号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

精神的な損得

テレビを見なくなって久しいのですが、「タイパ」という言葉が流行っているようです。

まあ、ただの流行り言葉なので、まともに議論するのもなんなのですが、ネットでもチョロチョロ出てくる言葉なので、私の考えを言おうと思った次第です。

 

「タイパ」とは「タイムパフォーマンス」の事ですね。

コスパ」事「コストパフォーマン」をもじって出来た言葉らしいです。

コスパが良いとは、「掛けたお金に対する、得られる物」が大きいのもは「パフォーマンスがいい」という事です。

なので、タイパが良いとは、「掛けた時間に対する、得られる物」が大きい物は「パフォーマンスがいい」という事です。

 

問題はこの「得られる物」がなんなのか? という所です。

獲られる物とは、別に物理的なものだけではなく、精神的なものも含まれる所を注意するべきです。

そもそも「物理的に得られる物」だって、最後は「精神的に得られる物」の為に必要な物なので、「精神的に得られる物」を気にするべきなのは基本になります。

例えば「お金を得た」から「精神的にお金が増えたのが嬉しい」となるか、「お金で買えたものから得られる快楽」がほしいのだから「精神的なものが欲しい為の必要な中間段階の物が、物理的な物(お金等)」という関係性になるのです。

 

ネットで東浩紀さんが「タイパを気にするなら死んだほうが良い」と言ってました。

他にも成田悠輔さんも「コスパを気にするなら死んだほうが良い」と言ってました。

「死んだ方が、自分にとって得られるのもが大きい」とは普通思わないので、間違っています。

他人から見たコスパなどで言えば「その他人は死んだほうが、自分にとって効率が良い」という事もあるだろうけど、「自分にとっての得られる物」なので、間違っているのです。

多分この二人は「世界にとって、その一人が生きている意味など無いのだから、世界的に意味のない人生をエンジョイするのが、個人にとっての人生であり、意味のない事を切り捨てるのなら、そもそも何も残らない」と言いたいのかと思います。

 

でもコスパやタイパの問題はそこではなく「得るものが大きい」と思っていることなのに、実際は「失っているものも大きい」という所です。

コスパとタイパ自体は間違ってはいないでしょう。

「無駄なものを、正確にはぶけているのか?」が大事だと言うことです。

 

まずコスパから話します。

東さんが言ってたように「(人は物を買って何かを得る)時に、その(物を得る)だけで喜んでいるのではない」という事です。

何を買おう? とか悩んでいた時間や、買いに行く時間、そこから荷物を抱えて帰ってくる時間、さえもエンジョイしてるのが人なのです。

それに無駄だと思えるもの「本の紙で出来た本体」や「CDの箱や歌詞カード」も、一見無駄に見えて、実は「人に何かを与えている物だった」ということです。

そもそも包装用紙を凝ったりするのだから、無駄なものな訳がないのです。無駄なものだったら、どんな包装用紙でもいいでしょ? 誕生日のリボンは必要でしょ?(私はいらないけど)

 

これは「精神的な影響を考えずに、損得を考えると、間違える」と言う、当たり前な予測が出来てない事が、原因です。

例えば、都心部などではアスファルトやコンクリートで覆われています。

しかし木を植えます。邪魔だから切り取った筈の木を、あらためて植え直しているのです。

都心部の少数の木なんて、ほぼ物理的な利益はないです。

その管理などで余分に金が係るだけです。

しかし精神的に必要なのが、都心部の木々なのです。

こんな事は、もう何十年も前から皆気がついています。

なのにその存在理由などを考えてこないから、また間違えているのです。

余分に金がかかる不必要だと思われる物に、精神的な恩恵があるという当たり前な考えが及ばないのが問題なのでしょう。

 

さて、その他にも一見コスパが良いように見える時もあります。

隣の街のスーパーが安いと分かり、自転車で往復30分よけいに時間を掛けて買いに行く、などをやったりします。

それに加え、隣の街のスーパーのチラシを見て考える時間も含めたら、一時間余計に時間が係ったりします。

それで500円安く買えたりしたとしても、「ならバイトしろよ」と思うでしょ? 自給500円って事はないからです(無論細かく言えば色々事情があるのは分かりますが、無駄な時もあるという事です)。

 

他にも、なにか買う時に、少数入ったものより、多く入ったものの方が安いです。コスパは良い。

しかし、そんなにいるのか? というのがある。食べものなら腐って食えない時がある。

いや、無理すれば食えるけど「無理して食べてるので、嬉しくない」と言う時があります。

そんなに頻繁に使うものではないのに多く買い、場所を取り邪魔な時があります(ちなみに場所を取るとは、その物のために家賃を払っているという事です。買った家でもです。その場所がいらないのならもっと小さな家でも良かったかも知れないのにです)。

多く買い、結局使わない時がある。スパナとかインクとか電池とか電球とか。つまり未来に使うものほど、結局使わないというリスクがあるのです。

などで、コスパが良いと思い多く買ったけど、結局使わずコスパが良くない時がある。

もしくは食べ物のように、精神的なコスパが良くない時もあるのです。そんなに食べたくないのに、腐らないように食べなければならない時や、その材料をどう使おう? と重荷になる時です。

 

まとめると、コスパが良いと思うけど、トータル的には良くない時がある。

物理的に考えると、買ったけど、結局使わない時や、その時間バイトでもしたほうが良い時です。

そして精神的にもそうです。その存在が重荷になる時です。隣のスーパーのほうが安いけど雨だ、どうしようか? と思うのが重荷な時がある。

 

これは良い方にも考えられます。

隣のスーパーで買うのは、実はコスパが良いのでは無いのだけど、ちょっとでも安く買うのが趣味になって、喜びになったのなら、それでもいいのです。

無駄な備蓄品で家がいっぱいになっても、その人にとってそれで安心するのなら、それでもかまわない(その個人にとっては、です。家族が隣人は困るかも知れないのは注意です)。

 

つまり「物理的にも精神的にも、コスパというのは簡単には測れない問題だ」と言う事なので、注意です。

 

さて「タイパ」の方です。

これはコスパと、考え方はほぼ同じです。

「物理的と精神的は、別々に損得を考える必要がある」と言うことです。

その余分だと思える、何かを待ってる時間などが、実は人生に大事だと言う時があるので注意だ、と言う事です。

 

ただ、無駄な時間も確かにあるので、タイパを考えること自体は間違ってない。

買い物に30分電車に乗って行くのは、実はいいかも知れないが、2時間掛けてくというのなら、それはほとんどの人にとって無駄でしょう。

 

 

さて、タイパについての、細かな事を書きます。

 

井筒監督が「映画を二倍速で見たら何も得られない」と言ってました。まあ普通はそうでしょう。

ただ、本当に結果だけを知りたい人も中にはいるので、まるっきり全ての人にとって無駄ではないけど、多くの人には無駄な時間を増やすだけですね。

あと「そもそも、二倍速でみたくなるような映画を作っている自体が問題」と言うのもあります。

ダラダラ長くて、見てられない映画だって多いですからね。

作り手にとって、今の時代は、厳しく試される時代になった、と言うことでもあるのです。

 

 

人にとっての損得を考えるのに、助けになる事だと思うのが「人は、ほぼ裸で裸足で野原を駆け巡っている時代から、進化はしていない」と言う事実です。

動物としてのストレスは「死の予感」です。逆に快楽とは「生の予感」です。

「人は、ほぼ動物としての時に得ていた要素を、今でも持っている」という事です。

人が遺伝的に出来上がった昔の世界は、今の時代とは違いすぎので、人は、今の世界の状態に適合できるようには出来てないかも知れないのは、頭に入れておきましょう。

昔々は、ただ焚き火をして何時間も眺めていたかも知れず、それが心地よい時間だったかもしれない、と理解しておきましょう。

 

と、ここで終われば綺麗だろうけど、真実とは難しい物です。

例えば、人は甘い物や油が大好きです。

だからを沢山食べ過ぎれば糖尿になったり痛風になったりします。

これは沢山求めても、得られない時代に得た本能です。

だから抑えなければなりません。

 

だから、ほぼ裸の時から人は進化してない、と言っても、今ほぼ裸のほうが長生きできるのか? と言えば違うでしょう。服は着たほうが何かと良い事でしょう。

 

つまり、その昔の時代に合わせた進化で止まっているとしても、その時代に戻そう、と言う事では無いことは頭に入れておきましょう。

だから、私はさっき「損得を考えるのに助けになる」と言う言い方をしたのです。

あくまで「助けになる」のであって、昔にもどれ、と言う事ではないのです。

 

 

まとめです。

個人にとって「精神的な損得」が大事なのです。

「何が精神的に得なのかを、よく考えてみる事が大事だ」と言う話でした。