号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

ユリ承認!

アニメ制作の世界は狭いと言うような事を聞いた事があります。今はどうかは知りませんけど。良くも悪くも人があっちこっち動く(一つの会社にとどまらない)業界の様で、しかも沢山の人が制作にかかわる仕事なので、業界の人の仲間意識があるようですね。

しかもそもそもアニメ好きや物語好きが集まっているので、業界内の精神的な横の繋がりが、他の業界と比べると強いように見受けられます(多分ですけど)。

セーラームーン」を良くは知らなかったので、感覚から抜けてましたが「まどマギ」は影響を受けてますね。この影響はどっちかと言うと冗談のような物、つまり皮肉に見えますけどね。

つまり王道の魔法少女戦隊ものの「セーラームーン」っぽく見せておいて、中身はダークで魔法少女否定にも聞こえる内容です。なので面白いからわざとかぶらせて反対をやっているのでしょう。「まどか」が「ちびうさ」とかぶらせているので「ほむら」は「ほたる」(セーラーサターン)っぽいのですね。

 

ちびうさがテレビ版に登場したのが第60話だそうです。そして60話から幾原さんがセーラームーンRのシリーズディレクターになったそうです。幾原さんのピンク伝説はここから始まるのでしょうか? もっと前があるのでしょうか?

幾原さんは「ウテナ」で「セーラームーン」に牙をむいたようですね。つまり問題点に気が付き、それに反抗したのでしょう(だからと言って全否定だとは思いませんが)。

だから魔法少女物のわざと反対を描こうとした「まどマギ」と「ウテナ」の裏の要素が似て来たのでは無いでしょうか?

まどかはテレビ版最後、魔女になる子を救います。

魔女とは、世界を変えられる魔法を信じた女の子(シンデレラの様に王子様が来ることを信じていた女の子)が大人になり、世の中の醜い所に気が付き、世間に呪いを吐いて生きていく女になっていく事を表しているのでしょう。

幻の王子様問題に切りつけたのがウテナだとしてら「魔女なんかになったらだめだよ」と言うまどかはウテナか? いや、もっと象徴的なピンクの概念の存在「幾原邦彦」その人では無いでしょうか?

 

アニメ業界は世界が狭い事にもつながりますが、「まどマギ」は「ウテナ」の影響が多いと言われているようですね。

だからと言って、どの位「まどか」に幾原要素をわざと入れたのかは分かりませんけど、たまたまだとしても結果、「ウテナ」と「セーラームーン」両方に係わってきた幾原要素が多く見える物語になった事は間違いないですね。

 

そして幾原さんが「まどマギ」を見てどう思ったのか? この人が今私が言ってきた事に気が付かない訳が無いですね。

そして「まどマギ」の男の物語の反対、女の物語を作るにあたり「ユリ熊」に引っ掛けてくる、と言う可能性は十分あると思います。

そうだとしたら、面白い事しますね。

 

さて、あらためてアニメ「ユリ熊嵐」感想です。ネタバレです。

 

やばいですね。ユリ熊がここにきて面白過ぎる。

今まで考察してきたことを踏まえてもう一度少し見てみたが、面白く感じるようになってました。

私は前にユリ熊は表が見れないのでダメだと言ってました。裏がどんなに面白くても表が見れない時点で終わっていると思ってました。

しかしここにきて揺れてきましたね。この物語は裏が分かると面白くて表がダメなのを許してしまいますね。

例えば、何かしらの交通手段の事で表します。電車でも車でも自転車でもいいのですが、一か月に一度くらい調子の悪い日があって使えないとします。それはあり得ないと思います。どんなに効率が良くても快適でも動いてなんぼです。不安定でたまに動かないのはそれでアウトだと思います。そう思ってたら青白い奴が「どこでもドア」を出してきたようなものです。「どこでもドア」なら一か月に一度動かなくても「まあいいか」となります。

そんな所です。想像を超えたものが出てきたのでビックリですが、これ位やってくれたら私にはありになってきました。こんな物語が世の中にあるのですね。

 

悪くもない人が死んだり、物語が終わってもいがみ合ってたり、救いがなかったり。

そういう物語をしたいのだとは分かりますが、見ててつらいので見てられないのです。前にも言いましたが、これはまだ未来に逃げ道のある子供が見る物語ですね。大人は今更現実の辛さを知っているのだから、物語でまで見たくはないのです。しかしです。この物語は逃げ道があります。実は死後の世界で神に救われる話だったのですね。

百合もそうです。始めに百合をしたかったのか、もしくは修羅道の話なので戦う女達(セーラームーンと現実の学校などで戦っている現実の女の子)の物語にする為に、女ばかりの世界にしたのかは分かりませんが、ここが死後の世界で修羅道だとすればいい訳が出来ますね。現実とは違う不思議な世界を表したかったと言い訳が出来る。

この劇場のような世界もそうです。わざと物語上必要なもの以外を排除した世界になっています。これもこれをしたかったのか、もしくはこの不思議な世界に合わせたのか分かりません。しかしどっちであってもこれもあの世と言う事でいい訳が出来る。

つまり気に入らない所や、変な所がちゃんと言い訳が出来ている作りになっているのです。ただの雰囲気で誤魔化す物語では無く、ちゃんと考えられていて分かると納得する物語なのです。

 

その中でクマは人を食べます。これも一見変な作りに見えますが、これは人も何か自分より弱いものを食べてるだろ? そうして生きている事を考えろ、と言う意味が入ってますね。これは宮沢賢治の言いたかった事にもつながります。

それと山田玲司さんが言っていたように「野生を取り戻せ」と言う意味も入っているのでしょう。つまり欲望も忘れ、生殖も忘れた子供たちに、それは生き物として間違っていると言う事なのでしょう。

なのでライフセクシーと言う名が裁判長なのですね。セクシーなライフです。魅力的で性的な生活が大事であり、そもそも生き物のとって大事なものなのだと言う意味なのでしょう。ライフビューティーは美しい生活ですが、ライフクールは冷静で頭のいい生活も大事だと言う意味で、ちゃんとバランスはとっていますね。良く出来てます。

 

この「野性を取り戻せ」は、実は宮沢賢治に対してのアンサーソングでもある気がします。

宮沢賢治菜食主義者で粗食だったようです。肉は食べませんでした。しかし病気で若くして亡くなってますね。私は個人的に、もっと栄養を取っていれば長生き出た可能性があるな、と思っています。そしてそこにもかかってくる。つまりクマは人を食うのが自然な事である。そして人も肉を食っても自然な事である。つまり死ぬくらいなら栄養が多い肉類をとってもいいのでは無いのか、と言っているようにも思えるのです。

そしてです。そしてまたなのですが、宮沢賢治は多分分かってはいたのです。「なめとこ山の熊」でクマを捕る男を否定はしてない。だから実は、人とはしょうがなくクマを殺して食べても良いのだと分かっていたのでは無いでしょうか? しかし心が納得してなったのでしょう。これは「銀河鉄道の夜」での輪廻転生と仏教などに対しての気持ちと同じです。実は頭では答えが分かっていたのに、最後まで気持ちが付いて行かなかった、そのせいで若くして亡くなってしまったようにも見えます。

だからはっきりした答えを幾原さんは示した。後世の人であり、賢治がなくなった年より年上になった幾原さんが示したのは意味がある事です。それは、世界が前に進んでいる事を示す事だと思います。

 

ユリ熊は、まどマギ等に引っ掛けた冗談のようなもの、それに賢治に対しての答えと賢治の物語の中の宗教的なもの、哲学的なものに加え、今に生きる少女たちへのメッセージまで含まれてます。

地に足の着いた今の人へのメッセージがあるので素晴らしいですね。

野生を取り戻せと言う事でしょう。食べる事も生殖もあるのが生き物だと言う事だと思います。一見泥臭く見えるでしょうが、そこに生き物としての素晴らしい人生があるのだと言っているように思えます。

そして罪を犯しても間違っても大事な人が亡くなったとしても、まだ人生は終わってないのだと言っています。

しかも、死ぬくらいなら逃げてしまえとも言っています。戦って死ぬくらいなら逃げればいいのです。それも答えなのです。

 

いやはや、なめてましたね。ピンドラ見てたのに騙されましたね。ユリ熊はビックリしますね。すごいですね。しかしこんなに綺麗にやりたい事を隠す必要はない気がしますけどね。

宮沢賢治は死んでから世間に評価されたようです。こういう人は結構いますが、残念ですね。

 幾原さんもそうなりそうでしたね。

しかし山田玲司さんが「幾原さんはこれから評価される人だ」と言ってました。良かったです。作家としての幾原さんの事を、死ぬ前に評価して皆に知らせる人が現れたことが素晴らしいですね。それで私も知れましたしね。

そして山田さんのしてる事も、これから一般の人にもっと評価されると思います。AIが実務をやってくれる時代には「物語を作る」事が大事になってくるはずです(他の仕事がなくなるからです)。それに加え自分の頭で考えて行動することが大事になります(それもいつかはAIがやってくれるでしょうけど、その時は人類存亡の危機なので、それはまた別の問題です)。なので今山田さんがやっている事は、次の時代にきいてきますよ。

平成も終わり、まだまだこの国も世界も荒れそうですが、世の中捨てたもんじゃないよな、と思わせてくれる年の瀬でした。