アニメ映画「竜とそばかすの姫」感想です。ネタバレです。
うーん? どうなんだ?
たぶんこの監督の、根本的な問題点が浮き彫りになった映画な気がしました。
脚本も細田監督自身ですね。知らなかったのですが最後脚本も細田監督とエンドロールで出て「なるほどね」と思ってしまいました。
そしてネットの感想で「脚本誰か他の人にさせてくれ」とありました。私もそう思いました。
前作の「未来のミライ」は尖った作品なので、監督が脚本でもいい気がします。
しかし今回は普遍的なよくありそうな内容なので、上手い脚本家に任せればよかった気がします。
もちろん監督なのだから、気に入らない所は「直すよ」と脚本家に言って、OKが出た人を採用すれば良いと思います。
では何が悪いの? ですが、これもネットで皆が言ってる様に、細かな所が雑に見えるからです。
なんで女子高校生を一人で東京に行かせるのか? 訳が分かりませんね。
リアルな世界を描く物語で、ほぼ現在の日本にするのだから、そこに現実離れした感覚を入れた時点で、客にとってノイズなのです。ノイズは邪魔なだけなので、入れるべきではない。
すずが竜に妙に共感してる所も弱いです。
たぶん自分の昔にどこか似ていると、深層心理ですずが感じ取ったからだと言いたいのだと思います(両者とも母がいない)。しかしそうならもっと分かりやすくするべきですね。
母が無くなった直後のすずは、学校で暴れたり壊したりしたとかね。
最近、Youtubeで細田さんが高畑監督の事を話している動画や、富野さんと話している動画を見たりしました。これを見ると細田監督はよく考えている人なのは分かります。
だとすれば、よく考えられ練られているが、分かりやすい大きな問題点も同時にある人なのかと思います。
もしくは考えすぎで、ドツボにはまっているかです。
「時をかける少女」を高畑監督に「背景描きすぎ」と言われたようです。
確かにそうだと思います。これでは背景にキャラが埋もれてしまい、客の集中力が散漫になりがちです。だから何が言いたいのかが分かりずらい物語です。
なのに、今回もまた背景描きすぎでしたね。これは何なのか? たぶん考えがあるのでしょう。
妙に俯瞰の絵が多いですね。映画で大画面だから、と言うのもあるでしょう。
それともしかしたら? と思えたのが「花とアリス殺人事件」と同じで、背景を見せたいのかです。あくまでキャラは記号なのかもしれません(そう言えば、細田作品もほとんどキャラに影を描きませんね)。
つまり人形劇の人形みたいなものです。人形劇が表情も変わらず雑な間接の動きしか出来ないに、あれで成立するのだから、あれでもありなのでしょう。
キャラをあいまいにする事と、背景はリアルにする事で、あくまで見てる人が自分と重ねれる様にしてるのかもしれません。
もしくは自分がちょっと遠くからこの子らを実際見ている様にしたいのかです。アメリカでよくあるリアルショーみたいな感じです。
どっちにしても、あくまで見ている自分自身が主役なのだと言いたいのかもしれない。
ただそうすると、なぜすずの幼馴染がイケメンなのか?
ルカもイケてる友達です。カヌー男も、実は大会に出れる、出来る体育会系です。ヒロちゃんも妙に出来るハッカーの様な友達です。
つまり良く出来過ぎている。
その上ダメなキャラの筈の主人公すずも、歌が上手く曲を作り皆を感動させられる、スーパー女子高生ですね。
これのどこにのれと言うのか?
たぶんすずのダメさ加減を強調する為に、周りを良く出来た人にしたのだろうけど、これだとバブルの時のトレンディドラマです。
つまり見ている人が自分と重ねては見れない。
もしくは、遠くで実際見ているような感じだとしても、それでも辛いですね。そこにいるダメな奴は歌の上手いすずではなく、見ている客自身になるからです。
「時をかける少女」は「時間を巻き戻せたら何をしようか?」と客自身が自分と重ねて夢見る事が出来ます。
しかし「竜とそばかすの姫」では客はすずにもなれないし、もちろん周りのイケメン連中にも相手にされなさそうだとしか思えない。
つまり失敗です。
たぶん始めはすずを見せて「何か取柄を見付けろ」とか考えがあったのだろうけど、それらが空回りして結果ノイズにしかなってませんね。
他にもキャラの感情の描き方が上手くない。
まずは幼馴染、良く出来過ぎている。あんな高校生いないって。このキャラだけでも、もう少し普通にしとけば、ずっといい話になったとみてます。
例えば、普通なのにいざと言う時だけ真顔ですずに「素顔で歌うしかない」と言わせれば、普段があまり良くないだけに格好良く見えるものです。
すずも好きなのが学校一のイケメンじゃなくて「まあ普通、だけど子供の頃から助けてくれた」だったら、これも全然いい話に見えた筈です。
ルカもカヌー部も必要性が良く分からない。ルカも美人だけど何か抜けている子にするとか、カヌー部も勢いだけで他には何もない奴に徹するべきですね。
父は特にひどい。娘が一人で東京に行くのを放っておく。追いかけろよ。
ヒロちゃんは、まあいいかな。誰かひとりすごいハッカーの友達がいました、としないと逆に嘘に感じますからね。
竜もキャラが弱い。クリオネを大事にしているのは良いが、たぶん弟でしょ? そうじゃなくて他人に優しさを見せればいいキャラに見えたのに。
すずを助けるのが竜のAIでしたね。あれは竜自身の方が良くないかな?
最後、子供を助けに東京に行く。
何て事のない町中で見つける、盛り上がらない場面です。
私がこうなるのかな? と思ったのは
ここですずが危なくなるが、竜の存在もすずの存在も分かったネットの人達が実際に集まってくる。ヒロちゃんが情報を流したりして。そして実際の人達に父が囲まれて助かる、となるのかな? と思っていたら、何もなかったですね。
あそこは逆にあまり盛り上がりさせず、リアル路線で行きたかったのかとも思いましたが、ちょっと地味だったかな?
とまあ、脚本の細かな部分が雑でしたね。
だからこそ脚本の人が必要だったと思います。
そして良ければ採用して、いやなら「それは変えてくれ」と監督が言えばいいじゃないですか? 人の才能には限度があるので、出来ないのなら素直に誰かを雇うべきです。
ただ大枠は良かったと思います。
すずが正体を見せて歌う所とか。
でもなら、なぜ最後にアバターの姿に戻ったのか?
まあせっかくアメリカで作ってもらったキャラなので、最後出しとくかって事だと思いますけど。
いっそ両方いっぺんに出すとかのトリックを、イクニさんなら使うでしょうね。
竜の正体も子供で良かったです。
ただそうするなら、さっき言った様にすずとあの子供との接点を付けるべきでしたね。
もっとすずが自分とあの子供を重ねて見れるようにすべきです。
もちろん、そうすると「なんの関係もない子供を助けた母」と同じ行動にならず、だからしなかったのでしょう。
でもだからこそ考えすぎですね。もしくはもっと練るべきです。
そう言えば母が助けた子供、後で出て来るかな? と思っていたら出て来ませんでしたね。時間の長さの関係と、他の内容から出すとブレそうだから、出せばいいと言う訳では無いですけど。
東京も皆で行く方が良い。
そしてはっきりした場所は何処かは分からないので、手分けして探す。
そしてすずの元に電話でもあり、すずが一番近くにいたので一人到着する、って言うのでダメだったのでしょうか?
まあ、とにかく大枠は良かっただけに、細かな設定が残念ですね。
この監督は毎回そうですね。
たぶん何処かで、そこはどうでも良いと思ってはいないのかな? と思います。
違います。細かな設定こそが、客が見てられる作品になるのかの分岐点です。神は細部に宿るものです。
嘘のものだからこそ、客がノイズにならない細かな配慮が大事なのです。
そしてそれが上手いのが宮崎駿さんです。
私は「今回こそは」と思い見ましたが、まだジブリの呪いから解放されたようには思えませんでしたね。
宮崎駿さんに比べそん色がない物を作れた時、その時こそジブリの呪いから解放されるのでしょう。
2021年7月20日、追加
私が気が付いた事では無くて、ネットで誰かが言ってた事です。
なるほどと感心したので言います。
「虐待の竜の父は暴力をふるってない」と言う事です。
なるほどですね。映像でも直接子供に触れて無いですね。
父がやってたのは言葉の暴力です。
言葉だけで大人でも傷付きますし、子供はもっと傷付きます。
言葉だけだからこの父は子供虐待で捕まらないのですね。証拠が無いから。
そして父は体を鍛えてますね。臆病なのです。だから強い男を装っている。
そしてすずにあった時も脅すのみでしたね。暴力をふるえる人でも無いのです。
だからすずの顔を傷つけ、それを見た事により恐怖が出て来る。
これで警察にでも捕まるのじゃ無いのかと、怯えていたのです。
これはネット社会の事を表してます。
「言葉だけでも暴力」なのだと言う事です。
それだけで、人は傷つけられると言いたいのです。
なるほど。良く出来てましたね。
分かりずらいので、良くはないですけどね。
そしてだからこそすずが一人で東京に向かう事を皆が認めるのです。
実は竜の父は暴力をふるう人では無いからです。
つまり物理的な危険はないだろうと言う事です。
ただね。これは監督の頭の中での情報ですね。
普通はそれでも、父は直接暴力も振るう人かもしれないと思う筈です。
だからやはり上手くはないですね。
ここも「客がどう思うのか? どう見えるのか?」が足りないと言う事です。
監督は出来上がった脚本を、誰かに見せて聞いたのでしょうかね?
その「自分で閉じこまらない」事が大事だと、気が付いたのじゃ無いのでしょうか?
ジブリで失敗した後にです。
あの後、誰かに聞いた方が良いと、気が付いたのじゃ無いでしょうか?
それをやったのか? はなはだ疑問です。
やはり同じ呪いにまだ捕まっている気がします。
人は大きくは変わりませんからね。どうしても同じような間違いをしがちです。
「世界を変える」事が必要なのは、監督自身だと思います。
2021年7月22日 追加
書く事が少しなので、またここに追加します。
ネットで誰かが言ってたのは、カヌー部は他人に何を言われようと我が道を一人で進む役だそうです。
なるほどね。
だとすればルカも同じで、美人で才能があるけど自分の意思を通して、誰にも好かれない人でも好きな人は好きだと言える人だと言う事です。
そして幼馴染も含め、皆ネットなどの他人の意見に流されない人々、と言う事ですね。
言いたい事は分かるけど、分かりずらいので、そこを言いたいのならやり方が上手く無いのです。
「彼は誰?」としつこくすずは言う。
なぜ彼の正体をしつこく知りたいのだろう? と思っていました。
「彼」つまり「竜」は、「自分」すなわち「すず」なのですね。
すずは母の事で、言いたい事や疑問やわだかまりがあるが、黙っていた。自分が我慢して黙っていればいいんだ、と思っていた。
ここが竜と同じです。母がいないのも同じです。
だから何か同じ物を感じ取ったのでしょう。
始めは漠然としたものだったかもしれませんけど、段々やはり自分に似ていると思ったのでしょう。
竜の方もなんとなく感じ取ったのでしょう。自分と同じだと。
「彼は誰?」と言う問いの、本当にすずが気になっていた事の答えは「彼は自分と同じ」と言う事です。
この物語はすずが自分を救う話です。
その他にも二重の意味があり、赤の他人を救う話でもあります。
だから他人の為に死んだ母の行動と、自分を重ねる事が出来るし、母の行動を理解し許せたのです。
さらに「赤の他人を救う事は、自分を救う事と同じだ」と言う事にもなります。
これは綺麗事ではありますが、人によればそう言う事です。
もしあそこで見捨てたら、一生自分を許せない、そう言う事もあるのです。
そこから、他人を救う事が自分を救う事だと思えれば、ネットで他人を痛みつける事もないだろう、と言う事です。
最後にわざわざリアルな人が出て来るように、ネットの裏にはリアルな人がいる事を理解する事が大事だ、と言いたいのです。
ネットだとどうしてもリアルさが無くなる。だからリアルな痛さが感じられない。
だからこそ、リアルと直結してるのだと言う「想像力が大事だ」と言いたいのでしょう。
やはり大枠は良く出来ている。
そして考えられている。
だからこそ、やはり細かな所が残念です。
どんなによく考えれば良く出来ると分かる物語でも、伝わらなければ意味が無い。
細かな事が気になり、物語を見てられ無くなれば、そこで終わりです。
逆に感動できれば、何年も何十年も覚えてもらえる。
その中のメッセージがたとえ少なくとも、覚えてもらえると言う事は残ると言う事です。
心に残らない物は、その時はためになっても、何も残らないのです。
だからこそ、宮崎駿さんが正解です。例え高畑さんに文句を言われようとも、昔の宮崎さんの方が物語としては正解なのです。
皆の心に残る。ただそれだけで、昔の宮崎駿さんの物語には誰にも勝てないのです。