号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

ドン・キホーテはモーセをどう思うのだろう?

映画「プラットフォーム」見ました。

感想、考察、ネタバレです。

 

2019年、スペインの不条理シュチエーションホラーだそうです。

面白そうだけど、気持ち悪いようだと言うので、今まで見ませんでした。

見た結果は、やはり気持ち悪い映画ですが、まあまあです(良く出来ているけど、感動しないので、結果まあまあだと言う事です)。

 

まずは表の話から、この世界が本当にあると信じて、分かりづらい所を、個人的に考えてみます。

 

この施設も映画「キューブ」と同じで、始めは違う理由で作られたのでしょう。

その後、色々思惑があり、少しずつ使い方やルールが変わってきて、最終的にこの訳の分からない施設になったのだと思います。

そして、もはや誰も理解してない施設になった……何て事は実際にもあるので、面白いですね。

 

更生施設から刑務所になり死刑施設になったのか? もしくは逆からなったのか? 分かりませんが、そんなものでしょう。

始めから殺す施設だったのかは、謎です。

ただ、例えば死刑がない国になったが、殺したい人を殺すために、元は更生施設だったのを、自分達で殺し合う施設にしてしまい、それで死刑にしてるのかも知れない。

 

主人公は、間違って更生施設だった頃の名残から間違って入ったのかも知れないし、殺したい誰かにそそのかされて、来たのかも知れない。

 

ネットで他人の考察にあったのですが、最後の髪の長い男の子は、この施設で生まれたのでしょう。

 

では、どうなるか?

 

多分この施設内は、治外法権的な場所であり、法律が通じないか、独自なルールがあるのだと思います。

だから、人を殺しても捕まらない。

捕まらないけど、ここにいるという事は、もう捕まっているような物です。

それに殺しをすると刑期が長くなって、出られなくなるかも知れない。

だから、あの子供を探す女(ミハル)が、子供が生まれてから何年も経つのに、出れないのかも知れない。

 

子供の話に戻るけど、この治外法権的な場所で生まれてしまったから、管理者がどうして良いか分からないのでしょう。

他の人達と同じようには扱えないし、だからと言って、この国籍も何もない子供を外に出す、と言うルールもない。

だから、しかたなく「置いとく事にした」のでしょう。最下層の333階に。

(管理者と言っても、清掃係とか下の位の人です。だから権利もない。もしくはAIロボットなどが自動で清掃などをしているのか? です)

 

だからミハルは毎回降りるのです。食べ物を持って。

 

子供が毎回下に降りて隠れている可能性もありますが、333階が最下層だと分かるわけがないので(だから普通はもっと降りてしまう)、たぶん始めからいたのでしょう。

 

最後、主人公(ゴレン)が下に降りる時、どうも下の方は人が少なすぎた気がします。

殺して食べたとしても、一人はいるはずなのに、一人もいない時が多すぎる。

一つは、下の階すぎるともう諦めて穴に飛び降りる。

しかしもっと可能性があるのが、ゴレン達みたく台に乗って下の階に進むことです。

だとすれば、いない部屋があっても良いのですが、それでも多すぎる。

だから、たぶん下の方は、人の数により使ったり使わなかったりするのだと思います。

ゴレンもそうだし、トリマガシ(老人)もそうだが、202階が最低でした。333階全て使われていたのなら、もっと下があってもいいのに無かったです。これも下の方(250階位から下)は、あまり使われて無いのだと思います。

だから最下層333階は、まず使われないので、空き部屋になっていて、子供の置き場所になったのでしょう。

 

333階で、食べ物を残しても、部屋が熱くなったりしなかったのは、333階だけ特殊でそうだったのか? もしくは、そもそも使われてない下の階は、食べ物をおいてても、反応しない部屋だった可能性があるのです。

下の方の階は食べ物が残ってないから、そうであっても誰も気が付かないのでしょう(わざわざ食べ物が残ってる階から食べ物を持って降りる奴なんか、いなかったからです。ミハル以外)

 

さて、下の方の階の奴らは、食べ物が来ないのが分かります。

だから、相手を殺すか、自分が死ぬか、一ヶ月耐えるか、もしくは台に乗って降りるかです。

降りるやつが多いと思いませんか? 多かったと思います。

では、最終階の下まで行くと、どうなるか?

たぶん、死ぬのでしょう。殺されるのか?

 

最後子供が寝てたのが大事ですね。

皿は上に戻すが、人は落とすように、台の上の方は、単純に何かで押されて落ちるのかもしれない。

で、台から落ちたら(自分から降りても)電気ショックかなにかで死ぬのでしょう。

ゴレンは下まで降りたけど、トリマガシと一緒に歩いていた。つまりもう死んでいて、最後の下の映像は象徴画であり、本当の映像ではないですね。

だから一番下がどんな場所かは、誰にも分かりません。

しかしたぶんですが、死体が沢山あったのでしょう。

 

子供は最後一番上まで行きます。

一階から下の階は治外法権でしょう。

しかし0階は法律の中です。スタッフが料理を運ぶ場所だから、ここは法律が通っている。

 

この世界では、ちゃんと子供は大事にしていると言っています。

イモギリ(元職員の女)が「この施設に子供は入れない」と言ってたので、子供の扱いはちゃんとしていると、しっかり伝えているのが上手いですね。

だから、法律の世界に出てきた子供を見付けたら、法律にそって対応しなくてはいけないのです。

下の階に戻す訳にはいかないし、下の施設にいたミハルの子供だと分かったら、親がもし犯罪者であっても、国民の子供なので大事にされるはずなのです。

 

では、この子供が今後どうなるか?

たぶん下の世界をしっているので、その事を誰かに話すのです。

そして世間に知らせ、下の人達を救うことでしょう。

でも、たぶんそれは、この後の数年後になる。

つまりこの子が大人になったあかつきに、皆を導く救世主となり、人々を救う事になるのです。

そしてその後は?

しかし権力者等に、うとまれ始めます。

そして最後にはplatform(高台)の上で、はりつけにされ、死んでしまうのです。

この高台は、後世に「ゴルゴダの丘」と呼ばれる事になるでしょう。

 

さて、この映画の暗喩のことです。

この映画は、物語としておかしくありません。

おかしな所に暗喩はある。

だから大きな暗喩は入っていません。

なので、私には管轄外です。面白くないので、探す必要がない暗喩なのです。

 

なので、ネットで探しました。

koda-wari.comって所の考察が「なるほど」と思えました。

だから私が書く必要もないですが、少し考えが違ったので、違いを書こうと思います。

(ちなみにこのウェブサイト、始めに「徹底考察」と書いてあります。徹底考察と書いてあるサイトに、参考になったことが書いてあったことがないので、これは「見る必要がない」と言う暗号かな? と思っていました。しかしここは私では気が付かなかった事も書いてあったので、なんでも例外ってあるな、って思った、という話です)

 

このサイトで一番参考になったのが「最後の子供は、エジプト神話のホルス神の子供の姿ハルポクラテスだ」という所です。なるほどですね。

wikiにもありますが「子供の姿であり、沈黙の神であり、生まれつき足が悪かった」そうです。まさに映画の最後の子供のままですね。だからあっているでしょう。

ちなみに、この子がロン毛だったのは、ホルス神の姿が、ロン毛のように見えるからだと思います。

 

映画には犬が出てきましたが、名前は「ラムセス二世」でしたね。

犬はミハルに殺されます。なぜ殺したのか?

たぶん、肉を子供に持って行きたかったのでしょう。

だとしたら、人ではなく、犬を殺す分まだマシな気もします。

犬がいなければ、人を殺すのでしょうけど。

 

私には、犬とラムセス二世に、別の意味が込められていると思っています。

エジプトで犬と言えば、アヌビスですね。

そしてホルスと同じで、オシリスの子です。

この映画では「食べると同一化して、もはや同じだ」と言います。これがしつこくて、なんだろう? と思っていたのですが、たぶんヒントです。

ミハルは犬の肉を子供に持っていった。だから子供は食べた。だからアヌビスと同じ要素があるのがこの子だ、と言うヒントだと思います。

 

ではラムセス二世はどこに係っているのか?

 

その前に、koda-wari.comでは主人公ゴレンがキリストだろう、と言ってます。しかし私は違うと思います。

 

私が映画を見ていて、エジプトとキリスト教が係っていると気が付き、頭に浮かんだのが「出エジプト記」です。

ここの虐げられた人々を逃がすのです。誰が? ゴレンがです。だからゴレンがモーセです。

 

wikiによると、モーセは人も殺しているし、酷いこともしたようです。

だからゴレンも人を殺すし、棒で頭をかち割ったりしてましたね。あれ死んでますよね? だからキリストで無いのは間違いがない。だからモーセでしょう。

モーセは約束の地に入る事を許るされず、その手前で死に絶えてます。だからゴレンも少し手前で世を去ったのです。

 

ハルポクラテスの母がイシスです。

そしてイシスは、マリアと同じ様な信仰のされ方だったようです。

だからマリア象を作るのにイシスが使われた為、イシスとマリアは同一性があると言われているようです。

イシスの子供がハルポクラテスでありホルスなので、マリアの子供キリストとホルスに同一性があると言われてるようです。

 

映画で子供がハルポクラテスなら、ミハルがイシスです。

そしてハルポクラテスでありホルスである子供が、キリストでしょう。

 

出エジプト記」でモーセはファラオから「エジプトからユダヤ人を連れて行くこと」を許諾させます。

この時のファラオが、ラムセス二世の子供か? と言われているようです。

だからラムセス二世が死んだ後で、エジプトから出れる。

だから映画でその名の犬が死んだから、施設から出れるのでしょう。

 

イシスとアリアに同一性があるように、エジプトはイスラエルの隣くらいなので、色々と影響があります。

だからキリスト教ユダヤ教の元に、エジプトの宗教が使われている形跡があります。

つまりイシスがイスラエルに行き(情報として)そこでマリアになった、とも取れるのです(象徴的に)。

映画の中で、虐げられているこの施設がエジプトだとすると、そこから出るとイスラエルに行け、そしてキリスト教に変われる。

イスラエルに行けばイシスがマリアになる。

ならホルスが行けばキリストになるのです。

だから映画の子供がこの施設を出たあかつきには、キリストになれるのです。

そしてこの子が大人になった時に、皆を導く救世主になるのでしょう。

 

さて、おまけとしてパンナコッタが出てきます。

たぶんですが、ダジャレでしょう。

パンナコッタにはラム酒がよく使われるようです。

ラムとは子羊の肉の事ですが、もちろんラム酒のラムは違う意味で、音が似てるだけです。だからダジャレです。

羊は、ユダヤ教で生贄として使われます。だから神に捧げるのです。子供が神だからパンナコッタをささげたのでしょう。

もう一つは、子羊とはキリスト教で、教徒もキリスト自身も迷える子羊ですね。だからこれも「食べたのは同一化される」と言う映画上の言葉から、食べた子供がキリスト自身だ、と言うヒントでしょう。

 

暗喩はこういう事だと思いますが、まあ分からなくても物語は分かるので、知らなくても良いものでしょうね。

分からないと何やってるか分からない暗喩こそ、探し求める物だと、私は思っているのです。

 

さて映画のもっと大事なのは、もっと分かりやすい所、階層社会を模している所ですね。

これは見事ですが、この辺は分かりやすいのと、他のサイトでも書いてあるので、私が書く事もないですね。

ただ、とても良く出来てました。

よく出来てたし、大事だし、この辺の社会問題や人間心理が、私の得意分野な気もするのですが、やはり書く必要もないので止めときます(長くなるしね)。

 

映画の作り自体の、最後盛り上がりに欠ける所以外は、とても練られてましたね。

途中に入る、食べ物を作っている人達の映像が、とても良かったです。

施設内との差を見せ、不条理さを演出してました。

 

それに外の世界がどうなってるのか? が見えていいのです。

外で、金持ちが見て笑っているのでもない。ゲームで誰が残るのかを賭けているのでもない。誰も見てすらいないのです。

そして外の世界では、作っている人達は真剣であり、楽でもない。

唯一の偉そうな人だって、ただ真面目に作っているだけです。

この辺がリアルに見えます。

虐げられた世界の外だって楽でもないし、悪人でもないし、真剣なのが、今の世界のリアルなのです。

 

でも、この映ってない所では、楽をしている金持ちがいるのではないのか? と思った方へ。まあそうでしょう。

しかし彼らは、この施設など「知りもしない」と言う事です。

昔から漫画だと金持ちは「貧しい貧民ども、せくせく働けばいい!」と罵ったりしますが、本当は違います。

金持ちにとって、貧乏人は「蟻(アリ)」なのです。

蟻を道端で見付け「せくせく働けばいい!」と罵らないでしょ? どうでもいいから気にもしないものです。

本当の金持ちとは、蟻が、死のうが、幸せになろうが、蟻の世界で英雄になろうが、どうでもいいのです。

ただ、家の中で蟻がいたら、本気で駆除するだけです。

だから、この映画での外の世界の描き方が、とても良いと思いました。

 

台が浮いていたり、どうもトイレが見付からなかったり、髪いつ誰が切ってるの? とかツッコミどころが多いのだけど、これはわざといい加減にしてるのでしょう。

SF感を出すためか? 世界は舞台装置であり、細かな事はどうでも良いことを描いているのか? 分かりませんが、この細かな所を切るほうが正解でしょう。

リアルさを捨てている事を見せる事で、客を納得させてしまうのです。上手いですね。

 

グロい内容も、どうかと思いますが、これでリアルな不条理さが描けるので、これはこれで正解でしょう。

 

とにかく、最後以外はよく出来てましたね。

最後は、宗教じみてきてどうかと思いますが、最後に残るのは気持ちの持ち方、と言う意味ではあってるのかも知れません。

幻を信じたほうが幸せか? 不幸せか? ドンキホーテを読んで考えてみましょう、と言う映画だった気もするのです。