる事か?」と思えたでしょう(あくまで可能性の一つとしてだろうけど)。

 

やるべき事は、まず「ジャックが殺した」とは言わない事です。

「ジャックは悪いやつだ」と言う物語にしてしまっていたが、そうではなく「悪いやつか? 実は違うのか?」とすべきでした。

その上で、あの「実は警官の男」をもっと出すべきです。昔にちょこちょこ出てきて、いつも近くにいてちょっかいを出す男にすべきでした。そしてしまいに警官だとエリーにはバラしておく。

その上でエリーが思う「ジャックが犯人みたいだ」そして「あのおじいさんがジャックだ」と。

ジャックには印があるとする。入れ墨かアザか? 何かしら分かる物が手首にあったとする。

エリーが「あなたがジャックでしょ?」とおじいさんの入れ墨を確認するが、それがない。それでエリーが勘違いだと思う。

そしてまた昔に戻り、そこでジャックの入れ墨は偽物で、こすると消える事が分かる。

「やはりおじいさんがジャックだ!」とエリーが思う。

 

さて、映画を見ている客は、ここでどう思うのか?

ジャックがおじいさんだとエリーが言うので、それはミスリードで実はおじいさんは警官の男かも知れないと思う。

もしくは、やはりジャックだが、犯人では無いのではないのか? と思う。警官の方が犯人かも知れないと思うかもしれない。

これは「犯人は誰か?」と言う事と「おじいさんはジャックか?」と言う二重の問題があり、それに惑わされている為に、他の事実「実はサンディーは死んでない」と言う事まで頭が回らなくさせるテクニックですね。

 

他にもエリーが初めあの部屋に来た頃に、例えば文字で壁に「犯人を殺せ」と言うのが見えるとしておく。

そうする事で、見てる客に「犯人とは誰か?」と考えさせる事になり、それがミスリードにつながった事でしょう。

答えとしてこの文字を出したのはサンディーではなく、サンディーに殺された奴らの怨念が見せたと言う事になる。

(「犯人を」という事から、殺された奴らはサンディーの顔は見てない事にしていく必要はある。つまり怨念は犯人を生前に見てない事にしてく。サンディーは犯行時マスクをかぶっているとか、寝ているすきに刺すとか)

 

他にも、エリーのおばあさんとかお母さんとを、この話にからめても良かったかも知れない。

そうすればもっとミスリードの幅が増えた事でしょう。

そもそも自殺したお母さん、からめないのならこの話にいります?

 

など、大きな流れを変えなくても、この位は出来たのではないのかな? と思えます。

それでも最後のB級ホラーの場面の時間はもっと少なくて良いですね。図書館のあたりとか本当にいらない。

それならサンディーが成り上がり、落ちていく所と、エリーが重なり上がって落ちていく所を、もっと時間をかけてやればよかったと思います。

 

結果として、いい所があっただけに、何か色々ともったいない物語でしたね。

いい味を出しそうだったサンディーを殺したのは、監督でした、というオチの物語です。