号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

11 イクニとは何か?

私は漫画家の山田玲司さんと言う方をそもそも知らなかったし、今も良くは知らないのですが、動画を見て分かった範囲で話します‘(山田さんはニコニコチャンネルでピンドラ考察もしてます。YouTubeでも無料分のみのってます)。

山田玲司とは何か?

それは「ピングドラムの考察をしてるのに、最終的にイクニとは何か? をしゃべりだす」これこそが「山田玲司とは何か?」を端的に表していると思うのです。

この人の場合は職業病もあるのではないかと思う訳ですが、普通の人は作った人の事をあまり考えないかと思います。

私も普通の人なので考えないですし、考えたくないです。作った人を意識してしまうと物語に集中出来ないからです。

しかしピンドラはどうしても作り手を考えてしまう作りをしているので、意識してしまいますね。

と言う訳で私はいつもはしない「イクニとは何か?」を話していこうかと思います(これも幾原さんではなくイクニさんにしてるのは、あくまでピンドラ製作の意識の集まりを擬人化した人と言う事です)。

 

ただこれだけ言ってもつまらないので、ピンドラ考察のまだ言ってない所も少し入れておきます。

 

ピンクの熊のぬいぐるみについて。

 陽毬は晶馬と初めて会った時、ピンクのむいぐるみをもう持っています。そしてウサギサンダルをはいています。そしてもちろん陽毬の名も付いてます。

これらは生贄の印です。

生まれた時に親に生贄の名を付けられます。

その後も、教祖であるのか神であるのか分かりませんが、眞悧を意識したピンクのぬいぐるみとウサギサンダルを親に印として持たされているのです。

 

この呪いの眞悧熊のぬいぐるみ、ガウガウ、はなんで最後まで出てくるのか?

その後に冠葉、晶馬が踏んで壊してしまい、二人に縫って直されます。

これは眞悧は一度死んでよみがえる、と言う意味です。

そして悪い思い出も壊されて、新しく良い思い出として兄に直されるという意味です。

ぬいぐるみは、ぬいぐるみでしかないのです。そこに良いも悪いも意味付けするのは人でしかない。人が決めるのです。

 

ここにイクニさんの考えの一つがあると思うのです。

それは呪いの過去を持つぬいぐるみが捨てられるのではなく、新たな良い思い出に生まれ変わる事です。

人生も過去は捨てれないのです。無かった事には出来ない。

捨てれない過去も持って、それを良いものに変えて生きていこう。

人はそうやって生きるしかないものだと言っているのです。

 

しかし、まったく、何個こういう粋なものを隠しておくのでしょうね?

 

最後のシーン。冠葉、晶馬が子供として出てきます。

生きてるか死んでるかはここでは言わない事にしても、どっちみち陽毬、苹果とは距離を置いてしまったという終わり方です。

今一ハッピーエンドでも無いようでしっくり来ないですが、これもイクニさんの考えの一つだと思うのです。

つまり、そんな都合のいい物は無い。と言う事では無いでしょうか?

どんなに頑張っても献身的になっても、全てが上手くいって皆幸せになる訳が無い。この位が人が得られる最良の幸せだと言っている様に聞こえるのです。

そう、これ以上だと「うそ」になると思ったのでは無いでしょうか?

 

「うそ」とは?

作り話なのです。なので全て「うそ」です。

でも分かっている「うそ」はいいのです。ドラえもんを見て誰も本当の話だとは思わない。

問題はその「うそ」を信じてしまう人が結構多くいる時、その「うそ」を信じる事で惑わされ困る人が結構いる時、です。

この「結構いる」がみそで、つまり量の問題です。なのではっきりした答えは無いのです。人それぞれで合格ラインは変わります。

ちなみに私にとっては『君の名は』のラストは「うそ」です。やってはいけない「うそ」です。ラストまでは嫌いじゃなかったですが、ラストで踏み外したと私には見えました。それは、これに感動した子供が十年後二十年後にもう一度見て「なんじゃこりゃ!」と言うだろうと思うからです。ただ何度も言いますがこれは私の感覚でしかないので、あってるかは疑ってください。

「うそ」は気持ちいいのです。そりゃそうです。つまらない事は言わず、皆幸せになれますよと言ってほしい。しかしそれで惑わされる人がいるのなら、道を間違える人がいるのならすべきではないのです。例えしっくりこないエンディングでもしょうがない、ギリギリうそにならない所を模索すべきです。

イクニさんはこの辺のバランスが良いと思うのです。

(ここで注意です。私は最近『ユリ熊嵐』も見ましたが、あっちは私にはアウトです。やはり人によって合格ラインは違うのでしょうね)

 

例えば、うそ度合のグラフを作ります。一番左にリアルがあるとします(この左は左翼ではなくあくまで端と言う意味です)。ビデオで一日をそのまま撮って編集しないでながすような作品です。くそつまらないでしょう。 

逆に一番右にシンデレラ城があります。いっつも花火が上がっています。

幾原さんは『ウテナ』で王子様を否定した、と言いますが本当にそうなんでしょうか?

幾原さんが一番右のシンデレラ城から女の子を引っ張って出そうとしていたとします。これを見て「幾原さん左なんですよね? 王子様否定なんですよね?」と言う人がいるけど、そうとは限らない。

大人の「うそ」に惑わされ騙されておかしくなり、シンデレラ城で暮し始める女の子がいるのです。「ああ、私もうここで暮すから、帰らないから」といってシンデレラ城で飯を食って布団を敷いて寝てる女の子がいるのです。やばいでしょ? その子を引っ張って外に出そうとしているのではないでしょうか?

司馬遼太郎さんが「いつも何かに酔ってないといられない人」がいると言ってました。その通りだと思います。革命だ、闘争だ、抗争だと騒いでいるけど実はただ騒ぎたいだけの人がいるのです。しかも結構いる。こいつらはたちが悪い。理由を付けて騒いで自分に酔っているのです。いつも酔っているのでアルコール中毒です。中毒だからやめられないだけなのです。

面白いのは、酒と同じで人はたまには酔ってもいいのです。たまには自分や恋や何かに酔ってもいい。ただこれも酒と同じでいつも酔っている奴はやばい、アル中です。

シンデレラ城もそうです。たまにディズニーランドに行って、面白かったと言って帰ってくればいいのです。それをたぶん幾原さんは否定してないのではないのかと思うのです。しかしアル中と同じでそこでずっと暮らす奴はやばい。そう思っているのではないでしょうか? なのでそこから出そうとしていたのではないでしょうか?

 

ようはバランスです。一番左の本当のリアルは見てられない。一番右のシンデレラ城は良いですが信じさせてはダメです。それは惑わす「うそ」なのです。結局その間に落ち着くように物語は描く必要があると思います。

それは量の問題であり、はっきりした答えはないものです。正解は人によって違うでしょう。

だからバランス感覚が無い人だとダメです。世の中のバランスは世の中を良く知っている人でないと分からない。一番右から一番左まで全て見える人でないと中心は分からないのです。

 

ちょっと話がズレますが、ちなみにおばさんは韓流でいいのです。嘘でいいのです。なぜなら世の中を分かっているからです。分かっているから嘘でいいし、リアルを知っているから嘘で誤魔化して生きていきたいのです。ためになる本当の事なんて今更聞きたくないのです。ああちなみに私もそうです。私はもうアベンジャーズでいいのです。

 閑話休題

 

イクニさんの一番の印象はバランス感覚がとてもいい人だと思いました。良く分かっているし考えているのでしょう。だからこそピンドラなんてものが出来上がった。バランス感覚はやしなうのは難しい、簡単ではない。なのでそれを持っている数少ない人が物語を作っていってほしいですね。

 

と、きれいに終わらないのがリアルの面白さですね。

さっき言ったように『ユリ熊嵐』は私にはダメでした。『輪るピングドラム』はことごとく私の価値観と同じに見えたのにです。面白いですね。だからこそですかね。だからこそ人と人は努力をするのでしょう。決して全てが同じ価値観の人などいないのですから。

 

さて今後は『さらざんまい』でも見ますかね。