号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

キュゥべえ腹をこわす の巻

人の悪い癖で、自分が分かっている事(もしくは分かっていると思っている事)は皆分かっているんだろうと思いがちですね。

まどマギ 叛逆の物語 の考察です。ネタバレです。

読み返すと、前回言った事が今一分かりにくそうなので、もう一度細かく言います。

 

大丈夫です。無限ループにおちいった訳ではございません。

前回のも読み返すと、それでもまだ上手く伝わりにくい気がしてきたので、更に細かく考察していきます。

学園祭の前の日を繰り返すのは確かに楽しそうですが、ここでループをしても何も楽しくないので今回で終わりたいですね。これを八回したら怒るでしょ?

 

さて最後ほむらが右を指したと言いましたが、その訳は?

最後右が崖ですよね。そして右に傾く。

しかしエンドロールの後の絵は、ほむらが向こうを向き椅子に座っている左が崖です。

つまり最後は逆になっていますが、これは普通しません。逆になると分かりにくくなるからです。意味が無いと崖を逆にはしないのです。

そもそも左が崖だったのだから、落ちる事を表したいのなら左に落ちればいいのです。そうすればまどかのいた方に落ちるし、この方が意味が通ります。

それをあえて逆にするのだから意味がある。しかも左右の意味があるのです。どうしても右に傾かなければならなかったのです。

 

そして今までしてこなかったバレエのステップも、あえてここでするのだから意味がある。今まで降ってなかった雪が降っているのにも意味がある。

べレエ「くるみ割り人形」の雪の国ですね。そして雪の国はお菓子の国に行く前なのです。

お菓子の国が文字として出てくるのは、多分本編のラストあたりに出た看板しかなかった筈です。そこにつながる。

お菓子の国に行くか? 目覚めるか? を示す看板がある筈の場所は、お菓子の国の手前なのだからここにつながるのです。

この看板はアップになっていますね。静止画でアップになっているのはここだけじゃないでしょうか? つまり大事なのです。よく見て覚えておいてね、と言うのです。

 

そして最後ほむらが右に倒れる。つまり右を指しているのだから目を覚ますのです。

誰が?

 

これらはエンドロールの後なのです。エンドロールの後にする理由は?

一般的に、エンドロールの後にくるのは、「実は生きていた」とか「砂漠の中に芽が出てきた」等の事です。本編で語られてない事の続きなのです。

もしくは次回予告です。マーベルの映画の最後のあれです。次回はこんなことがあります。見てね。と言うやつです。

叛逆の物語ではこのどちらでもありません。

他にあるのは本当のおまけです。本編と何も関係のないおまけなのです。

キュゥべえをギタギタにしたり、バレエのヒントだったり、最後ほむらが悪に落ちる事は本編で言っている事です。ここで言う事ではないし、もう言っています。

なら関係のないおまけではないでしょうか? 関係のある事なら本編で言えばいいのです。どんでん返しでないのなら本編で言うべきなのです。

それで導き出したのが製作者の気持ちです。もうやらない、終わりだよと言う気持ちだと思ったのです。ここではほむらとキュゥべえは製作者の化身なのでしょう。

だから目を覚ますのはほむらでは無く製作者なのです。夢物語は終わりだと言うのです。

 

ではエンドロールの後の始め、椅子に座っているほむらの左が崖なのはなぜか?

気付いていると思いますが、本編で椅子に座ったまどかとほむらのシーンがあります。その時向こうを向いて座っている二人の左側がまどかですね。

そして最後はまどかとたもとを分かったので、まどかの側がなくなり崖になっている演出なのですね。

 

ではなぜまどかは左に座っていなければならなかったのか?

右に座っていれば良かったのです。そうすれば崖が右になる。そして最後のシーンとも整合性が取れる。しかしそれではダメだったのです。

それはその時まどかは立って左に倒れるからです。つまり意味があるのです。倒れるのが左でなくてはならなかったからです。

本編の椅子のシーンをエンドロールの後のシーンとかぶらせるのは意味があるのです。

最後ほむらが右に倒れる。それと同じような格好でまどかは左に倒れる。そして椅子のシーンをかぶらせることにより、ほむらの倒れた意味が、まどかにも通じると伝えているのです。

つまりまどかはお菓子の国を指したのです。

 

ほむらとまどかの倒れ方です。不自然でしょ?

まるで木の棒の様に倒れる。

木の棒なのです。

分かれ道で棒を立て手を放し、その倒れた方向に、つまり棒がさした方に歩く、なんてことをする。この棒なのです。分かれ道で向かう方向を指す木の棒なのです。

 

まどかはお菓子の国を指しました。夢の国を指したのです。

ここはエンドロールの後では無く本編内です。つまりここではまどか自体の事なのです。

つまりまどかはテレビ版の最後に、甘っちょろい男の理想を選んだのです。その結果消えてなくなりました、と言う事です。そしてほむらはまどかを失ってしまった。

 

このまどかが倒れる時、ほむらは救おうと思い手を伸ばす。

その時ほむらは何かから抜けます。手前に自分の黒い何かを残し、抜けたほむらがまどかを救おうと手を伸ばす。

抜ける前は眼鏡をかけ三つ編みだが、抜けた後は眼鏡もかけてないいつものほむらです。

何を抜け、何になったのか?

大人になったのです。そして中二男子から女になったのです。

中二男子ほむらはまどかの選んだ道に納得してしまった。それでいいのだと思ってしまった。

しかし女になったほむらは後悔したのです。例えまどかが正しくても止めるべきだったと。

例えば事件か事故があったとします。少し離れた所にいた男は「あっちで何かあったようだ。何か出来ないか見てくる。」と言うのです。そしてその奥さんは必ずこう言う「危険だからやめて!」と。

何か出来ないかと行くのが正義です。生きるか死ぬかの時にそう言うのは、甘っちょろい男の理想かもしれないが、でも正義なのです。

それを止めるのは悪なのです。しかし女は悪でも止める。そしてそれも正解なのです。

女の正解と男の正解、それは違うがどっちも正解なのです。

そしてその両方が必要だから世の中に残っている。

人が生きるには両方必要で、それでバランスを取っていくのが人の世界です。人の生き残る道だったのです。

女ほむらはまどかを止めるべきだった。それで悪だと言われてもです。そしてそれが正解です。それも正解なのです。

間違えてた。それに今一度気が付いた瞬間です。これからやるべき事を強く決意した瞬間なのです。幸せの為に魔女になり、悪魔になる事を決意した瞬間なのです。

 

結局人はどんなに崇高な事を言ったとしても、裸足で野原をかけていた頃から何も変わってはいないのです。

問題は人間の本質的な所に落ち着いていきます。

はるか昔から繰り返してきた、男と女の価値観の違いに落ち着いたのです。

男と女の問題になってきたのです。

古今東西、犬も食わない様なものに手を出すのは、もはや地球外生物くらいですね。

やめればいいのにそれに首を突っ込んだキュゥべえがどうなったかは、皆さんが見て来た通りなのです。

くわばらくわばら なのです。