号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

3 ねえアシモフさん,SFにすべきでしたよね?

 人は誰かの事を自分でいいと思うより、第三者にあの人は良いと言われた方がより良く見える、と言うのを聞いた事があります。

サクラダリセットの考察サイトを見ていて、「これはいいぞ」と言っているのを見てたら良く見えてきたので(もともと悪いとは思っていないけど)、もっとよく見てみようと思った次第です。

 

第一話

私は前にこの物語は一話で「正義」とは何か? を語ったと言ったが、見返すと「善」でしたね。「正義感」とも言っているので勘違いしたんでしょうかね?

ただ「善」でも「正義」でもほぼ同じ事です。

「善」は道徳的に正しい事、だそうで、やはりこれも時や場合、宗教観で変わってきます。

しかし「善」の反対は「悪」ですが仏教思想だと反対が「煩悩」(ぼんのう)だそうです。こうなると正直良く分からなくなってきます。なぜならそれぞれに色んな解釈が含まれている言葉なので、一つには絞れそうにありません。

それでも一つの解釈で言うと、Wikipediaによれば「煩悩を要約すれば、自己を中心に据えて思考したときに起きる数々の心の働きである。他者や社会全体を思考の中心に据えれば煩悩は菩提となる」だそうです。

つまり「他者を思考の中心に据えればいい」と言う事であり、自分を排除しろとは言ってないと思います。なので善は絶対的利他主義ではない。

それでも「完全に自分を排除して他者を中心に据える」のが善だと解釈している者もいる事でしょう。それが絶対的利他主義であり、浅井が言っている事なのです。

しかしそれはロボットですね。もしくは「仏」や「神」です。どちらにしても「人」ではない。浅井は「神」になろうとしている物語なのです。それは中二病です。しかし神の様な力を持てる世界なら? と言う物語です。

 

浅井は自分が「他人を喜ぶのを見るのが嬉しいから他人を助ける」のが偽善だと言います。それは絶対利他主義だからです。

私は「この壺を買えばあなたは幸せになれる。通常百万円するが今回は十万円でゆずりましょう」と原価一万円の壺を売る事が偽善だと思います。

浅井は「自分が決して嬉しくなくても他人の為ならば助ける」のが善だと言いたいのでしょうけど、だからと言って「他人が喜ぶのを見るのが嬉しい」なら駄目だという理由がないですね。なので間違っています。

でも「自分が嬉しくなくても助けれる」方がより良いと言うのなら分かる。しかし前に言った様にそれで二人犠牲になり一人助けれたとして、それが本当に道徳的に正しいのか? それが本当の善なのか? 私は違うと思っています。「自分は死にたくないが自分一人の犠牲で二人助けれる」ので行動するのが善ではないでしょうか? なぜそこに自分がどう思ったか、なんて必要なのでしょうか? 毎回「いやだなあ」と思いながらも100パーセント人助けをすれば善なのではないでしょうか? 自分の感情が出ると間違えやすく危険だ、というだけです。それには善も悪もない。

やはりここでもここに行きつきます。浅井は善な行為ではなく、絶対的にどんな時でも善な行為をとれる存在「神」になりたいと言っているのです。「神」こそ完璧で絶対だと言っている。そりゃそうだ。しかしそれは「人」ではない。「人」ではないから「神」なのです。

 

浅井は春埼に髪がきれいで人間味が無いから切った方がいいと言います。

人間味を持ってほしいそうです。

人間味すらない完全な善を求めながら、人間味も求める。第二話で、完全な善でなくていいから普通の女の子になってほしい、と思っていると相麻に当てられてしまいます。これがこのまま答えになります。最終話の浅井の答えになる。

 

相麻が「誰がアンドロイドか当てよう」と言う。

これは答えが分かると面白いなぞなぞでしたね。

なぞなぞを出す子供は得意げですよね。別に自分で考えた訳でもないのに。

相麻も得意げです。なぞなぞを出す子供です。自分がすごい人間だと勘違いした時の子供です。だから間違える。全てが分かった気で間違える中学生です。

 

エンディングのあの歌。他の考察サイトを見ると印象悪いみたいですね。

これも苦肉の策の様な気がします。薄い物語になるのでエンディングで重くしたのだと思います。できる範囲でやれる事をやろうとしたのでしょう。

物語が薄く盛り上がらないのは誰が悪かったのか? なんだか段々誰も悪くない気がしてきました。もしくは皆が悪いのか? まるでこの物語のようじゃないですか。面白いですね。この物語と製作者と原作者がかぶって見えてきました。

 

見返すと、良い事も悪い事も満載の一話でしたね。

なにもそんなに面相臭い事言わなくて、もっと素直に描いた方がよかった気がします。でも小説だとこの作りで丁度いいのかもしれませんね。

 

第二話

管理局の人、津島がやってきて小さな女の子を連れていきます。

津島が言ってる事が正しいですよね?

長い年月をかけて子供を愛せないと思ったのなら愛せないのです。ここで母を連れてきて愛してた頃を思い出したとしても、すぐにまた愛せなくなりますよ。浅井がやっている事は大きなお世話ですね。世間知らずの子供です。愛せない母といる位なら一緒にいない方がいい。そこには誰の幸せもない。これは物語の中でもそう言ってます。確信犯ですね。分かっていてもやってしまう。もしかしたら上手くいくかも? 上手くいってほしい、いや上手くいくはずだ、と思い賭けに出る。賭けですよ。そしてまず外れる賭けです。

原作は分かりませんが、せめてウソにならない為に後で「やっぱり上手くいかない母と子。それでもまた助ける浅井。上手くいかないのなら何度でも助けにくると言う浅井」と言う回があれば良かったと思います。

 

ロボット工学三原則が出てきます。SF作家アイザック・アシモフです。

1、人間に危害を加えない

2、人間の指示に従う

3、自信を防衛しなければならない

だそうです。

春埼は第1条、第2条は従っており、第3条は違っていた。春埼の第3条は「泣いてる人を見つけた時リセットを使う」だそうです。

浅井はここが違うので春埼は人間だと言って喜びますが、マジですか?

自信を防衛、こそが人間らしい行動です。動物としての基本です。焼けた鉄板に手を置いたらとっさに手を放すでしょ? そこが違うから人間だってマジですか?

そもそも「泣いている人を見たらリセット」は自己防衛です。何も変わらなくても自分は出来る事をやった、と言う言い訳の為にする行動です。精神的に自分を守る行動です。そしてそれで結果が変わらないのだから、そこに意味がない。ただ機械的に行動する、こっちの方がよっぽどロボットっぽいです。

 

浅井は相麻と話します。

浅井が親との生活も捨てこの街に来たのは、この能力があれば今まであきらめてきた人を救える、というような意味だと思います。

だから浅井にとってこの能力はどうしても大事なのです。だから守るし、なくなれば不幸なのでしょう。

でもこの能力をこの街より外に広げようとはしないですね。危険だと分かっているのでしょう。しかし危険と分かっていながらこの街には残そうとする。

 

この第二話はけっこう支離滅裂ですね。

しかし中学生の物語。純粋だが間違いやすい年頃の物語。とするならこれでいいでしょう。

でもね。どうもこれはそういう事ではなく、この物語自体が中二病な気がしてならない。23話で浅井が浦地に「能力があるのに無い事にするのは現実逃避だ」みたいな事を言います。いやこの世界はそうだろうけど、見ている人無視ですか? 見ている人には能力はただの空想です。だから見ている人に伝わらない。分かりにくい物語ではなく、分かっても物語が何を言いたいのか分からないのです。

 

今はこの能力は絵空事です。しかし遠い未来は出来る事が増え、この物語の様に出来る事ではなく、何を出来るように残すかを選ぶ時が来ます。

アイザック・アシモフを入れてくるのなら、いっその事未来の話にしてSFにしてしまえば良かったですね。

 

今回二話でこの長さ。

しかもあら捜しになってきましたね。これは本望ではありません。

なのでやっぱりこの続きはやめようかと思います。

でもまた気が向いたらするかもしれません。

見返してみると細かな所は気に入らないけど、第一話なんか面白そうに出来てたんだなあ、と思いました。

もったいないな。と言うのが今回の感想になります。