号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

留まるのか? 出て行くのか?

アニメ、まどマギ「叛逆の物語」の考察です。

この辺まで続けて来ると、もう残ってるのが細かな事になり、よく知っている人でないと分からない話になってきたのは、しょうがないので勘弁です。

 

寺山修司を検索していると、出て来るのが「くるみ割り人形」。

これは何なのだろう? と思ったら、1979年のサンリオの映画の脚本を、寺山が書いたそうです。そしてボツになったそうですが。

 

この脚本を読みたいのだが、手に入らないのであきらめました。

古本も高いし、世知辛い世の中ですね。

 

まどマギのアニメ映画「叛逆の物語」で「くるみ割り人形」がネタとして使われていて、なんでだろう? とは思っていたのだけど、寺山からですね。

 

ただ、寺山版の「くるみ割り人形」がどこまで係っているのか? は分かりません。

しかしバレエ版の「くるみ割り人形」と、その大本の1816年のホフマンの「くるみ割り人形とねずみの王様」は、両方かかっているのは間違いがなさそうです。

この両方にかけてきた所が、叛逆の物語の秀逸な所です。

 

ちなみに「ピンドラ」でも「犬神家の一族」が係っていて、なぜだろう? と思っていたのだが、これも寺山が「犬神家の人々」と言う、写真などの本? を出していたので、ここから使ったのでしょう。

こっちの寺山の本も安くは手に入らないので、諦めました。貧乏人には世知辛いですね。

貧乏人に世知辛いなんて、寺山っぽくない世界観であり、だから今はつまらない世の中なのだなあ、と実感します。

 

wikiによると、ホフマンは友達の子供の為に「くるみ割り人形」を書き始めたのが最初だそうです(なのでアリスに似てますね)。

友達には三人の子供がいて、クララ、フリッツ、マリーの三人だそうです。

そしてホフマンはマリーがお気に入りだったそうで、だから元のくるみ割り人形ではマリーが主人公です。

 

面白いのは、原作でも三人の子供が出て来るのだが、マリーはいるが、もう一人がルイーゼになってる所です。

ではクララは?

ホフマンは同じころ他の作品を書いていて、それが「砂男」であり、この中ではクララと言う女が出て来ます。

「砂男」内でクララの恋人がナタナエルで、最後狂って死んでしまう男です。

wikiによると「くるみ割り人形とねずみの王様」ではドロッセルマイヤーの甥がくるみ割り人形にされる男なのだが、名前が出て来ない。

しかしバレエの方の「くるみ割り人形」の原作としてwikiに書いてある方だと、甥の名がナタニエルである。

このナタナエルとナタニエルは同じ名が元でしょう。

 

くるみ割り人形とねずみの王様」のドロッセルマイヤーがホフマン自身の事だと言われているようです。

ではドロッセルマイヤーの甥であるナタニエルとは?

彼がくるみ割り人形にされてしまう人物であり、最後は呪いが解け、感じのいい青年になり、人形の国の王様だとマリーに言い、マリーと結婚する人物です。

つまりナタニエルもまた、ホフマンの事でしょう。

呪いを解かれたホフマンであり、ホフマンの心の事でもあり、理想のホフマン、夢の国のホフマン、と言う事でしょう。

人形の国王様とは、この様な夢の物語を作るホフマンこそが、夢の国の国王だと言う事です。

流石に自分自身の分身が、マリーと結婚する話はやばいと思って、甥と言う事にして描いたのだと思います。

 

そう考えると「砂男」でもナタナエルが出て来る事が分かります。

砂男の方ではクララの恋人だが、最後狂って死んでしまう。

たぶんホフマンは始めは姉のクララがお気に入りだったが、上手く行かず、おかしくなり、心が死んでしまった、と言う事では無いのかな? と勘ぐっています。

そしてマリーの方に心が行く。

だから「くるみ割り人形」の方ではクララが出て来ないのです。彼の中では終わってるからです。

 

面白いのは、バレエ版の「くるみ割り人形」ではクララが主人公の時が多いようです(バージョンによって違うようだけど)。

そして寺山版でもクララが主人公です。

寺山版でもマリーは出て来るが、酷い目にあうようです。たぶん「毛皮のマリー」などにかけたジョークの様な物が入っていると思いますが、読んでないので分かりません。

そして寺山版の「くるみ割り人形」では「砂男」の影響も大きく入ってるようです。

寺山は、ホフマンがこの二つの作品に入れた要素に気が付き、だから二つをかけ物語を作ったと思うのですが、いかんせん寺山版が読めないので良く分かりません。あしからず。

 

さて、バレエの方ではクララが主人公の時が多いと言いました。

そしてバレエの方の最後だと、このクララが目をさめ「今までの事は夢だった」と言う終わりになる事が多いのだそうです(演出家によって違うようです)。

しかしホフマンの原作だと、マリーを夢の世界のお妃として迎えに来て終わりなのです。

 

「叛逆の物語」に、やっと戻ります。

ほむらが「くるみ割りの魔女」になるので、ほむらがナタナエルでしょう。

そしてまどががマリーであり、原作通りまどかを最後に夢の国(つまり作られた嘘の国)にむかえに来て取り込んでしまう。

この時「偽街の子供達」と言うキャラが出て来るが、別名がクララドールズだそうです。クララ人形だと言う事です。

ホフマンの原作だとクララは出て来ないが、始めにマリーにプレゼントされる人形の名がクララだそうです。

つまりクララ人形が出て来るのは、原作であるホフマン版だと言う事です。

ホフマン版だと言う事なので、最後夢の国にまどかを取り込んでしまう事になります。夢からは覚めない終わり方だと言う事です。

 

これだけだと「まあ上手いな」位なのだが、これにバレエ版を入れる所が秀逸です。

 

エンディングの最後、ほむらはバレエのステップを踊ります。

つまりこの時はバレエ版だと言う事です。

そして(前に考察したように)この話は終わりなのだと強く言っている作りです。そして目を覚ませと言ってくる作りです。

だから最後、この話は実はバレエ版だと伝え、最後夢の国、お菓子の国、人形の国、には行かず目を覚ます、と言う最後だったのです。

 

一見、ホフマン版で、まだ夢の世界に居続ける話に見え、実は終わりであり夢から覚めろと言う終わり方だと、隠して表しています。

たぶんですが「終わらせるな」と言う偉い人がいたのでしょう。

だが気に入らないから、最後キュウべえに見立てた偉い人をボロボロにしたのでしょう。

そして隠して裏では終わらせたのです。見事でした。

(終わっていると思ってたからこそ、続きが作られなかったのです。しかし考えが変わったのか? やりたい事が出て来たのか? で、ワルプルギスの廻天を作ろうと思ったのでしょうけど、始めは終わらせたはずだったのは、間違いがないのです)

 

ちなみに、これらの事をネットで調べてたら出て来たのが、youtubeでの考察です。

まどかとほむらが、最後手を上げ桜を咲かせるあたりで出て来る魔女文字の考察でした。

これの内容が「永遠に女性的なるもの」と言う意味のドイツ語だそうです。

そしてこれは「ファウスト」の一節であり、最後の言葉の一部だそうです。

これはファウストにもかかっているのでしょうけど、それとは別に「この話は、男の娘物語だよ」と言う事のヒントでもあると思います(これも前の考察で言いましたが)。

 

まあ色々ぶっこんできますね。

そして色々良く出来た物語でした。

これらを考えると、これから続きをやろうなんて無茶しますね。

「ワルプルギスの廻天」今現在、まだ出て来ません。

ちょっと難しすぎる気がしますので、頑張って下さいとしか、私には言えないです。

これは皮肉ではなく、素直に応援ですよ。

 

 

2023年 3月 19日 いくらなんでも分かりにく過ぎたので、少し補足します。

 

初代まどマギの脚本家の虚淵さんによれば「まどマギファウスト要素を入れたのはイヌカレーさんで、おれは知らん」だそうです。

劇団イヌカレーさんは二人のユニットだそうで、2白犬さんと泥犬さんです。

だとすると、まどマギの暗喩関連を入れたのが、イヌカレーさんだと思います。

アニメのマギレコの総監督が泥犬さんで、マギレコには暗喩関連が多いので、泥犬さんが主で暗喩を入れてるのかな? と思っています。

だとすると、叛逆の物語でくるみ割り人形を使ってきたのは、泥犬さんの影響だと思うのです。

 

確か、イヌカレー名義でウテナの音楽のジャケットを描いてました。

だからイクニさん事、幾原さんを作家として好きなのかと思ってました。

そしてマギレコを見たら、イクニオマージュがてんこ盛りだったので、あっていたと思いました。

他の事で、泥犬さんは映画「あしたはどっちだ、寺山修司」にコメントを載せていたと思います。だから寺山にも詳しいのでしょう。

 

イクニさんから寺山なのか? 逆なのか? は分かりませんが、泥犬さんは両者の影響を受けていると言う事です。

だからくるみ割り人形が叛逆の物語で使われたのが、寺山からだろうと思うのです。

 

ちなみのイクニさんは好きな作家は寺山と言っているし、イクニさんが寺山の影響が強いのは、今更言う事も無いくらい有名ですね。

 

と言う前提があり、まどマギには寺山とイクニさんの影響があると思っています。

ただ叛逆の頃はまだ少しです。

この後のマギレコになると、影響はずっと強くなって行きます。

 

さて、他の事も少し補足です。

寺山版のくるみ割り人形のあらすじを載せていたサイトがあり、読みました。

それによると、寺山版では、くるみ割り人形になり、クララが好きになる人物の名はコッぺリウスだそうです。

コッぺリウスは「砂男」内で、ナタナエルが「あいつが砂男だ」と思う男の事です。ナタナエルがずっと恐怖を描いている男の事です。

そして寺山版ではドロッセルマイヤーが砂男だそうです。

原作の「くるみ割り人形」のドロッセルマイヤーの甥がナタニエルであり、彼がくるみ割り人形にされるのだが、それが寺山版だとコッぺリウスになる。

この事から「ナタニエルとコッぺリウスは同一人物だ」と言う事を言いたいのでしょう。

そして寺山版のドロッセルマイヤーが、コッぺリウスの筈の砂男なのは「この二人も同一人物だ」と言う事です。

もちろんナタナエルとナタニエルも同一人物。

結果「この四人は同一人物だ」と言う事です。

 

「砂男」内で怯えるナタニエルも恐怖の砂男も同一人物。

くるみ割り人形のナタナエルもドロッセルマイヤーも同一人物。

そしてドロッセルマイヤーは作家ホフマンの事だと言われています。

つまり「全てホフマンだ」と言う事に、寺山は気が付いてた、のではないかと思っています。

寺山は、やはり、流石ですね。

 

2023年 3月 20日 ごめんなさい。もうちょっと補足と訂正。

 

ホフマンの原作をフランス語に翻訳した時につけられた甥の名前がナタニエルでしたね。よく読めって事ですね。

しかし理由もなく原作を変えて名前をつけるのだろうか? 何か理由があると思うのだけど、分からない。

もしかしたら、この翻訳家が独自で「砂男」との関連性が分かってつけた名前なのかもしれないけど。だとしたらパンチが効いている翻訳ですね。

 

やはり原作だとドロッセルマイヤーの甥の名前は出て来ないようです。

ただドロッセルマイヤーは名字なので、この甥もまたドロッセルマイヤーでしたね。

つまり原作はもっとドロッセルマイヤーおじさんと、この甥は同一人物だ、と強く言ってました。それを強調したいから、わざと名前が無いのでしょう。

 

「砂男」内の砂男は、自分(ナタナエル)に、真実を見せようとする自分自身の心、そしてその事で目を奪う者、つまり見たいと思っている美しい幻を見えなくしてしまう者であり、そう言う現実的で年寄り的な自分の事、でしょうかね?

 

くるみ割り人形」内の甥は、呪いが解かれ、醜さが無くなった理想のホフマンの事でしょう。

だから最後こっちの物語は、マリーを人形の国(夢の国であり、作り物の国であり、嘘の国)に連れて行く物語です。

夢から覚めたくない、を具現化した方の作品です。

 

これは姉のクララに対しては夢から覚めたが、マリーに対してはまだ夢心地だ、と言う時のホフマンの心情だった気がするのです。

 

このロリコン心情がアリスにも通じ、そしてまどマギにも通じているのが、また面白い訳です。

ちなみに、心情がロリコンなのは別にかまいません。

どこかの芸能事務所の元社長みたく、子供に手を出したらお終いなだけです。

 

2023年 3月 21日 さらに追加、すこしです。

 

叛逆で、ほむらはバジリスクだと言う演出です。暗喩としてです。これは前にも言いました。

そしてだから、見ている者です。目で見て相手を石に変えてしまうと言う事で、時間を止めて捕らえてしまう事を描いています。

だから初めのオープニングで砂漠が出て来ます。

 

この砂漠から、ほむらは砂男だ、と言う事でもあるのでしょう。

目でまどか(幻と理想)を見て、しかし真実を見て、おかしくなるキャラなので、ナタナエルでもある。

もちろん、寺山が描いたように、四人全てがホフマンなので、全てがほむらと言う事です。

だから最後、ほむらが高い所から落ちてしまう演出だったのですね。

「砂男」の方で高い所から落ちて死んでしまうホフマンとは、もちろん実際に死ぬわけではないので「夢の世界で死に、現実に目が覚めるホフマン。クララの恋人である夢の世界で生きたナタナエルである自分の死を最後見ていたのが、砂男である方のただのおじさんである本当の自分」と言う話だったのです。

だから、実は、ほむらも最後目が覚める(だからここで夢のお話は終わる)と言う事を表しているのが、叛逆の物語の最後の落ちる演出でした。

 

本当に良く出来ていたけど、誰が分かるの?

イクニさん達が分かれば、泥犬さんはそれで良いのかもしれないけど。