号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

寺山なら何にトライしたでしょうか?

寺山修司が亡くなって40年だそうです。

だから何かイベントでも無いのかな? とネットで見てみたが、何処かさっぱりしませんね。

寺山の演劇をやるとかはあるようだけど、基本見に行く事は無いだろうから、私には関係がないのです(みたら、実は面白いのかもしれないけど、寺山がもういないからなあ、と言う気持ちが出て、私には乗る気になれないのです)。

 

そうしてネットで出て来たのが「TRY48」と言う小説です。

もし寺山が生きていて、アイドルをプロデュースしたら? ってな話だそうです。

なるほど、ネタとしては良い所を付いていきますね。

 

しかし私は読んでません。

読む気もありません。

なぜなら寺山はもういないからです。

寺山が生きていたとして、その行動を予測できる人など、いる気がしないのです。

 

この小説は、どうも良く出来ているようです。

そもそも「本当の寺山ではない」など分かっていて作られている作品なので、それで文句を言うのはお門違いです。分かってます。

「寺山っぽいなあ」と思いながら、楽しんで読むのが正解なのでしょう。

 

しかしです。良く出来ていたとして、「寺山っぽいなあ」と皆が思った作品に出来ていたとしたら、それはどうなのでしょう?

それは「上手く再現されている」と言う事でしょう。寺山を再現するにも難しそうなので、それはよくやったって事にはなるのでしょう。

 

では、「何を」再現されているのか?

皆が「寺山っぽい」と思うのは、47歳以前の寺山の事です。

だから「寺山っぽい」と皆が思った時点で「現在まで生きた寺山」な訳がないのです。

 

気に入らないのは「昔の寺山っぽいのを再現出来たら、今の寺山を再現できる」と思っている事です。ちょっとなめてます。

もし生きていたら、47歳以前の寺山と同じ事を言い、同じ事をして、同じ価値観で、同じような何かを作る訳が無いのです。

 

これはジレンマです。

読む人には、寺山っぽく見えなければならず、しかし寺山っぽければ、それは生き抜いた寺山ではないのです。

 

では寺山なら今どうしてたのか? 何を言ったのか? そんなものは誰にも分からない。

だから正解が分からないのです。

もし神がいて生き抜いた寺山を再現できたとして、それを小説にしたとしても、読み手は「寺山っぽくないなあ」と思う事でしょう。

だから、どだい無理なのです。

 

寺山の死後、面白い事をやった人って誰なのだろう? と思う事があります。

結局、寺山の後釜なんて、誰もいなかったのじゃないのかな?

部分的には、イクニさんとかがいるし、他にも部分的な後釜はいるのかもしれません。

しかし寺山自身の後釜はいない。

 

まあ、後釜を育てないで亡くなって行くのが、昔の人ですね。

それで正解だと思っている世代です。

この事は気に入らないので、生きていたら問い詰めたいのですが、寺山は生きていたらどこかで気が付いた気もするのですが、どうでしょうか?

 

市街劇などをやったようで、それは面白そうだなあ、とは思います。

しかし、現代では無理でしょうね。少なくとも昔と同じように、しかも日本だと無理です。

後は外国でやるか、もしくは限られた中でやるかです。

つまり公共的な街中は無理で、どこかのテーマパーク内とか、何処かの街おこしとかでの街中限定でやるしかないでしょう。

「いや、寺山なら、勝手に街中で今でもやったよ」と言う人もいるかと思います。

もしかしたらそうかもしれません。しかしだとしたら、やはりその寺山とは討論したいですね。間違ってますよと。

 

私が最近思ったのが「コスプレは面白いなあ」って事です。

二次元なのに三次元に出てきてます。

それよりも面白いのが「皆、自分が主役になっている」事です。

劇は見せる事です。市街劇では劇場を飛び出し、生活の中で見せる。

しかしそれでもまだ線がある。劇団員と、見ている人達にです。

しかし「コスプレは皆が主役になる行為」です。だから面白く、可能性を感じるのです。

だから、私が思うのは「寺山が生きていたらアイドルをプロデュースした」よりも「コスプレ関連などの、見ている人達さえも取り込んでしまう、何か」をやろうとしたのでは無いのか? と思うのです。

 

とは言っても、寺山が生きていたら、たぶんアイドルもプロデュースして、アニメも作った事でしょう。

しかしもっと「そんな事をやるのか?」と言う物に挑戦したと思うのです。

所詮今の人が思う「寺山が生きていたら、こう言う事を言い、こう言う事をやった」と思う事等、寺山がやりたい事ではないと思うのです。

 

寺山の後釜がいないのに、寺山の行動を予測するなど、おこがましい、と思います。

だからせめて「死にかけた寺山を凍らせ、今現在によみがえさせた」って小説にしたら、せめて良かったのだと思うのです。

え、それだと話が嘘っぽいって?

嘘なのだから、いっそ嘘っぽい方がいいのです。

 

ちなみにですが「寺山修司40年目の挑発」と言う映画があるようです。最近の映画です。

これも今寺山が生きていたとしたら、到底やったとは思えません。

寺山ならせめて、同じ内容をウクライナでやった事でしょう。

せめて、それ位出来ないのなら、寺山の名を出さない方がいいでしょう。恥をかくだけです。

 

寺山は亡くなりました。

寺山自身だけではなく、寺山要素すら道連れで亡くなりました。

寺山が生きていたら、この事で文句を言いたかったと、私は思います。