号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

早く人間になりたい、がうがう

ユリ熊ァァァァァァァァァァァァ

ユリ熊嵐

なんじゃこりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

ユリ熊嵐

って言うアニメでした。

 

で、終わったら黒ずくめの男にベアクローくらいそうなので、もう少し本気(マジ)で書きます書きます。

 

名前で分かるようにいわゆる 百合もの です。

そして クマもの です。

(クマものってなんだよ! と言う丁寧なツッコミありがとうございます!)

それを今回もメタファー満載で異化効果を駆使して描いていきます。

そう、いかとは白くて足が十本あると言う……。

(オヤジギャグいらないんだよ! と言う忠告参考になります!)

えーつまり言いたい事は、第一印象は「狙いすぎ」じゃないのかと言う事です。「策士策に溺れる」じゃないかと言う事です。

 

いわゆるボーイズラブものは男はほぼ見ない様に、百合ものは女はほぼ見ないのではないかと思います。

しかし内容が古典的な女ものの描き方です。つまり男はあまり面白くない。

外見も少女もの風であるが、男に媚びを売るような作りでもあります。

それ自体は私は否定しませんが、この男女どっちも狙うもの、もしくは少女風の作りで男に向けたもの、と言うのは上手くいけばいいですが、上手くいかないとどっちも見ないものになります。

これは失敗してるように見える。男女どっちも見れないものになっている様に見えます。

 

ピンドラは内容が一見古典的で実は中身が新しいのと対照的に、ユリ熊は外見は新しそうだが実は古い作りです。

そしてこの古いと言うのが私が引っかかる所です。

古くても面白ければいいじゃないかと思うのでしょうが、古いと言う事は今の時代にはあっていないと言う事です。

普遍的な人の本能にそった作りの物語であり、普遍的だからいいだろうと思いがちですが違います。

本能は万能ではない。

それは人がまだ原始人みたいな生活をしてた時に出来たものだからです。

本能は昔の生活の中で生まれた生き残る方法、生存戦略です。

今は時代が変わった、生存戦略も変わったのです。

皆、油物や甘い物が大好きです。いまや平均的な給料があればいくらでも食べれます。しかし糖尿や痛風になります。続ければやがて死にます。それは食べたくても手に入らない昔々に得た本能なのです。本能は万能ではない。

 

いじめ問題が出てきます。これは悪い事だと描かれていますが、古い生存戦略の例として聞いてください。

昔からいじめ問題は無くなりません。それは本能にそったものだからです。

前にも言いましたが、猫は何匹もいっぺんに産みます。それが全て生き残ったら爆発的に増えてしまい食料が無くなってしまいます。なので半数以上は死ななければならない。強い者が生き残ればいいのです。

人もそうです。何人も子供を産めば全てを生き残らせる食料はない。昔は無かった。でも人は群れて助け合って生きていく。だから弱くても生き残ってしまう。しかしそれでは食料が無くなる。減らさなければならないのです。だから群れの中で弱い者はいじめられ減らされる。それが生存戦略だったのです。

そういう時代に生まれた本能がいじめです。本能だからなくならない。そしてこれは本能だが今の時代には合わない物であり、必要が無くなったものです。

 

それをユリ熊の世界では人がやっている。熊の方も本能で生きている。皆本能で生きている。そこには未来が無い。皆が幸せになれる未来は無い。

では銀子は? るるは? 本能のまま人を食っている。

主人公紅羽は? ただ流されているだけです。より悪いクラスの奴らよりましなだけで、流れに流されてるのみです。

純花は? 食われました。

母は? 食われました。

 

 熊とはなんでしょう?

たぶん正解はないのでしょう。色々解釈が出来る様になっているだけだと思います。

しかし普通に考えればやはり 男 であると考えるのが自然です。最初から大っ嫌いで大好きだったと言っているからそうでしょ?

銀子が男だと思えば良くあるストーリーです。好きな女(紅羽)を守るために他の人を傷つけます。自分を好きでいてくれる子(るる)も大事にしません。好きな女(紅羽)の好きな子(純花)は見殺しにします。好きな女(紅羽)はそんな銀子をそれでも許し沢山の屍の中何事もなかったかのように二人は結ばれます。「ああ数々の試練と運命のいたずらに翻弄されながら、やっと子供の頃から好きだった運命の人と結ばれるのね」と、この状況で平気で言える昔ながらの女の物語です。

 

この物語は人が減っていく物語です。男の物語は増えていく物語です。とにかく増えていきます。そこに安心を得られるからです。

女は減ってもいいのです。邪魔者なら減った方がいい。実世界でも「あの子とはもうやっていけない。あの子の首を切れ、この子の首を切れ」と言っているのは女です。

 

ではなぜそうなのか? 

人は原始人から群れて村で暮していたはずです。今の時代でもジャングルなどで昔ながらの生活をしている人は皆そうしているので、間違いないはずです。

人は馬鹿ではない。一番簡単なのは他の村を襲う事です。ただ危険がともなうのでやらないだけです。でも大丈夫そうなら、または食べ物が無い等しょうがない時、もしくはあの村を今襲わないと将来うちが襲われる、と思う時は襲います。人にとって他の人々はずっと脅威だったはずです。

男は村を気にします。村が弱ったら危険です。それは死ぬ事だからです。だから男の物語は増えていく物語なのです。

女は村の中でのお話です。そもそも戦闘力にならないのだから少しぐらい減ってもいい。それより自分の立場が悪くなる位なら、邪魔な女はいない方が良いのです。女の世界は村の中の自分が見える範囲内での世界なので、増えても意味が無いのです。増えても自分のテリトリー、世界は変わらないからです。

ちなみに他の村に襲われて負けたら? 男は皆殺しです。男の子供も生き残されるかは微妙です。でも女は連れ去られるだけです。そこで自分の旦那を殺した連中でも、自分の事を嫁にしてくれて平和に暮らせたのならそれは失敗ではない。だから好きになれたのならかまわないのです。なので紅羽は銀子を許す。純花を見殺しにしても代わりになるのならかまわないのです。女はそういう生き物です。だから女の話はよくこういう物語になる、未来が明るければ昔は気にしないと言うのです。

別に悪く言っているのではないのですよ。そういう生き物でそういう世界で、それに合った本能が出来上がったと言う事です。そして昔はそれが生き残る方法 生存戦略 だったと言う事です。

 

男は社会性を気にする。社会が上手くいってないと、村が上手くいってないと、それは死だからです。

なので男は仲間が上手く仲良くやっているのが好きなのです。家族を超えた社会が仲良くやっているのが好きなのです。それは村が上手くいっている様に見えるからです。

考えてください。今の(2019年)一番売れている女性グループアイドルはどうなのか?

そして問題が出た新潟のグループアイドルがどうなったかを。

あの子たちは女です。だから分からない。一番のファンである男が何を気にして何を見ているのかが分からないのです。邪魔者は消して何が悪いんだと思っているのですよ。

だからこそ大人が気にすべきだった事は、仲良くやっていく事を何より気にする事でしたね。

 

話を戻します。

これは女の物語です。昔からある女の本能にそった物語です。

だから周りを気にしない。自分が生き残る方法は社会を、村を気にすることではない。自分の家族を、自分自身の未来を気にする事なのです。

そしてそれは今の社会では合わない。皆が生き残れる時代には誰かを見捨てる必要も無い。それに人は力を得た今、皆が自分の事だけ考えていたら地球が持たないのです。

だから私はこの昔ながらの女の話が嫌いです。

女の人だって昔ながらの男の話は嫌いでしょ? 

飲む打つ買うをして、女を何人も囲って、つまむようにたばこを持って吸っている男が「これが男のロマンだ!」と叫んでいる話は嫌いでしょ?

同じです。時代が変わったのです。生存戦略が変わったのです。

 

なので私は『ユリ熊嵐』はどうしても好きにはなれないのですが、幾原さんはどうしたのだろうか? と思いました。

そうなると、このアニメのオープニングを初めて見た時に感じたものが、あってたのかと思えてきました。「あれ? 幾原さん病んでます?」と言う事です。

熊の目が無いですよね? 物語では皆食われて死んでいきます。人も熊もいじめます。世界はせっせと壁を作っています。メガネのヒロイン純花死にます。紅羽の母友達に食われます。銀子、るる人喰います。るる死にます。銀子、紅羽死んだか、この世界から逃げていきます。幾原さん病んでますよね?

 

幾原さんの心が出ているんじゃないのかな? 血の様ににじみ出てる。

人の世界(現実)も熊の世界(アニメ)もひどい。救いようがない。

紅羽のように熊に寄り添って熊になってみる。『ユリ熊嵐』なんて男の子が喜びそうなものを作る。

「しかし結局人に撃たれるんだろ」と思っているのではないのか? 

撃たれて死んでないとしてもどっちの世界でも生きていかず、梯子を上って熊と一緒にい行ってしまうのです。幾原さんカーンバーーック!

でも希望は残します。

ただのわき役だった子が、最後サイボーグの熊を見付け抱きしめます。

もう何者でも無くなってしまった幾原さんが、一度死んで蘇った熊(アニメ)、もう継ぎはぎだらけで醜く生きてるんだか死んでるんだか分からなくなった熊(アニメ)を見付け抱きしめます。

そんな物語です。

 

って終わらないのが面白い。

令和元年、もはや人でもなく、ペンギンでもなく、クマでもなく、妖怪として帰ってきましたね。

いいじゃないですか、妖怪。ピクトグラムメタファーアニメ妖怪でいいじゃないですか。

目の無い熊として死ぬくらいなら、妖怪となって目玉だけになっても生きていく方が良いのです。

この世は妖怪吹き溜まりです。

早く人間になる必要なんてないのです。

世に巣くうもはや人でもない妖怪がいます。

それに太刀打ちできるのは、いまや妖怪しかいないのですから。