『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』 の考察です。
そして『Zガンダム』の事も書こうと思います。
ネタバレです。ちなみにZガンダム見てません。
無限ループにおちいったが、抜け出す正解を見付け、過去に戻りそれを実行する事でトゥルーエンドになる。そんなアニメやゲームがありますよね。
それをリアルな世界でやってのけた人間が 富野由悠季 その人だと言う話をします。
「物語を終わらせる」話です。
「ガンダム」を作ったのが富野さんですね。そして「Zガンダム」を作ったのも富野さんです。
「ガンダム2」ではなく「Zガンダム」なのは、「ℤ」が付いてこの後はもうない、終わりであると言う意味です。つまり富野さんは「ガンダム」を終わらせに来たのですね。少なくとも作り始めはそう思っていたはずです。
見ている人に「いつまでもガンダム言ってないで現実世界に戻れ」と言う意味と、製作者にも「ガンダムではなく自分の世界を自分で作れ」と言いたかったのでしょう。
それをする為に、もう続かないようにと皆キャラクターを殺していきましたね。
そして主役カミーユも精神崩壊して終わります。
これで物語は続かず、終わるはずだと思ったのでしょう。
しかしこれが無限ループの始まりなのだとこの時は気が付かなかった。
ここで間違え失敗した。この事は富野さん自体も思っていたように感じます。
私は「Zガンダム」を見てませんが、それでも最後カミーユが精神崩壊すると言うのは漏れ聞こえてきてました。だからこの話が嫌いで見る気にもなれませんでした。
しかし劇場版でエンディングを変えていた事を今更知り、私の考えもあながち間違いではなかったのだと思えてきました。
富野さんがやったのは、昔の軍人みたく殴り掛かったのだと思います。
カミーユの精神崩壊などの事は象徴的に言うと、殴り掛かり「ここから出ていけ!」と叫んだ事でしょう。
そしてどうなったかと言うと、多くの人はトラウマになったのです。
トラウマにならなかった数少ない人達は「よくやった」とほめた。これでいいんだとほめたたえたのです。
これはコミュニケーションの問題です。昔の人はコミュニケーションを軽くみてましたね。間違いです。
親の間違いを攻めながら自分もそうなる子供のようです。虐待を受けたら虐待をする大人に育つようなものです。受け継がれていく呪いの様なものなのです。
「Z」なのです。富野さんはガンダムを終わらせたかった筈です。ここから子供を出て行かせたかった筈です。独り立ちして自分で生きて行けと言いたかった筈です。
しかし逆に捕らえてしまった。心を捕らえてしまったのです。トラウマになり心に残ってしまった。ほめたたえた人達も崇めてしまい、同じく捕らえられてしまったのです。
ここで選択を間違えた。これはバットエンドです。カミーユのバットエンドであり、富野さんのバットエンドなのです。
その後は? ここからはお約束です。無限ループの始まりです。「ガンダム」の無限ループが始まったのです。毎回少しずつ世界は変わるが、全て「ガンダム」であり、そこから抜け出せず、ずっと「ガンダム」をループして作り続ける事になります。富野さんも他の捕らえられた人達もです。皆おかしいと気が付かないが、全ての人のバットエンドなのです。
その中でもループしてると気が付いた人が「ガンダムX」などを作り終わらせようとするが、上手くいかず呪いに飲み込まれて打ち切りで終わりです。やはりバットエンドだったのでしょう。
そして20年後、チャンスが訪れます。「Zガンダム」劇場版の制作です。
やり直すチャンスです。あの時に戻り選択を選び直すチャンスが訪れたのです。
ここで選択を変える。昔を変え、未来を変える。「Zガンダム」のエンディングを変えたのです。
カミーユが生き残る、と同時に精神崩壊しません。そしてファとイチャついて終りです。「なんだこれ?」と思ったでしょ? でもこれがトゥルーエンドに向かう唯一の方法だったのです。それに気が付き、直すまで20年かけてやってきた。シュタインズ・ゲートですよ。中二病が答えだったのです。
これだからこそトラウマになった人々を解放出来たのです。カミーユが壊れずトラウマも無くなり気にせず生きていけます。
前の精神崩壊が良いと思っていた人はどう思ったのか? 「つまらないな、じゃあもういいか」と思った事でしょう。イチャつくカミーユを見て「はいはい」と思った事でしょう。そしてこんなエンディングをする富野さんを、崇めていた気持ちも無くなっていった事でしょう。
それが狙いです。親は子を捕らえてはいけない。家から出さなければならない。ニートにナシをむいてあげてはいけないのです。
その為に親がする事は、かっこよくなくても認めてもらえなくても、子の為に子の心を解き放ち、自立して家を出て行かせる事だったのです。
これがトゥルーエンドです。
ここでやっと皆を解き放ち、これで富野さんは救われたのです。
トゥルーエンドなので終わりです。だからダブルゼータにはつながらないのです。
では「まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語」はどうだったのか?
私にはこれも終わらせようとしたと思います。
そう、「叛逆の物語」は「劇場版Zガンダム」ではなかったのか?
私は前に「まどマギ」は男の娘の物語であるが、そればかりか始めから男と女の逆転してる世界だと言いました。だからまどか達は皆男の心を持っています。
第一話でまどかが鏡に映っているシーンがあります。合わせ鏡は何度も世界を繰り返してるメタファーだとして、ただまどかがアップで(合わせ鏡ではなく)普通に鏡に映っているシーンは何か? それは見てる人達(男達)が鏡を見て、映って見えるのがまどかだと言っているのです。なのでわざとです。
しかしテレビ版の最終話のまどかのお母さんは女っぽくなっていますね。世界が変わり男女が元に戻ってきてるのかもしれません。
これは今一分かりにくいのですが、劇場版はもっと分かりやすくなっています。
まどかの家でお母さんが出てくるシーンです。これはテレビ版と同じ事をしているのでとても分かりやすいですね。
絵が違うのは、映画にするにあたり奇麗にする等あるので気にしないとして、でも同じシーンで音を変える必要な無いですよね? 音を取り直したとしても少なくともしゃべるトーンを変える必要はない。
母が家を出る時「おっし、じゃ行ってくる」の「おっし」がテレビだとドスがきいていますが、映画版はおさえ目になっています。
私にはこれはヒントに見えます。母が女に戻ってきている。つまりこの映画にも男の娘だけではなく女が戻ってくると暗示しているように見えるのです。
物語で、ほむらがまどかの心を知ってしまう。まどかは望んでいたわけでは無く、皆の為に神の様な存在になったのだと。
そしてほむらは叛逆します。社会がどうとか世界がどうとか他人がどうとかでは無く、まどかを幸せにする事を選ぶ。自分の幸せを選ぶ。実態を持ったまどかと自分の幸せな生活を選ぶのです。例え世界を敵にまわしてもです。悪になってもなのです。
これこそ女の発想では無いでしょうか? ほむらは女になったのです。中二男子から女になったのです。
男の世界の男の物語において、一番強烈で強大な敵、女になったのです。
この物語の叛逆はほむらの叛逆ではない。製作者のテレビ版「まどマギ」を支持してきた男どもへの叛逆なのです。女を出す。そして男の理想の世界を壊してしまう物語なのです。
見てる男達の鏡の存在、まどかを神から引きずり落とします。実世界に帰って来いと引っ張り戻すのです。神がなんたらかんたらと男の前で演説している夫に対して「それよりも家の為にやる事があるでしょ? 一度家に帰って」と妻に言われ「みんなすまない。一度家に帰るわ」と言って家に帰ってくる男のようです。釣りだゴルフだアニメだと言っている男どもを家に帰らせて、燃えるごみを捨ててこいと言うのです。
この腹が座った怒った女は手に負えません。論理的な自論を並び立てる敏腕プロデューサー、キュゥべえさえもボロボロにされてしまいます。
そしてこの女は神になった男、まどかと同等以上の存在にもなれたのです。
ほむらはもう、例えどうなろうが自分達の幸せのみを願う女の存在。悪と言われてもかまわない女の存在です。
しかしこれこそが自然であり、リアルであり、人の世界であります。
これが人が生きる世界で、人の目線なのです。
白と黒が半々でなおかつ一緒の所にいる世界です。男と女がいる世界なのです。
これはペンギンでは無いですか? ここにたどり着いたのですね。
ほむらの選んだ世界、それは対立も生むでしょう。災いも生むでしょう。しかし新たな世界のまどかは触れられる存在なのです。心の中にいる友とは対立もしない変わりもしない、しかし触れられないのです。それは女の世界ではないと同じなのです。それと同時に人の世界ではないと同じなのです。そしてこれは「Zガンダム劇場版」の最後のカミーユとファでは無いのか? ここにもたどり着いたのです。
中二男子から実世界に生きるようにと女につれ戻された話なのです。これが人の生きる世界では無いのでしょうか?
確かに月は半分になりましたね。テレビ版の最後の月はもちろん満月で完璧です。まどかと一緒になり、円環の理としても完璧なのでしょう。男の中の理想の存在ですね。
しかし劇場版の方の半分になった月はリアルですね。本物です。例え片方になってずっと一緒にはいれないとしても、もう片方と同じ存在であり、触れられる可能性がある存在なのです。
最後のエンディングロールの歌。ほむらとまどかですね。白と黒の存在ですが同等の立場なのです。例え左右分かれていたとしてもです。そして最後手をつなぎます。そして向こうに一緒に走っていきます。そして円く一つの円になる。これがほむらの望んだ世界ですね。神の世界ではなく、人の世の世界なのです。人として人目線で一緒に生きていこうと言うのです。
「物語を終わらせる」話なのです。
死んださやかが生き返ります。まどかも帰ってきます。ほむらも救われました。
これで見ている人のトラウマを消し去ったのです。
だからマミを殺して皆の頭にこびりついたあの魔女が出てくるのです。かわいい女の子になり、魔女になる前の少女として生き返り、マミと仲良くなる。これでトラウマを消し去る。
つまらなくはなりましたね。とげがなくなりました。でもいいのです。
もう分かると思いますがこれは「Zガンダム劇場版」と同じなのです。皆をトラウマから解放して、心を解放して終わらせたのです。
「まどマギ」も「ガンダム」の様に、ほむらの様に、無限ループにおちいる可能性がありました。
まどかの様に「ガンダム」もループを繰り返すほど強大になっていきました。もうまどかの様に誰かが犠牲にならなければ解決しなかったのです。だから富野さんが解決した。「つまらないのを作ったな」と言われても解決しなければならなかったのです。
「まどマギ」は無限ループに入る前にトゥルーエンドに達しました。流石ですが、これは先人たちの知恵もきいていたのでは無いでしょうか? 富野さんの犠牲も無駄ではなかったと思いたいですね。
「まどマギ」もトゥルーエンドなので続かないのです。今の所はね。
言い忘れてたのでここで言っときます。[新編] 叛逆の物語は良く出来てましたね。よくぞまとめ上げたと思います。しかも前に進んでいます。神の話より少し前に進んでいる。そしてちゃんと終わらせています。意外と終わらせるのは難しいですからね。
絵もすごいですね。私はクールジャパンと言う言い方は嘘っぽくて嫌いなのですが、これはそんなかっこつけた言い方をしたくなるような出来でしたね。
そしてサービスも忘れていません。楽しませる事も忘れていない。
しかも続くかのような終わり方です。これは大人の事情だと思いますが、それが大人の世界です。そこにも気を使い、しかし裏では終わらせている。大人の締め方なのです。
何か日本のアニメに未来があるように見えましたね。良かったです。
そして「Zガンダム」です。
[新編] 叛逆の富野 と言う物語は、現実と虚構の入り混じった物語です。無限ループから抜けだした富野さんの物語です。20年かけた、とても複雑で難解なループ物でしたね。現実は小説より奇なり、とはよく言ったものです。
(さて蛇足です。ニコニコ動画でヤングサンデーと言うのがあり、そこのしみちゃんと言う人がまどマギ劇場版の感想で「今回は歌の「北酒場」では無いのか?」と言っていて皆を笑わせてましたね。私も「きてるなあ」と思ってましたが、実はあっていたのです。一番は「長い髪の女が似あう」と歌い、二番は「涙もろい男が似合う」と歌います。男と女が同等であり半分なのです。猪木ボンバイエは「やっちまえ」と言う概念の音楽です。歌詞があるわけではない。しかし「北酒場」は歌詞がある。人の目線の人の物語であり男と女の歌なのです。つまり正解だったのですね。びっくりですね。現実は小説より奇なりですね)