アニメ サクラダリセット 最後まで見た考察です。ネタバレです。
うーん? たぶん見た人のほとんどと同じ感想でしょうが、薄味ですね。
悪くはない。間違ってもいない。でも何も心に残らない。
体にいいが薄味の味気ない料理の様なものでしょうか?
何が悪かったのか(あくまで自分にとっての)を言う前に、まずは分かりにくかった所について語ろうと思いますが、その前にいい訳から。
見てる時はそれなりに面白かったのですが、薄味な為か見終わったら細かく見直す気になれなかったので、間違ってるかもしれません。その程度でもよければ見てください。
なぜ相麻菫(そうま すみれ)が死ななければならなかったのか?
まずは、浦地正宗(うらち まさむね)が管理局に能力をすべて使えないように仕向ける為に、わざと能力を暴発させます。
それの協力を相麻はやります。なぜかというとリセットがきく三日以内にすべてを終わらせる為です。そして協力しているように見せる為には一度死んで復活し、自分が相麻菫では無いと思う必要があった。嘘を見破れる索引さん(管理局の女性)に邪魔をしようとしていると気付かせない為に。邪魔をしてるのは相麻菫で、今の復活した偽物の私は邪魔をしようとしてないと思う必要があったのです。
そして相麻はリセットを出来るように写真も浅井ケイ(正式には浅井 恵)(あさい けい)に残すように仕向ける。写真は能力の記憶を消す前の世界を再現できる物です。なので写真の中では春埼美空(はるき みそら)は能力を思い出し使える。
相麻は浦地の陰謀(皆が能力を使えなくさせる)をどうしても防ぐ手段を見いだせなかった。だから浅井ケイを信じて託した。一度未来を体験しリセットをして全てが分かってる浅井ケイなら防げるのではないのかと。
ただこのままでは浅井ケイでも浦地の陰謀はくじけないので、未来を見る自分の能力を浅井に使わせる必要があった。なのでここでも写真を残し、浅井ケイが未来を見れるように仕向けた。
まあ、そうは言っても死ななくても他に方法があったのではないのか? と思ってしまう方法です。
しかし未来を見える人が「他に色々試したが無理だった」と言えば、まあそう言う事なのでしょう。
相麻は浅井ケイを信じて託した、と言いました。
つまり確実ではないし、無理かもしれないと言う事です。
そもそも浅井ケイの為だけにやっている事なので、最後は浅井ケイ次第で成功しても失敗してもいいのでしょう(もちろん相麻は失敗を表上は思っていません。しかし深層ではどうでしょうか? 自分の思っている未来が変わり浅井が自分のものになる事を願ってはいなかったでしょうか?)
そしてもちろん信じた通りに成功します。浅井は一度能力がなくなった世界で記憶をなくした浦地にあい、二時間位しゃべったそうです。それで解決策を見つけ出した。と同時に浅井らしい前向きで正しい解決策の見つけ方です。だからこそ浦地の心を動かしたのでしょう。浦地の能力なら(特殊能力も人間としての普通の能力でも)気に入らなければまだやりようがあった筈です。しかし浅井は加賀谷(ロックする能力の人)の心を動かしたのと同時に、浦地の心も動かしたので成功なのです。
細かく言うと、21話で相麻がビルの手すりに座り、浦地と話すシーンを思い出してください。浦地は「能力がなくなった世界で僕のこの手帳を浅井は無理やり見たのではないのか?」というような事を言います。しかし相麻は「ケイはあなたの思いもしない方法をとった」と言います。
そうですね。実際は浅井は浦地に会い、ただ普通にしゃべったのです。その方法は浦地が思えなかった事であり、思えない方法で解決できる奴は自分が思えなかった世界を作れるかもしれないと思わせる事であり、追い込まれても暴力的ではない解決策をとれる奴は信用できると思わせる事です。能力的にも人格的にも信用するに値すると思わせる行為だったのです。だからこそ大事な手帳を自ら浅井に渡したのです。敗北ではなく信頼なのです。
ここが一番の見せ場だし、一番よく出来た所だと思うのですが、今一もりあがらない。
これは原作者のせいではなく演出のせいだと思うのですが、どうでしょうか?
しかし、そもそもなんで相麻は能力を無くす事を防ごうとしたのか?
それはその未来は浅井にとって不幸な世界だったからです。
親も捨てこの能力なら人々を救えるとこの街にやってきた浅井にとって、能力がなくなる事は不幸かもしれません。能力がなくなっても親との生活も帰ってこないですし。しかも自分だけがその事を覚えているのだから不幸なのでしょう。
でもそんなに不幸かな? と思ってしまいます。なければないなりに生きていけるのではないのかと思います。
しかしここも上手い誤魔化しがあります。相麻は未来が見れるので「そこには浅井の不幸しか見えなかった」と思ったのなら、そうなのだと言う事です。
相麻は自分がふられると知りながら浅井と春埼を会わせます。そして一度死にます。それは浅井の幸せの為だけなのです。そこには自分の幸せは無いと知りながら死んでいきます。SAGRADAの意味を一番体現しているようにも見えます。だから途中からのエンディングでは相麻の叫びが描かれていてヒロインのようですね。なので春埼のヒロイン感が薄れます。浅井の春埼への思いもただのリア充の様に見えます。ここも物語が盛り上がらない理由なのでしょう。
23話の最後で相麻が電車で咲良田の街に帰ってきます。
窓に映った自分を見ながら独り言を言う。人と話す事でその人の未来が見えるので、今回は自分の未来が見える。昔死ぬ前に写真を撮った時からの未来、なので今は過去。その後見る筈の他人の(浅井などの)未来も見える。つまり今までの経緯が全て分かる。浅井の感じた事までも分かる。
そこで実は今まで浅井ケイの為だとしていた事は違っていたのだと気が付きます。
ただの独りよがりで自分勝手で身勝手だったのだと気が付く。
自分が死んで浅井がどれほど傷付いていたのかと気が付きます。
結局は自分の為、自己満足だったのでは無いのかと思ったのでしょう。
自分で何もかも背負い込まなくても良かったのではないでしょうか? 浅井と話し未来を模索しても良かったのではないでしょうか?
浅井の幸せには春埼の能力が必要です。会わせなくてはならない。そうしたら自分はふられる。なら浅井を困らせてやりたくなったのではないでしょうか? 言葉の端々にその感じが出てますね。死ぬ事により、実は春埼ではなく自分の事を強く思えるように仕向けたかった事に気が付いたのでしょう。
別に死ぬ直前でも浅井がどうなるかなんて分かっていた事です。しかしそれが浅井の為だと思いたかった。結局未来が見えても間違えるのが人なのです。
この物語は皆純粋な人ばかりですね。純粋であるがために間違え悩む人ばかりです。だから「SAGRADA RESET」なのでしょう。
だからか大きく身勝手な人が出てきませんね。そしてだからか皆感情を表に出さない。
この物語に足りないのは「叫び」ですね。
浅井は過去を忘れない。これは人として危険ですね。本当にそれだと神経が持たないでしょう。だから感情を抑えています。おかしくならない為に感情を殺している。
春埼は共感力が強い。これも神経が持たないので感情を抑えている。
相麻は未来が見える。だから初めてでも同じ事を繰り返しているように感じる。だからあの口調が染みついたのでしょう。「はいはい、分かってます分かってます、この言葉を言わないといけないのでしょう」という感情が言葉に染みついている。ここの所は声優は良く演じれているようにみえますね。この子は感情を抑えていると言うよりは、同じことの繰り返しで感情がなくなっていますね。同じ事をくりかえすと、なれると同時に飽きて感情が働かなくなるのが人ですね。
なのでこの三人とも感情があまり表に出ません。そしてそれは論理的にあっています。
原作が小説なので叫びはしないですね。小説だと叫んでもあまり効果的ではない。アニメ化にしても原作通りにするのなら叫んだりはしないでしょう。なのでこれもあっています。
でもね。だからこそ、気持ちを抑えているからこそ最後の方に叫びをいれたら効果的だったよなあ、と思ってしまいました。
そしてそれの方が分かりやすくなる。大事な所は強く言う。もっと大事な所は叫ぶのです。ずっと平坦ならどこが大事か分かりずらいものなのです。
ピンドラなんかはアニメを作るつもりで初めから作っているのであんな演出ができる。小説からならあんな演出はしないでしょう。小説にはないアニメならではの演出があると言う事です。
このアニメもそれを理解してもっと原作者とすり合わせる必要があったのではないかと思いますね。ただ原作者が曲げなかったらしょうがないですけど。そもそも原作者が叫びなんて入れたくないと思っているかもしれませんからね。
原作者は「理性的に正しい事をする」それを描きたかったかもしれません。ただ私はそれでも感情を爆発させるのが人だと思うのです。そこに良いも悪いも含め人というもが出てきて、そして見てる人に気持ちが届くのだと思っています。
ただもっと言えばアニメ制作監督は分かっていたのでしょう。オープニングに軽く浅井の叫びが、エンディングには相麻の叫びが描かれています。原作を変えないのならこの位しか出来なかったのでしょう。
何か今回の自分の文を読み返すと、とても否定的に聞こえますね。
いや、サクラダリセットは良かったと思います。
原作者の言葉も上っ面だけではなく、一歩踏み込んでいて自分で考え自分のものにしてから言ってるように聞こえます。
ただ良い事言ってますが、多くの人には伝わってないように思えます。伝え方って大事ですし難しいですね。
それに一歩踏み込んでいますが、まだ進める気がします。ものを分かっている人ならまさかここがゴールだとは思わないでしょう? これは一般論です。この先はこうだ、と分かっていると言う事ではありません。こう言う複雑なものだと、ある程度までたどり着いたと一回や数回思った所がゴールだと言う事はまずないですからね。
この作品も良く出来ているからこそ「もうちょっと?」と思ってしまうものですね。これは私の考えではありますが、見た人の多くはそう思ったのではないでしょうか?
これは原作者のせいなのかアニメ化の失敗なのか? 確かなのは、どっちにもまだ先があると言う事ですね。やるべき事、やれる事はまだある。
「春埼、リセットだ」と言って三話位だけやり直してくれないでしょうか? と思ってしまった作品でした。