号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

まどマギ 叛逆の物語 の考察です。ネタバレです。妄想です。

 

君の銀の庭」の歌詞を改めてみると、わざと分かりにくいようにしていて、それに加えいくつかの解釈に取れるようにもしていますね。

「窓辺でさえずって どこにも行かないで」と言う歌詞を始めて見ると、執着の強いほむらがまどかを小鳥にみたて、自分の世界に閉じ込め「どこにも行かないで」と言っているように聞こえますね。怖いですね。

そう考えると「君の銀の庭」は「ほむらの銀色の鳥かご」の様にも見えます。

しかしこれはダブルミーニングで、こう言う風にもとれるようにしたのでしょう。つまり違う意味もある。

歌詞の中で「ひたむきな小鳥の声で歌う子供は 何を隠し何を壊し 燃える時計」とあります。これはほむらの事ですよね? そうなるとほむらは小鳥であると言う言い方です。これもわざとですね。実はほむらの方が小鳥で「どこにも行かないで 窓辺でさえずって(いたい)」では無いのでしょうか?

 

「窓辺で」とは「まどかの近くで」ですね。

まどかは漢字で書くと「円」ですね。だから円環の理を表しているのでしょう。しかしこれもダブルミーニング(もしくはもっとか)であり「窓」でもあるのでしょうね。

魔女化したほむらを救う手として、空にある窓が開き手が伸びてきますね。あの窓でもあるのでしょうね。

そしてこの窓はその後閉ざされます。この時もうほむらは窓のまどかを拒んでいるのですね。悪魔化する事を暗示しています。

そしてエンドロールの後のおまけの更に後、この窓がひものような物で縛られている絵が入ります。もう開かないように縛られてしまったのですね。

この窓とは? 

空にある窓です。手が届かない所にあり、外も見えない高さにある窓ですね。それは円環の理になったまどかなのです。ほむらが欲しかった窓はこれではない。空しか見えない窓ではないのです。

 

ほむらの「窓」とは何なのでしょうか? なぜ自分を小鳥で表すのでしょう?

 

総集編である映画版の前後編がありますね。これは総集編なのでテレビ版と同じような絵の所と足した所がありますね。

映画版だと前編の始めの歌の所の絵で、まどかが生まれてから大きくなっていく所が描かれてます。リア充ですね。幸せそのものですね。だからこそ単純に他人を幸せにできるし、それを目指せるのです。

「貧乏人は苦労を知っているので他人にやさしい」とか「醜いが心は美しい」等と物語はしがちですね。苦労を知らない人の妄想ですね。「苦労は買ってでもしろ」と簡単に言う人ほど苦労を知らないものです。ガダルカナルに行って生きて帰ってきた人は多分そんなことは言わない筈です。

あまり子供の頃から苦労をすると(努力とは違うのですよ)歪んでしまうものですね。

子供の頃からとてもお金に困って大人になると歪んでしまい、金に執着してしまうものです。お金に汚くなるしケチになります。

なので苦労をし過ぎて歪んだ人を見ると悲しくなりますが、それが現実ですね。

なのでまどかが歪んでいないのはその通りで、よく描かれています。

このオープニングで、他の人の物語の始まる前も少し描かれていて、さやかとマミもよさそうです。

杏子はあの教会にいるのであやしいですね。

そしてほむらがいるのは病院のベットなのですね。

 

このベットのある部屋にあるものは何か? 窓ですね。

大きく立派な窓で(外にも出れそうで)そこまで不幸そうでもないですね。でもそれだからこそ一面は歪んでいないのですね。

しかしほむらにとって窓は多くの時間全てだったのかもしれません。窓から見えるものが全てだったのかもしれません。ずっと窓を見ていたのです。

そしてある時、小鳥も飛んできた事でしょう。そこにいてずっとさえずっていてほしいと思った筈です。しかしすぐ飛んで行ってしまいますね。

ほむらは窓を見て何を思い、小鳥のさえずりを聞いて何を感じたのでしょう?

 

ほむらは退院できました。学校に行けるようになりました。

しかしそこは大して変わらなかった。閉じられた病院の部屋と変わらず、見えない自分の空間に閉じ込められた気分だった筈です。

そこにあらわれたのがまどかです。まどかはほむらにとって窓だったのです。光り輝く窓だったのです。外の世界を感じられる窓だったのでしょう。なので見てしまったのですね。今までの様にずっと見ずにはいられなかったのです。今までがそうだったから。

 

ほむらの悪の心は、まどかにずっとさえずっていてほしかった。その為には鳥かごに入れ閉じ込めて置かなけらばならないのです。それが叛逆の物語の魔女化したほむらが作った世界ですね。

そして普通のほむらの心は、自分が小鳥になりまどかに寄り添ってずっとさえずっていたいと思ったのです。病室に来た小鳥はどこかに行ってしまった。しかし自分は裏切らない。自分なら窓辺でずっとさえずっている。それを願ったのでしょう。

 

 叛逆の物語の最後の方でさやかが「恭介や仁美にまたおはようっなんて言えるなんて、それだけでどんなに幸せか、あたし想像もしてなかったんだなあってね」と言って涙を浮かべますね。ささやかな事が、普通の毎日がどれだけ幸せなのかと気が付いた。

最後ほむらが赤いリボンをまどかに返します。これは決別ですね。もう一緒では無いと言うのです。

そして言う「やっぱりあなたの方が似合うわね」と。

自分のリボンは見えない。だから似合うも似合わないもない。しかしまどかに付けたリボンは似合うと分かる。見えるのです。見える存在としてまどかがいる。そしているからこそ「似合うわね」と言えるのです。言える存在としてまどかが目の前にいる。

この時ほむらは涙を浮かべる。これはさやかと同じです。さやかと同じ気持ちなのです。

世界を書き換える力を得たほむらが望んだのはこの程度の事なのです。

病室のベットから窓を見ていた少女が思い描いた夢なんて、この程度の事だったのです。

 

じゃあもうこれでいいじゃないですか。

変なカラスの様な生き物が飛んでたり、不気味な子供もどきが走り回り、靴脱いだりトマト(ザクロかな)投げたりして時にびっくりするかも知れませんが、そんな事なんて人生にとったら取るに足らない事なのですから。