映画「Gのレコンギスタ」はTV版の総集編で、5部作品です。
私は1から3まで見てました。
続きが映画館で、やっとやると言うので「見に行かなくちゃ」と思いましたが、おっくうで行ってませんでした。
やっと今日行ってみたら妙に客が多く「こんなに人気あったかな?」と謎がうまれました。
で、始まってみたら「Gレコ5」でした。
「あっれー?」と思ったけど、謎は全て解けました。今日から5だったのです。つまり初日だから客が多かった。
「よく見て考えろ、じゃないと間違いをおかすぞ」と言う事ですね。
さて、と言うことで4は飛ばし、5の最終話を見てきました。
普通はそうすると内容が分からないのですが、そもそも内容が分からない物語なので、たぶん4を見た後でも同じ様な感想が出てきそうだと思います。
なので感想として「相変わらず何やってるか意味不明」という事です。
まず全体の総評として、やはり富野さんは監督も脚本も、もう辞めて原作か原案に係るのが良いと思います。
このごちゃごちゃした設定をやれるのも、やらせてもらえるのも、未だご老体の富野さんしかいなそうなので、まだそこは頑張って欲しいです。
そして出来たら「なぜそうするべきなのか?」を後輩に伝えていってほしいものです。もう後輩には隠さないで欲しい。後が続かないですよ。
富野さんは元々物語の単純な面白さを描くのが下手な人だと思います。
しかしそれでも若い頃は頑張ってやっていったのだと思います。
しかしもう無理が聞かないのでしょう。苦手なものをどうにかやる気力か体力がないのでしょう。
だから苦手な所はもう次の世代、というより次の次の次の世代位に任せてもいいのじゃないでしょうか?
「閃光のハサウェイ」を見ると、もはや世代交代が必要だと強く認識しますよね。
ただしかし、これだって富野原作です。まだ富野さんに全てやらなくていいと言えないのだから、世代交代を失敗した富野さん達の責任です。責任を取ってから死んでいってほしいものです。
相変わらず最後は死んでいきますが、今回は主要キャラは死にません。
これは「死ねば良いってものじゃない」という製作者側へのメッセージです。
確かに主要キャラは死なないのに、モブキャラ達は死ぬのはどうなんだ? という問題は残りますが、Gレコは極端にやって見せて、後世に残そうとしたからしょうがないのかもしれません。
どっちかに癖の付いた針金をまっすぐするには、逆方向に曲げて癖を付ける必要があるのです。
だから鵜呑みにはしないほうが良い。わざと逆に癖を付けてるのだから、普通にみたら「逆方向に間違っている物語」であることは認識しときましょう。
戦争を辞めないやつ、おかしな奴が死んでいく物語です。まあ分かりやすい。
しかし気になったのはマスクが死なない所です。
彼は戦争を辞めず、最後までベルリを恨んでいるキャラなのに死にません。
「これは何なのだろう?」と思っていたら、彼にはシャアや他の死んだキャラとは違う面があったからですね。
それは「生きている伴侶が居たし、その人の事を大事にしてたし、伴侶もマスクを大事に思っていた」という事実です。だから生きていけたし生きていけるのです(戦争後は物理的にもそうですが、戦争で死ななかったのは物理的ではなく暗喩として描いている)。
今までは誰それを利用してあまり大事にしません(シャアとか)。しかしマスクは最後までマニィを心配してました。それが違いであり、それで生きていけると描いている。
ベルリも最後彼女と再開して終わりです。まあ普通ですが、この普通が物語を終わらせるのだと、長年かかり分かった富野さんがやるから意味があるのです。
ちなみにクリムが生き残ったのも同じ理由です。
マッシュナーが死んだのも同じ理由です。ロックパイを「行かせるべきではなかった」と言ってるんで、行かなくても良かった戦争に行かせ死なせた彼女は死ぬ運命だと言ってるのです(これも内容的と言うより、暗喩的な表し方です)。
ちょっとズレるけど、マッシュナーがおかしくなるのもそうだし、バララがマスクをマニィに譲る所もそうだけど、珍しく女の描き方が上手くないですね。
どっちも男の行動です。
よく見れば「未来は男も女も同じ様に働くので、差がなくなる」と言うことかもしれません。ある程度は今より男と女の差はなくなることでしょう(本能的に限界はあるのだけど、思ったより環境で男女差がでるのが大きいのと、未来は遺伝的に近寄るとSF的に見ることも出来ます)。
悪く言えば、富野さんの年ですかね。女を女として観察する目がなくなったのかも知れません。娘や孫に見えるのかも知れません。
細かなことで、最後までモビルスーツは格好悪いですね。
これは前に言ったけどわざとだと思います。決して言わないだろうけど。
格好いい戦争ロボットに憧れてしまってはダメだと言うことでしょう。
その中でマニィが乗る片足のでかいやつ。あれはいいですね。ジオングを彷彿とさせる。
もう怨念だけが大きくなった、片足のおばけだと言うことです。
しかし死なない。さっきも言ったようにマスクが帰れと言ったからですね。
戦いを止めるか、止めさせる人がいるか、支える人がいれば生き残れるという暗喩です。
富野さんの会話で「今回はガンダムと逆のことをやった」と言ってます。
これはガンダムの否定なのですが、全否定ではないでしょう。
今だと合わなくなった物がある、と言う事と、さっき言ったように曲がって癖の付いた物を真っ直ぐするためにも、逆に曲げて見せる必要があるのでしょう。
とは言えガンダムの事を否定して考えろ、というメッセージはやはりあります。
だから朽ちたズゴックいましたね。ガンダムの時代はもう古いのだと、言いたいのです。
今は(Gレコの時代は)もうガンダムの時代と世界情勢も人の感性も違うのだと言いたいのだと思います。
あのごちゃごちゃした、全体がよく分からない世界なんて、リアルな現代の事でしょう。
そして最後は急に何もなかったかのように終わる。「なんで戦争なんてやってたのか?」と思いませんでした? つまり戦争なんてやらなくてもいい時代になってきたのに、何かと理由を付けて戦争をしだす人がいるという、現代の暗喩です。
相変わらず富野さんの予期してない未来予測はあたります。ウクライナの事です。なんで戦争になったのか、よく分からない戦争だからです。
Gレコはレコンキスタです。富野さんの再征服であり、再定義なのです。
良い悪い両方ありますが(悪いが大きいかも?)考えるべき物語だと言う事です。
だからもう一度言っときます。
これからのフィクション戦争物語をやる人は、考えるべきです。
考えもしない人は、間違いをおかすでしょうから注意です。
それは他人にも不幸を与えるが、自分自身にも不幸を与える事でしょう。
「この作品、浅いな」と言われたくないなら、考えるべきなのです。
最後に「死線を越えて」という題名は富野さんの事でしょう。