号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

印象の具現化

映画「花とアリス殺人事件」を見ての事と、アニメとは何か? の個人的な意見です。

 

似て非なるものを見て、比べてみる。

そこには同じ所と違う所がある。物語では、それに面白い所とつまらない所があるので、何の要素がどう影響しているのかが分かりやすくなります。

押井さんが本で「同じジャンルを沢山見る」「駄作も見る」と言ってたの思いだします。そうする事により何が大事な要素で、何をやってはダメかが見えて来るのです。

実写とアニメ、この二つを見る事により、それぞれの長所短所が見えて来る。訳ではございますが、今一自分の中でまとまらない気がしていました。

しかしロトスコープと言う、実写とアニメの中間の様なものから、分かって見えて来た事があります。

 

ロトスコープと言う方法があると聞いたので、YouTubeで検索して出て来る映像を少し見てみると、これは面白いなと思いました。

実写で映像を撮って、その映像の上から線をなぞってアニメっぽくおこしていく方法だそうです。

だからロトスコープで出来ている「花とアリス殺人事件」を見ようと思った次第です。

しかし、ロトスコープに興味があるから見たので、作品自体には興味はありませんでした。

YouTubeでも少しこの映画の映像が出て来るのですが、それを見た時は「これは失敗じゃないのかな?」と思っていました。

でも実際見てみるまでは分からないものですね。この映画でのこの手法は「実はあっていた可能性があるな」と思えてきて色々考えさせられたので、作品自体の事も書こうと思います。

 

ロトスコープ自体は昔からあったようですね。人に実演させてその人の形通りに線を書き、トレースするのがロトスコープだそうです。

ディズニーなんかではそのままトレースするのではなく、あくまで実際の映像から自然な動きをまねる為に、動きだけをまねたそうです。

ジブリなんかではあれはアニメでは無いと言われたようです。あくまで重ねて線を書いているだけだと言うのです。確かに実写そのままに線を重ねて書くだけなら、実写のままでいいじゃないのか? と言う事になりそうです。

ではロトスコープと実写は同じか? と言うと同じでは無い。何かが違う事は分かる。では何が? と考える所にアニメとは何か? が隠されてますね。

 

一つは、人の作り上げた物と言う事です。そしてデフォルメされています。情報量を落とし、それと同時に目立たせたい所を強調させてます。

まずは細かな情報がなくなる。肌が綺麗とか、シミが無いとか、そのような事は見えなくなります。必要だと思わない情報を消す事により、大事な所だけに集中して見てられるのです。

花とアリス殺人事件」を見ると、バレーの踊る所とか、走る場面とかの動きが良く出来てるなと思う訳です。もちろん実写そのままのトレースだから当たり前なわけですが。しかし動きに目が行きやすい事は事実なのです。実写そのままだったら走る動きに目はいきません。しかし情報量をかなり絞ってアニメ的な絵にすると、残った情報の「動き」に目がいくようになるのです。

二つ目は、デフォルメして大きく大げさにする所です。普通は目を大きくします。この方が離れて見た時の表情が分かりやすく、見せたい情報量を増やしているのです。

花とアリス」では違いますが、胸を大きくしたり等身を大きくしたり髪をとても長くしたりするのも同じで、遠目で見る時や、服を着た上からでもグラマーだと分かる様に情報を増やしているのでしょう。

これ等は「ありえない理想を作り上げている」と言う事になりますが、それと同時に「人の心の中の印象を形にしている」と言う事でもあります。

人は印象により、デフォルメして記憶に残します。綺麗な物はより綺麗に、汚いものはより汚く、怖い物はより怖く記憶に残すのです。記憶は写真の様に全てをそのまま残すだけの容量は無いので、大事な所のみを残す。その時に大事な要素「綺麗だった」や「不気味だった」等を強く残すと同時に、大事じゃない所は残しもしないのです。これはアニメそのものでは無いでしょうか?

 

細田守さんがコメントで「何で実写じゃダメなのか? なぜ3DCGではダメなのか?」と外国の記者によく聞かれる、と言ってました。これは「ゴッホルノアールピカソはいらない。写真でいいじゃないか?」と言ってるようなものですね。

つまり絵画もデフォルメしてあると同時に、人の印象を具現化してる物なのです。アニメもそうで、人の印象の具現化でもあるのです。

だからこそ絵なのです。もし実写にしか見えない絵だとしたら、そもそも実写で良いのです。絵である事を忘れてはいけません。リアルな絵が見たいのではなく、素晴らしい絵を見たいのです。

それが絵に見えると言う事は、何かが違うからです。そして違う所にはデフォルメが入っていて、強調する所と消す所を使い分けているのです。ほとんど意識してはいないでしょうけどね。

 

そして形だけではなく、動きさえも作り上げる。日本だと、それがアニメだと思っている人が多いのでしょう。

私個人だと「それは人それぞれだな」と思っています。

それぞれ別物で、それぞれの良し悪しがあると思っています。

ただ一から動きさえも神がごとく創造するのは難しいですね。出来れば素晴らしいですけど。

出来たなら、動きにも人の印象のデフォルメが入る。それが絵と一体になる事により、より完璧になる事でしょう。

しかし難しい。だからこそ、所々で動きをまねる昔のディズニーのアニメ作りが、概ね正解だった気がします。

日本の昔ながらのアニメ作りの動きも、ロトスコープも両極端な気がします。良い所取りで良いのじゃないでしょうかね?

 

他にもアニメだと実際にいない者(物)を作れると言うのがあります。

役者だと、大体は何処かで見た事はありますね。過去もあり未来もあり、その人自体の人生もあります。

しかしアニメの絵だと過去も未来も、アニメ以外の人生も無いのです。だからナウシカはどこまでも理想の存在でいられる。人が演じれば「あの人は昔は美人だったよな」とか言われるようになるのです。

ちなみに宝塚の男役もそうです。その男には人生が無いのです。彼女も奥さんもいない、理想の男そのものなのです。それは少女漫画の男そのものです。

 

さて「花とアリス殺人事件」です。

映画自体を見る前に、ネットで出て来る静止画をいくつか見た時点では「失敗してるな」と思った訳です。

この映画のキャラはアニメ調ですが、明暗の所すら描いてません。つまり顔は丸いので明るい所は明るい肌色で、暗い所は暗い肌色になる訳ですが、まるっきり無視です。普通のアニメでも首の下位は影を入れますね。それすらしません。ここまで行くと確信犯ですね。

ただ単純にお金の問題もあるのでしょう。低予算でギリギリだった気がします。だから単純な影すら止めてしまおうと言う判断じゃなかったかな? と思います。

キャラは単純なベタ塗なのに、背景がゴチャゴチャし過ぎです。これだと背景が目立ってしまいますね。キャラが埋もれます。だから失敗だと思ったのです。

細田守さんがアニメ「時をかける少女」の事を高畑勲さんに「背景描きすぎ」と言われ「くそー」と思ったと、ネットでコメントしてました。これは、なるほど、と思いました。

私は背景を書かない作品は、世界を描いてないと思っています。だからゴチャゴチャ背景を書いてくれた方が好きです。でもだからこそ「書けば良いってものじゃない」と言う高畑さんに気付かされましたね。

ちなみに「時かけ」を見返してはいないので、あのアニメが書きすぎかどうかは確認してません。なので一般論です。

背景を書きすぎるとキャラが埋もれますね。キャラを立たせたいのなら背景はおさえるべきです。つまり高畑さんの言葉は「その時その場面で使い分けろ」と言う意味では無かったのかな? と思っています。

そして「花とアリス」は明らかに背景が目立っています。これは背景は実写の映像そのままで、エフェクトかけたりして絵っぽくしてる物なのでしょう。だから情報量が明らかに背景の方が大きく、キャラとアンバランスです。

始めの方を見てた時は「もっと外の絵ではエフェクトを強くして情報量消すか、そもそも邪魔なものは塗り潰し消す」「学校内はもっと映り込む物を減らすべき」だと思っていました。

普通はこうするべきですね。

 

ただ見て行くと思ったのが「映画自体が普通では無いのか」と言う事です。

まあ何が普通なのか? になりますが、よくある方、つまり多数では無いと言う事です。

この監督、岩井俊二さんは高畑勲さんの遠縁の親戚だそうですね。遠縁だから遺伝は関係ないのだろうけど、似ている所があるなと思えてきました。

ちょっと離れた所からの絵が多いですね。つまり客観的に見ている絵です。離れているからこそ背景も良く映るし、目立つのです。つまりキャラでは無く世界を描いているのではないのか? と思えてきました。

そうみるとキャラがベタ絵なのも筋が通っています。キャラを強く描く気が無いのです。

それに大きな事が起きない。日常系に近く、日々の日常の中のありそうなエピソードです。その中で、切り取られ見せられると心に何かが響くもの。人生の中で何か記憶に残っている大した事のない思い出。そんな物の羅列です。これらから何を思い出し、何を思うのかは自由だと言うスタンス、高畑さんっぽいですね。

これ等の事から思う、監督がやりたい事は「学生時代のそれぞれの似たような思い出」だと思うのです。

景色は学生時代を思い出すようにリアルに描く。景色は昔も今もあまり変わらないのだから、よりリアルに覚えている気がする物です。(正確には今の景色を見て上書きしていて、それが昔の景色そのままだと勘違いしているだけでしょうけど。)

しかしキャラは見ている人の学生時代の記憶があいまいだから、大体でいい。

それと、キャラの見た目をはっきりさせないからこそ、誰かと(自分と)重ねて見れるようになっている。

これに似ている状況で例えるなら、小説をパソコンで読む時やアドベンチャーゲームで、背景だけは映像で出て、内容は文で読むか誰かが話して聞かせるかしているような状況です。背景と人物の役割が違う為、別次元の状態で表せられている状態です。

こう思うと結構良く出来た作りだなと思うのだけど、残念な所があります。なぜに小学生にしなかったのか? と言う所です。

 

この作品は始めは小学生にする予定だったそうです。

それを学生服にしてくれないと大変でやってられないとかスタッフに言われ、学生服を着る中学生にしたようです。これはお金もの問題ですね。だからしょうがないのだけど、小学生だと完璧だったのに、と思わずにはいられない作りでしたね。

話の内容からやってる事が子供っぽいですね。実は中学生でもこの程度の感覚なのだろうけど、中学生だと「もっと大人になれよ」と思ってしまう行動ばかりです。これが小学生だったら許せますね。見ている人が安心して、この内容で見てられるのが小学生までです。応援して見てられるのも小学生までです。中学生がやってると怒りたくなるようなものをやっているので、安心して見てられないのです。

キャラが単純な線で描いてあります。これも小学生の方がしっくりきますね。老人や中年を劇画調で描くのと、小学生を劇画調で描く。どっちがしっくりくるのか? 老人や中年ですね。逆にアニメ調や簡単な線で描くとしっくりくるのが、中年より小学生なのです。クレヨンで描いたキャラは、老人より幼稚園児の方が自然に見れるはずです。

これは、書いた絵柄と歳は関係がない筈なのに、印象であってる方が安心して見てられるのです。ドラえもんは油絵よりパステルの方が自然に見えるのです。

思い出も小学生の頃の方があいまいなので、あいまいな単純な線で描いたこのキャラとあっています。昔の小学生の頃の自分の記憶があいまいなので、誰でも重なりそうな幅のあるキャラにする方が、のれるのです。

淡い思い出も、ちょっとした冒険も、不完全な心も、絵柄も、コンセプトも、話も全て小学生だったらおさまり、もっとずっと評価された作品になった事でしょう。

 

この映画は小学生にする為にロトスコープにしたそうです。「中学生だったらギリギリ蒼井優鈴木杏で出来たんじゃないのかな?」と監督が言ってましたが、無理でしょう。

でも小学生にするだけでロトスコープにしたのなら、単純すぎますかね。そういう使い方以外の利用価値が無いのかな? と考えました。

 

個人の考えです。

単純にお金の問題で使えそうです。ハリウッド作品はもちろん、ジブリ作品の様にお金を使えない時に使えそうです。

実写に近い絵柄や世界が良いでしょう。ミッキーやドラえもんなら、ロトスコープでやるのは逆に面倒くさそうです。

しかし「花とアリス」みたく実世界そのものなら実写で良いのじゃないのか? と思います。

そこで私が思ったのが、ちょっとした日常SFがいいんじゃないのかな? と言う事です。

単純に言うと「空を飛べるだけの少女」の物語とかです。

これを実写でするとウソっぽくなる。しかしロトスコープの良さの一つは嘘が誤魔化せると言う事です。これはアニメの特徴でもあります。もちろん大金を使えるハリウッド映画では別ですが。

今はドローンもあるのだから町を飛んでる映像も簡単に撮れます。ただ実際は飛ばす許可がとても大変だろうから、別の難しさはあるのだろうけど、可能性はありますね。

家の上を低空で飛んでほしいけど、撮るのが難しいのならもっと低空を、2~3メートル上を道なりに飛ぶでも良いです。この少女は一度落ちて高所恐怖症になり高く飛べないとかね。これなら竹竿にカメラつけて自転車で走ればなんとかなりそうです。

それで最後に何かの為に、誰かの為に高く大空を飛ぶ。大事な物を運ぶとか、医者を呼ぶとか。そんな自主製作映画誰か作ってくれないでしょうかね?

 

この世界の片隅に」の片渕監督もアニメは印象を描いていると言ってました。

ロトスコープを見て、実写をトレースしてるのに違った印象をうける事により、情報量を足したり少なくしたりして人の印象に近づけているのだな、と気持ちが理解しました。

人の記憶、感覚、気持ちを具現化しているのがアニメなんですね。

今のアニメ業界はどうも小さく縮こまってきてる気がしますが、まだまだ色々やれる可能性がありそうです。