号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

1 情けは誰が為に

アニメ サクラダリセット の考察です。

ネタバレです。

 

はじめに

サクラダリセット」のサクラダとはどこから来たのかと言うと、咲良田という架空の街の物語だからです。

そしてアルファベット表記だと「SAGRADA RESET」ですね。

SAGRADA はサグラダファミリアのSAGRADA です。

スペイン語で「神聖な」と言う意味だそうです。

そして神聖とは「尊くておかしがたいこと。清浄でけがれがないこと。」だそうです。これをこの物語では強く主張する事になるのでしょう。

神聖はそれと同時に読んで字のごとく「信仰的な、宗教的な特別で価値を持っていて尊いことやさま」だそうです。

つまり多数の宗教の存在を認める人や無宗教の人にとっては、一つが正解ではないと言う事であり、「清浄でけがれがないこと」も絶対的正解は無いと言う事です。時や場合、価値観や見方によっては変わってくると言う事です。

さて、このアニメはどこまでやってくれるのでしょうか?

 

そうそう、これこれ。これは考察するのに適したアニメですね。

ただ考察する必要が無いアニメの方が多いですし、普通はそっちが正解だと思います。

サクラダリセットは、実はまだ数話しか見てないのですが、今の所難しい事を考えて複雑にやろうとしている様に見えます。物語自体は複雑で分かりにくいのですが、今の所頑張れば分かる程度です。つまり物語自体ではなく、その中の物語の作りとしてやっている事や、キャラが言っている事の考察をしようと思います。

 

ちなみに、毎回ピンドラ賛歌で申し訳ないのですが、ピンドラは物語自体も、そこで言いたい事、物語の作り、全てにおいて考察するべき物が含まれていて、しかも分からなくてもそれはそれで見れる物になっているので素晴らしいのですが、そんなものはまず無いですから例外です。

 

まず長らく流行りの 特殊能力物 ですね。

それでパズル的な使い方ですぐには思いつかない事をやったり、戦う場合は能力の裏をかいたりして相手を倒します。

これはつまり、ルールを作ると言う事です。

私は昔「もう現実世界のミステリーでネタはほぼ残っていない。ならルールから作るしかないだろう」と思いました。なので「デスノート」が出てきた時は「そう、これしかもうないよな」と思いました。ルールも作り、その解き方も考える、それしかないと。

でも特殊能力物はもっと前からあって、これもルールを自分で作り、そのルール

の裏をかいて破る事が多いので、実はルール作り物なのだと後になって分かりました。

他には「カイジ」や「ライヤーゲーム」もそうです。ルール作り物です。

 

そして普通の生活をしている人が特殊能力を得る物語です。

これは普通は出来ない事が出来た時、人は何をするのか? と言う事です。

皆出来ないからやらないのであり、出来たら悪用するのか? 逆に皆の為に使うのか? 性善説があってるのか? 正義とは? 悪とは? 弱肉強食では無いのか? 等の人の心理が出てくる物語です。

 

それと同時に特殊な状態だと人の深層心理が出てくると言う物語でもあります。ただこれは多くの物語でもそうです。天変地異やナイフを持った悪人に立ち向かう、食べ物が無い、金がない、逆に大金がある、好きな人を取られそう、等毎日の生活ではない時に、普段隠されている人の心理が出る。そこに物語がおこり、それが面白いのです。

しかしこれは私には逆の意味の方が面白い。つまり特殊な状態ではないと人の心理は隠されているが、それと同時に平和な状態が保たれていると言う事です。

司馬遼太郎さんが言ってたと思いますが「人は飼いならされて人になる」そうです。そうだと思います。

日常で人は人らしい秩序だった生活をしないと外的要因で生きていけないので、人らしく生きて行くのです。警察に捕まるから物を盗んだり誰かを殴ったりしない。会社を首になり生活費がもらえないから上司に頭を下げる。それらを小さい時から学ぶのです。

ではこれが不幸かと言うとそうではない。飼い犬も自由にされているより、家の人よりは位が下だとはっきりさせていた方が精神的に落ち着くそうです。人もそうで、ある程度縛られていた方が実は精神的に落ち着き生きていける。と同時に社会も安定するので他の人も落ち着けるのです。もちろん人として生きていけるある程度の縛り付けです。それを越すともちろん精神的によくない。日本は今もディストピアみたくなってますね。私は行き過ぎてる社会だと思います。こんなに物も食べ物もあるのに幸せだと思っている人が全体からすると少ないからです。

なので行き過ぎは良くないですが、精神的にもある程度制御され感情をあまり出さない普通の生活が、平和を生み出しているのは一つの事実です。

そして感情を抑えられないような特殊な状態で初めて人の深層心理が出てきて、それで人が見れる物語になるのでしょう。

 

そして第一話で「正義とは何か?」と言うしち面倒くせえ(育ちの悪さが出ますね)問題をサラッと言います。

物語が進むと変わっていくかも知れないのですが、今の所間違っていると思うので書こうと思います。

正義とは何か? 辞書によるとそれは「人の道にかなって正しい事」だそうです。

そうです。正しい事なので時と場合によって違うし、宗教観でも違うものです。

普通他人の物を取るのは悪です。では地震等の災害が起き、皆逃げてしまい寒くて死にそうな時、目の前に布団屋があって勝手に布団を取ってしまうのは悪でしょうか?

人を殺すのは悪です。では自分が殺されそうな時は?

もっと言うと、ライオンは悪なのでしょうか? 自分が生き残る為に他の生物を食べる。人も肉を食べます。牛も豚も人より知能が劣っていて他種族なのでありだと思っていると思いますが、ならもし牛や豚が人と同じくらい知識があったのならどうだったのでしょう? ライオンからすればシマウマも同じくらいの知識ですがたべます。ライオンが悪じゃないなら、人が人と同じ頭脳をもった牛を食べてもいいのでしょうか? もしこれがダメと言う人がいたら、では馬鹿ならいいのでしょうか? その中の個体の馬鹿なら食べてもいいのでしょうか? どこまで馬鹿ならいいのでしょう? 種族はどこまで離れていればいいのでしょう? 魚は? 昆虫は? 植物は? プランクトンは?

これはつまり、絶対的で普遍な正しい事は無いと言う事です。

 

イルカやクジラは牛や豚と違い頭がいいので助けるべきと言う人がいます。外国から日本の田舎に来ていイルカを助けに来ようとする人が、良く言う事です。でも私はもっと知識がある動物を知っています。人です。外国から日本の田舎まで来る時間と労力とお金があれば貧しい人ひとり位救えないのでしょうか? なぜ頭がいいからイルカを救いたいなどと言う言い訳をするのでしょう? ただ個人的にかわいそうだから救いたいと言えばいいのです。私も少ない財産や人生を懸けて貧しい人を救おうとしていないので、このイルカを救いに来た人を責められる人ではありません。だから責めてるのでは無く良い訳はいらないと言う事です。良い訳をするのは自分が善だと思っているからです。間違った善は危険をはらんでいるのでやめた方が良い。自分の都合の良い方に事実を曲げれる人は危険だと言う事です。

 

このサクラダリセットでは利他的な行動が善だと思っています。

漫画『ZETMAN』の連載では無く、その前の短編だった時もこの考えであり、この間違えは良く起こりがちです。

利他的行動をする事は生物として正しい事です。ハチなんかは利他的行動で親兄弟を助ける。それにより自分の仲間が多く生き残る。種としてより多く生き残るので正解です。それが生物であり動物です。動き続ける物が動物です。そこに意味はありません。たまたま出来た動こうとする物が今もまだ動いている、生きている。動こうとしないのは止まってしまいただの物に戻っているだけなのです。なので動き続けるのが動物としては正解だと言う事になります。それが正解ではなくなった動物は動物では無く物に戻るだけです。利他的行動は種として生き続ける、動き続ける事に正解な場合があるので、それが本能として人の中にもあるのです。そして利己的な感情も人にはある。これも利己的な感情が生き残る為に必要だから本能として残っているのです。つまり人には両方ある。両方のバランスを取れている状態が種として人が多く生き残る方法だったのです。

つまり絶対的利他的行動が善だ、と言う所から間違っています。絶対的利他的だと生き残れないからです。個人も種としてもです。

そもそもなんで人を助けるのが善で、そこに自分は含まれないのでしょう? 「人を助ける」の人は自分も含まれたものなのです。勘違いしてはいけません。自分は特別ではない。自分も人なのです。

たまに人が亡べば地球は動物の楽園になる、と言う考えの人がいます。人も動物ですよ。なんで排除するのでしょう? 確かに力があるので危険ですが共存を目指すべきでは無いでしょうか? なぜ人を特別扱いするのでしょう?

利己的感情は危険もあるのは事実です。だから無い方が良いと思うのでしょう。自分一人が生き残る為に、他人二人を犠牲にする、そんな事もしそうです。だから危険なのは間違いない。しかし利他的感情を強く持っていて、一人助ける為に二人が犠牲になり亡くなったらやはり生物としては失敗であります。それが続けば人と言う種は絶滅します。なので利己的な感情も人は持っているのです。最終的に多くの人が生き残る、それが「人の道にかなって正しい事」では無いのでしょうか? それには利他的と利己的感情両方が必要です。それが正義では無いのでしょうか?

そもそも正義なんて一つの概念(がいねん)です。正義だけの生き物なんて一つの概念だけの生き物であり、もはや生き物ではなくなります。それだけだと動き続けれない。生き物として必要な部分の一つだけを取り出して出来たロボットです。ただ人の為をするように決められた行動をするロボットです。だから「ZETMAN」も「サクラダリセット」でもルールや本能にそった行動をするロボットの様な存在が絶対正義だと言う示し方なのでしょう。

 

つまりこのアニメの主人公は、絶対的に決まっている正義と絶対的利他主義という人としての二つの間違いからスタートしてます。

 

情けは人のためならず と言うことわざがあります。他人に親切にすると回り回って自分に帰って来ると言う意味です。

私はこれが嫌いです。他人にした親切が帰って来るとは限らないので、それを見越して何かをするのは良い事では無いと思います。帰って来ると思うから帰ってこないと頭にくるのです。

しかしこのやらしい考えは、実は生物としたらあってるのかもしれないと思えてきました。

他人にする利他的行動と言うのは回り回って自分や家族に帰って来る。そうでないと生物としてやる意味が無いのです。帰って来るかも知れないと信じて皆がやる事によって、その種族が全体として生き残る可能性が高まる、と言う事なのでしょう。

情けは人のためならず と言うことわざはその人の為ではなく自分に帰って来るでもなく回り回って人類全体の為になる、と教えるべきかもしれませんね。

 

さてこのアニメの主人公は何処までたどり着けるのでしょうか?