号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

未来の物語の未来

アニメ Ergo Proxy (エルゴプラクシー)の感想です。ネタバレです。

 

ピンドラの呪いにかかりまだ抜け出せないので、何か面白い物は無いかと「難解アニメ」で検索して出てきた『lain』と『Ergo Proxy』を見ました。

種類が違うので最後は感覚になりますが、ピンドラレベルは無いですね。もうこの世には無いですね。

 

ただ Ergo Proxy は見れるアニメでしたね。知りませんでした。

しっかりできてます。地味なのに(あまり)飽きずに見れるのだから、基本が良く出来ていたのだと思います。

ここのシーンが長いとか、背景が無いとか、寄りすぎ引きすぎ、使いまわしすぎ、等の気になる点が(あまり)出てこないと言う事は、良く出来ているのだと思います(ここはプロが見れば何が良く出来ているのか分かるでしょうが、素人なので不快感が無いので良く出来ている筈と分かる程度と言う事です)。

 

しかし地味ですね。もっと派手にも出来た筈だし(絵やキャラや話の内容が)、その方がうけたでしょうけど、それをしないのはわざとでもあるのでしょうね。

下手な手を使わず実力で勝負をしたのでしょう。

では勝負に勝ったのか? うーん? 私には判定勝ち位でした。

 

物語の良く分からない点は「Wikipedia」や「考察サイト」で分かるでしょうから書きません。それらに書いてある事が全ての様に思えたからです。私があらためて書くことも無い。

なので私は感想でも書きます。

 

たまたま続けて観たアニメ『lain』と『Ergo Proxy』。実は似た所がありますね。

題名が英語であり、名前でもある。哲学的なものを入れてくる。自分とは、人とは何かを入れてきます。

そして肝心なのは「人でない物が人らしい生活をする事で人になる」物語ですね。

 

Ergo Proxy では旅に出ます。

男と女と子供、仮想の家族ですね。

そこで人らしい昔から人がやっていた生活の基本をする事で、人になります。

ビンセントはプラクシーのコピーでもちろん人ではない。リルは亜人間とプラクシーのかけ合わせの生物である、とともにロムドで人らしくない効率のいい生活を強いられていました。ピノはそのままロボットです。これら三人ともがそれぞれ人になると言う話ですね。

人でない物が人の様になる。これはもはや人ではないのか? これが人では無いのか? つまり人の様に感じ、人の様な価値観を持ち、人の様に生活をすれば、それが人では無いのか? と言う事ですかね。人とは何か? を説いてるのでしょう。

lain でも 岩倉 玲音 は人として実態を持ち、仮想の家族の元で生活をします。こっちは中学生なので家族も大事だが友達も大事だと言う事で、友達付き合いも含めた人らしい生活をします。そして人の感情をもち、人になる。

 

lain』と『Ergo Proxy』両方とも、生活の基本でアニメで表現がしやすい事、食事のシーンがありますね。しかも結構リアルに描かれてます。人らしい太古から営んできた普通の生活の大事な事が食事です。つまり人らしい生活の象徴ですね。

普通の家族の生活から生まれる感情、嬉しい楽しい悲しいつまらない眠いお腹が減った痛い等、それらが人間らしさです。そして人間らしさを持っているのが人間です。そして人間らしい生活が良いものだと思えるのが人間なのです。良いものだと思えるからこそ太古から続けてこれたのです。良いものだと思えるからこそそれを残そうとする、人の世を、自分を、仲間を残そうとするのです。

逆に言うと、人とは何か? 何が人なのか? と言うと、人間らしさを持っているのが人である。人間らしさとは? 太古から続けてきた人の生活から生まれた感情が人間らしさである。なので太古から続けてきた家族がいる生活をする、人の目線で、人の時間で、人の範疇で(無敵ではないとか寒いとか寂しいとか腹は減るとか眠くなるとか)。それが人になる為に必要なのです。

そして、そもそも人とはその程度の事です。

 

昔から行われてきた生活から人らしさが生まれてきたのだから、科学が発達して昔の生活から離れていけば離れていくほど、人間らしさも失っていきます。

人の脳や本能はその昔の生活をしてた時に出来上がったものなので、人間らしさから離れたものでは対応できないのです。

これは考えれば当たり前の事なのに、忘れがちです。

結局今も昔の人が描いた未来の街にはなっていない。今も公園を作り植物を植える、街路樹も植える、木のぬくもりとか言って木目調の家具を家に置くのです。

まあ、この辺の事は感覚的に分かっていると思いますが、今一分かっていないのがストレスですかね。ストレスは死の予感です。人はそれを避ける様に生きてきました。そして避けてきた人が生き延び、ストレスにさらされ続けた人は滅びました。人はストレスにさらされ続けても生きて行けるようには出来ていません。今の日本はストレスは悪いと言いながら、ストレスがあるのが当たり前だと思っていますよね? まだその程度なのですね、この国は。昔の人が描いた未来の街、金属で出来た高いビルが立ち並び、植物も無く人は宇宙服みたいなのを着て歩く、外見は違くとも内面はそんな国になってませんか? 所詮後になれば今も歴史の途中なのですね。その事にいつの日か皆が気づくのでしょう。

 

人間らしさは必要です。まだまだ必要です。

ただ本能も含め、人の脳の中までいじくれる様になったのならそれも変わってきます。

未来の話なのに『lain』と『Ergo Proxy』もまだ人とは何か? なのですね。

未来において、人とは何か? なんて サッカーとは何か? 位の意味になってきます。

サッカーのルールなんか変えようと思えば変えれるように、人のルールも基本から人が決めなければならない時がいつか来ます(それでも世界標準のサッカーのルールはそう簡単には変えれないものなのも含め、この例えです)。

さて、何をもって「人である」と決めるのでしょうね?

 

Ergo Proxy は人類が宇宙から帰って来る所で終わりですね。

帰ってきた人類にとって、ビンセントやリルはもとよりピノなんかなんだと判断されるのでしょうか?

コギトウイルスがロボットを暴走させるではなく、言う事を聞かなくなる(自我を持てる者は自我を持つ)所が面白いですね。

つまりロボットがいない世界に対応できない生き物は、もしくは自我を持ったロボットと上手くやっていけない生き物は亡べと言う事なのでしょう。

なのでもしかしたらビンセント達にも希望があるのかもしれませんね。

 

そもそも、帰ってきた人類がどんなものかなんて分かりませんものね。

人の形ですらないかもしれない(たぶん葦の形の人間が出てきますよ。冗談ですよ)。

もし、Ergo Proxy の続編がいつの日か出るなら、人とは何か等の古典芸能では無くその向こうに挑戦してほしいですね。

このアニメが出来てから年代が経ち、しかも続編と言う事ならばその向こう側を挑戦してくれるのでは無いかと思います。

そして、そもそも初めからその向こう側を目指す人でない人が、その向こう側を描いてほしい。何を言ってるかと言うと、例えば押井守さんなんかはもはやイベントホライズンの向こう側に行ってしまってて、分けわからないですからね(しかし押井さんは分からなさ過ぎて作らせてもらえないので、仕方なく現世に戻って来てる感じがしますね)。

とがった作品で、しかもイベントホライズンのギリこっち側(象徴的な言い方です)、そんな作品が見たいですね。

 

ちなみに縦の線で物語としての向こう側があるとしたら、ピンドラは横方向に跳んだ、つまり次元の違う進化をしたのでやはりバケモノですね。

縦方向に進んだ「難解アニメ」を殺してまわる死の代理人です。