孤独ではあっただろうとは、思っていましたが。
寺山修司監督、映画「さらば箱舟」です。
寺山修司の最後の映画。
この頃は体がかなり悪く、それをおして作っていたようです。
そして「箱舟」とくれば、大体は何をやりたいのか見る前から分かる訳です。
この頃、見る前から何をするのか分かる人がいれば、孤独も感じなかった事でしょう。
ただ無理な話です。
私も今現在で「ピンドラ」等を見た後だから予測が出来るだけです。
それと、私が思ったのも外れてるかも知れない事も、始めに言っておきます。
たぶん、この映画は「映画」の事かな? と思います。
もしくは「物語」か? 「創作物」か?
それも日本のですね。
そこに寺山さん自身の歴史を重ねているのかもしれません。
最後の作品としたら、自分の作って来た物と、自分の歴史を言いたくなる事は理解できると思います。
まず分かりやすい所で言うと、殺されたのが「大作」です。これは大作の演劇の事でしょう。
「捨吉」が殺すのだが、これは「捨てられた良い物」です。始め寺山さんは俳句や短歌から出てきた人ですね。なので短歌などか? もしくは古典の物語の事でしょう。
どちらも苗字が時任です。その時代において、時を任された物。流行っていて主流であり、人の娯楽としての時を刻める位力がある物、と言う事でしょう。
この時計が本家にしかない事で、これが娯楽を牛耳っていたとも言えます。
スエは良く分かりません。末ですかね? しかし大事なのは子供が作れないと言う事です。後を担う人を作れなかったと言う事でしょう。だから滅ぶべき娯楽だと言う事です。
捨吉に大作は殺されます。
ここが寺山さんの事なのかな? と思える所です。
寺山さんの中で、大作演劇を短歌で殺していたつもりだったのでしょう。
くだらない演劇より、自分の短歌の方が優れていると思ったのか? もしくは受けている大衆演劇より、古典の物語の方が良いと思ったのでしょう。
そして捨吉は家から逃げて行きます。白黒ですね。たぶんこの頃白黒の物、本とかの活字の物に逃げていたのでしょう。
しかし結局元の家に戻ってきてしまったと言う事です。色のある物、演劇等に興味が戻ってきたと言う事です。寺山さんは活字に逃げれなかったのです。
その後に外から本家に来る子供、これが「映画」ですね。
映画は沢山やれるし、本数も増えただろうから家の時計が増えたのでしょう。
子供だったのにすぐ大きくなりました。映画もすぐ大きくなりましたね。
穴は何か? これがアンダーグランドでは無いでしょうか? アングラ演劇です。
死んだ大作はアングラの奥にいるのです。
少しここに映画も係わる。子供が穴に落ちる。始めの無声映画等はまだアングラ扱いだったかもしれませんね。しかしすぐ大きくなって出てきます。「下には何もなかったよ」等と言いながらね。
捨吉は字を忘れてくる。活字を書かなくなった寺山さんが、字を忘れて行った気がしたのかもしれません。だから書いて思い出そうとする。
そしてこれは何かを紙に書いて貼って行く。これは異化効果そのものですね。当たり前にある景色にしないで、それが何なのかをはっきり意識させるのも異化効果です。異化効果をやり始めた寺山さんの事も含まれていたのでしょう。
捨吉は自分で時計を持ちます。これは天上桟敷などを自分で始めたと言う事です。もしくは短歌集を出した事です。
捨吉は子供を作れず死にました。寺山さんは最後に、短歌等を後世に残していく子供を作れなかった事を表しているのでしょう。
ちなみに、大作はずっと亡霊の様に付きまとってましたね。昔の大作演劇が頭から離れられなかったのです。
最後は、近代になり、大作日本映画もいなくなったと言う事です。
そして客も日本のものから外国映画に移って行った。だから古い日本の映画等は見なくなる事を表すのが、村から人がいなくなる事です。
映画はスエを襲いますね。大作の女も自分のものにする。映画は短歌や演劇などを作っていた人も取り込み、次を担う子供を作っていったと言う事でしょう。
米太郎は戻ってきます。外国に気持ちが渡って学んだ日本人が戻って来て、映画をまた作り始めたと言う事でしょうか? (米国に太郎つまり日本人で、アメリカかぶれの日本人)
そこで米太郎は家の中に大金を見付ける。日本に元からあった物(浮世絵など)にも実は世界に通じる物があったのだ、宝は始めからあったのだ、と言いたかったのだと思います。
しかしその時は村にはもう誰もいません。宝がある事が分からないのが、見ていた日本人なのです。逆に外国人の方が日本の元からの良さに気が付いたりします。その事でしょう。
そう言えば、不思議な人「チグサ」がいましたね。夢の中でしか脱がない人らしいです。そしてこの人の所だけ、全体が緑色です。しかもこれに触れた人は皆死ぬらしいです。
これこそが漫画かアニメですね。この時代では寺山さんでも、触れたら死ぬ不思議な妖精位の感覚だったのでしょう。
この後大躍進してきて、実は寺山さんの孤独に気が付く人が、この辺から出て来るなんてまだ分からないでしょうね。
そして実は精神世界のアニメは、寺山さんの世界に近づく事もまだ分かってなかったのです。
しかしわざわざ別口でこれを入れて来るのだから、何かを感じてたのかもしれません。だからこそ、寺山さんには長生きしてほしかったです。今のアニメ等を見てほしかったです。
(追加、「寺山さんもアニメ好きだったよ」とジュリアスシーザーさんが言ってたとネットでありました。やはり可能性は感じてたのですね)
(さらに追加、力石徹の葬式した人寺山さんでしたね。じゃあもっと強くアニメを感じ取っていたのでしょうけど、やはり亡くなるのが早過ぎましたね)
最後「100年たてば分かる」と言って、スエは穴に落ちます。
理解されない人達はアングラに落ちるのでしょう。
この映画の元の小説の題名は「百年の孤独」です。
理解されない寺山さんの最後の叫びだった気もします。
まあ「書を捨てよ町へ出よう」とか「田園に死す」とか理解されないのはしょうがない。早すぎたと言うより、今でも理解されてないです。
でも希望があるのが良いですね。「100年たてば分かる奴も出て来る」と思ったのでしょう。
大丈夫です。段々ですが、100年はかからず理解されてきたようです。
「箱舟」の方は、映画館か劇場の事でしょう。
そして、そのままでは絶滅する動物を後世に残したのが箱舟です。
だから天井桟敷の事でもあります。
絶滅するような人々を後世に残したのですね。
そして「さらば」と言う事です。
最後の集合写真です。
100年後で皆の生まれ変わりにも見える。でもそこはどうでもいい。
大事な事は、それでも未来は明るい筈だと言う事です。
そして「これは物語だよ」とも見える。「本当の役者は元気だよ」とも見えますね。
ここで明るく終わらせる。しかも同化している客と距離を置く事で、現実にも戻しているのです。
実はこの時に既に寺山さんは「物語の終わらせ方」の答えを一つ出していたのです。早過ぎます。富野さんも庵野さんも、皆これから悩むのに。
寺山さんが亡くなるのは早過ぎましたね。
50歳より前で、このような人生の総決算をしないといけなかったのが悔やまれます。
そして理解はされにくかった人生だったと思います。
あまりにも早い歳で地に足が付いている。物事の考えや、世の中の事がよく分かっていた人だったのでしょう。
題名は「百年の孤独」ではなく「さらば箱舟」の方になって良かった気がします。
100年も孤独だと辛いですからね。
さて、またおまけです。
アニメ、エヴァは第三新東京が箱根の地下でしたね。
箱舟からもじって箱根でしょう。
そもそも地下にある守られ囲まれた街でした。だから初めはあれが箱舟の代わりで後世に人々を残すシェルターだったのでは無いでしょうか?
とにかくエヴァは寺山作品からの引用が多い気がします。どうも他の映画の引用も多いそうなので、それだけでも無いのでしょうけど。
ただ旧エヴァ映画のラストもシンエヴァのラストも、どっちも寺山作品をやりたかったのだな、と思えてきました。
寺山作品(の、その向こうかも知れませんけど)がやりたかったのだと思えば、旧エヴァの作りの不自然さが分かる気がしてきます。
だから始めから、あのおかしな旧エヴァはやるつもりだったのでしょう。よくやりますね。
ただ旧エヴァの頃はまだ寺山さんに遠く及んでない。だから失敗です。
そしてシンエヴァで追いついてきましたね。面白いですね。
庵野さんもイクニさんも、寺山さんが孤独ではないし、後世に残した子供の一人だと示せた事は良かった気がします。
世な中も捨てた物じゃないね。
2021年5月24日 追加
細かな事で、言い忘れてました。
この作品の始めに、いとこ同士で結婚は禁じられている、とありましたね。
実際に近親相姦になるので、奇形等物理的な問題が子供に出やすいので、ほぼどの国でも禁止されてますね。
だけどこの作品で近親相姦は、物語等の創作物の事を暗喩で表しています。
この暗喩は前から私も思っていたで、同じように見える人もいるのだなと、実は少し嬉しかったです。
例えばアニメだけを見て来た人が、アニメを作ると言う事です。
そうするとアニメっぽい所はこなれて来るし、尖ってきますが、他の要素が無くなってきます。そして奇形みたいないびつな作品ばかりになって行くのです。
猫耳が付いたロリキャラが、平凡な日常を送る作品になって行くのです。
このある要素が尖った作品を全否定はしませんけど、それは一部の作品であるべきです。
なぜならそれを心から本当に望んでいる人は、そう多くは無いからです。
さて黄色い花は何なのか? です。これは分かりません。
ただ赤と青があちらこちらにある絵作りです。これに黄色が食わわれば色の三原色です。
だから偏ったものが多い現実世界で、黄色が加われば何色でも作れると言う事なのか?
もしくはお金の事です。お金があれば、これでも何でも作れます。
最後スエが穴に落ちる時に、黄色い花が地下から沢山出て来ます。
このシーン自体は決して肯定的なシーンでは無い筈なので、この時の多くの花はお金だとしても自然な気がします。
地下からお金が多く飛び出す。83年ごろはバブル直前ですが、地価高騰がこの83年頃から始まっていたようです。
あってるかは分かりませんが、寺山さんがもう少し生きていれば、バブル経済を暗喩にした物語を作ってくれたと思っています。見たかったですね。