号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

奥に行き、右に倒れる少女。

人の悪い癖で、自分が分かっている事(もしくは分かっていると思っている事)は皆分かっているんだろうと思いがちですね。

 

まどマギ 叛逆の物語 の考察です。ネタバレです。

 

読み返すと、前回言った事が今一分かりにくそうなので、もう一度細かく言います。

その為にも今回はエンディングの歌「君の銀の庭」についても話します。

 

考察サイトとか見ると、あまりエンディングの事は話さないですね。なぜでしょうね?

まどマギはの作者は、エンディングに色々仕込んでいそうだと思いませんか?

私はこれがやはり今回の答えだと思えて仕方ないですけどね。

 

君の銀の庭」、君とは誰でしょうか?

この歌はほむらの歌ですね。それは皆そう思うでしょ?

ならまどかですね。しかしこれはダブルミーニングですね。君とは君です。つまり見ている私達ですね。

前に言った様にまどかは私たちの分身です。鏡に映った私達ですね。テレビ版第一話、アップで鏡に映ったまどかが出ます。その前のちょっと離れた絵だと、目の中の光の反射が逆なので、鏡に映ったまどかだと分かります(ここもわざと鏡に映ったまどかだと分かりにくくしてますね)。

なので実は君はまどかでも私達でも、結果同じで私達です。そしてもっと言えば主に男達の事です。

銀とは?

Wikipediaによると「神秘主義哲学では月と関連づけられ、銀は男性を、金は女性を意味していた」そうです。ただ銀は男性から女性にある時ひっくり返ったともいわれているそうなので、はっきりはしないです。でも月や破邪のイメージはありますね。

まどマギでは満月が良く出てきます。まどかの円環の理を示していると思われます。神秘的で大きく完璧な丸で空からいつも見守っている、神の象徴なのでしょう。

なんにせよ銀は神秘的なものや聖なるものを表していると思われます。

庭とは?

これが問題で、庭は世界ではありませんね。世界の中の限られた、区切られた、個人的な世界ですね。つまり箱庭の事でしょう。

では「君の銀の庭」とは?

「私達の神秘的な場所」そして「男の聖なる箱庭」ではないでしょうか?

そしてそれはまどかの作った世界であり、テレビ版の最終話であります。前回たどり着いた答えは「男の聖なる箱庭」では無かったのか? と言ってはいないでしょうか?

歌詞の中にも「未来や希望は全て誰かが描く遠い庭のわがままな物語」とあります。これも同じことを言っていると思います。

つまり批判してはいないでしょうか? 作者は自分が作ったエンディングを否定してはいないのか?

叛逆の物語とは、誰が誰に向かって叛逆したのか? これは前回言いました。テレビ版の最終話に感動した人に向かい、そしてそれを作った自分たちに向かい、作者達の叛逆だったのではないでしょうか?

 

この歌はほむらの歌です。

ではこの歌を正しいと思っているのか? おかしいと思っているのか?

確かに、おかしくなったほむらの歌ともとれます。

しかしそれをエンディングで歌にして持ってくるでしょうか? 私はこの物語を終わらせに来たと思っています。それがあっているなら、なお更おかしくなった歌を最後の最後に入れてくるわけがない。

そしてこの時流れる絵ですが、これは最後手を取り合って走ってきます。どっちが上でもなく同等の存在で手を取り合う。これは肯定ではありませんか? ほむらがおかしくなっている事を表す絵とは思えません。

では肯定だとしたらこの歌詞は何を言っているのでしょう?

 

 「道に迷ったあの子が今日も一番早く帰り着いた」とあります。

帰り着いたとは、正解にたどり着いたと言う事でしょう。

ほむらが正しい所にたどり着いたのでしょう。

それは女であると言う事です。女の理論の正解にたどり着いた。

しかしこれは半月です。あくまで半分の正解です。

そしてあと半分、男の理論の正解もあります。

それの二つが対立しながらでも、最後は手を取り合って行くのが本当の正解だと言っていると思います。

その両方があって始めて人の世の話になる。

男の理論の正解は確かに満月なのでしょう。完璧な丸です。神の様な完璧な丸なのです。しかしそれは人の世の話ではない。それは聖なる箱庭にすぎないのです。

 

「正しさよりも明るい場所を見つけながら走ればいいんだね」

なぜこの文を皆無視するのでしょうね? 答えですよね。

 

「ほんとのことなんていつも過去にしかない」

「未来や希望は全て誰かが描く遠い庭のわがままな物語」

これも答えですね。

はっきりしない未来や希望は妄想の中の、箱庭の中のわがままな作り話ではないのか? と言っていますね。これはそういう可能性もありますね、と言う意味だと思っています。間違えやすい可能性があると言っている。そしてそれはまどかの世界の否定ですね。男の世界の否定です。

 

歌の最後は「繰り返し」になるのですが、「繰り返し」になる前の最後の言葉、つまり歌の本当の最後の言葉です。

「少女の形をして」

「終わらない始まりへ」

「ほんとうの終わりへ」

とあります。これが私が前にブログで言っていた事その物ですね。

 

 エンディングロールの時流れる絵があります。これも何かありそうですよね? 

正直言うと、私も分かっていない部分がありそうなのですが、それでも分かりやすい所だけでもこれが言いたかったのだと思わせます。

まずこの絵は、まどかとほむらですよね。

そして左右に分かれています。色も違うし風景も違う。つまり違う世界(離れた町程度の事です)で生きています。

テレビ版の最後は満月です。つまりいつも神の様にまどかが空から見守っています。見れないし触れませんが、いつも一緒にいると言っています。

いつも一緒にいるが見れないし触れられないし話すこともできない。それに何の意味があるのか? 人として何の意味があるのか?

しかし今回のエンドロールは離れて暮らしているが、最後手を結ぶことができます。いつも一緒にいないが触れて話せれる。これが人です。

同じではない。だからいがみ合う事もある。しかし話せるのです。理解しあえる可能性がある。これが今回の最後のまどかとほむらです。だからバットエンドではない。今後も色々あるだろうが、それでも最後は手を結べるのではないのか? まどかとほむらは手を結べれる存在になったのではないのか? そう言っているエンドロールなのです。

 

最後、二人が手を取り合って向こうに走っていきます。そして遠くに行くと丸くなる。丸く見えるのです。

例えばおじいさんとおばあさんがいたとします。もちろん違う存在ですが長く生きてきた道を遠くから他人が見れば「まるで二人で一つの丸に見えるね」と言う事が無いでしょうか? まるで二人で一つに見える。その事を表しているのでしょう。

空の月は丸いです。完璧な丸に見えます。大きく美しく神々しいです。そしていつも見守ってくれています。それは神なのです。神の完璧な丸なのです。人ではない。月を見てあれが死んだお母さんだとは誰も言わない。小さな点である星を見て死んだ人だと人は言うのです。人は点でしかない。

人の丸はエンドロールの二人が向こうに行った時に見える丸では無いのか? あのいびつで遠くから見たから丸く見えるだけの、あの小さな点が人の丸では無いのか? 手を結び、長く生きていった向こうに見える丸が、人の目指す丸では無いのか? そう言っているように思えるのです。

神ではない人は、人の丸を目指すべきではないのでしょうか?

 

でもほむらは悪魔では無いのか? と言う人がいそうですが、あれは皮が悪魔なだけで中身は人です。ミッキーやカーズやニモは皮は違うが人だと思っているでしょ? ネズミの話だとは思っていない筈です。これがSFで遠い未来でほむらが悪魔と同じような事が出来る未来人だとしても、それでも人間だと思える事でしょう。つまりほむらは悪魔の様な事が出来るが、中身は人でしかないのです。概念になったまどかとは違うのです。

 

そして左右に走る問題です。

私は知りませんでしたがアニメのキャラは左に走るのですね。左が未来で正しい方。右は逆なので、右に走るやつは裏切るか死ぬかなどの事におちいりやすい、なのだそうです。

それで調べてみたら、外国の映画は逆に右に向かっていくのだそうです。右が正解の方向であり、アニメと逆ですね。

これは単純に縦書きか横書きかの違いからくる、本の開きの向きからきてますね。

アニメの元になる漫画が縦書きの日本の本と同じ、右開きです。そうなるとキャラは左に走らないと先に向かっているように見えませんものね。

逆に横書きの洋書は右が奥になり未来になるのは、自然な流れですね。

そしてゲームは右に走ります。マリオもグラディウスも右ですね。これは元のパソコンが外国製なのもあるのでしょうけど、座標の関係ですね。どのドットを光らすかを表すのに座標がふってあります。数学と同じく右に行くと数が大きくなります。(x、y)で(1,1)から(2,1)そして(3,1)と光るドットを変えていくと動いているように見える。大きくなる方を先にした方が自然で、プログラムしやすかったのでしょう。

そしてテレビ版まどマギはオープニング左に走りますね。そしてエンディングで右に走る。なるほど言われてみたら考えられていたんですね。暗い絵に怖い音楽、右に行くキャラクターで不安をあおる訳ですね。

そして映画版のエンドロールです。最後、奥に走るのです。

走っていくのが右でも左でも、カメラが追っていけばどこまでも絵がとれます。つまり未来でも過去でも、追っかけていけば物語はいつまでも続くのです。

だから今回は奥に走るのです。奥に行くとどうなるか? 小さくなって点になり、しまいに見えなくなり画面から消えます。もう誰も追えないのですね。なので終わりを表しているのです。

 

エンドロールの後にも少し映像がありますね。

映画も終わりほむらが休んでいます。何かに気が付きびくっとする。奴かと思う。そうです奴なのです。キュゥべえです。

一見白い顔に害がなさそうな奴です。しかしこいつが終わった筈の物語をぶり返したのです。たぶんこんな事を言うのでしょう。

「やっと終わったね。さて続きはどうしようか? え? やらないの? 続きをやれば今以上の地位と名誉、お金だって手に入るんだよ。続きをやらないって言う選択は、ぼくには理解できないな」

そう、こいつは仲間だと思わせているが、感情の無い敏腕プロデューサーの化身です。

そして今回は製作者の化身とかしたほむらにボコボコにされてしまうのです。

 

その後ほむらはバレエの様なステップを踏みます。

今回の物語はバレエの「くるみ割り人形」ですね。その要素が多く入っている事は、今更私が言う事でもないでしょう。

くるみ割り人形」では雪の国からお菓子の国に行きます。そしてまどマギの最後のシーンでは雪が降ってますね。つまりお菓子の国に行く前だと言っているのです。そしてお菓子の国に行くのか? と言っているのです。

エンドロールの前のシーンに、看板の絵があります。左はCountry of sweets(お菓子の国)で、右はGood morning(おはよう)と書いてあります。ここにつながるのです。

つまり分岐点です。左に行くとお菓子の国であり夢の国に行けます。右に行くと夢から覚め現実に戻るのです。どちらに行きますか? と言っている。

 

最後崖のような所でほむらが右に倒れて落ちていき……ません。

落ちてません。落ちる前で終わるからです。体が水平になる前に終わります。

これは何を表しているのでしょう? 落ちるのを表したいのなら、落ちる所まで描けばいいのです。しかししない。わざとなのです。

一つは、落ちてるように見えるけど落ちてない、と言う事でしょうか? 

ほむらは悪魔に落ちて言った様に見えるが、実は落ちてません。男にとって時に悪魔の様にも見える事がある女になっただけなのです。

もう一つは落ちる事を表しているのではなく、別の事を表しているかです。

つまりほむらは右に傾いた。もしくは右を指したのでは無いでしょうか?

右とは?

そこであの看板です。右は Good morning なのです。目を覚ますのです。

この最後のシーンでは製作者の化身となったほむらが右を指したのです。

左の夢の国にはもう行かないと言うのです。

魔法少女まどか☆マギカ』という夢の国の終わりを表していたのです。