「親ガチャ」と言う言葉があります。
「親が誰かという運で、人生が大きく変わる」と言うことを言いたいようです。
ただの流行り言葉であり、すぐ消えるだろうと思ってたので、無視してました。
しかし、意外としつこいく残ってるので、私の考えを書こうと思った次第です。
まず問です。
親ガチャとはどういう事か?
親ガチャの問題点とは?
親ガチャをどうすればいいのか? 何が出来るのか?
考えていますか?
まず「親ガチャ」などという言い方をしている子供たち、こんな言い方をする人達は、そもそも大した事では無いのです。
切実な人にとったら、こんな冗談半分な言い方はしない。
だから、そもそもはどうでもいい戯言からの言葉です。
戯言だからこそ重くなく、各々が好き勝手話していて、だからこそ流行ったとも言えます。
重い内容なら、あまり多くの人が声高には話さないからです。
それに元々は大した事ではないのだけど、この言葉が流行ったおかげで、本当に切実な人にもスポットが当たったりするので、この言葉から出てくる人すべてにとって軽い問題とも限らない、と言う事は言っておきます。
別に親だけではなく、住んでる国や、近所の人や、友達や、兄弟も運が大きく係わってきます。
交通事故や病気も運が大きく係わってきます。
なのに「親」が誰かという「運」をピックアップする時点で、基本は「子供の戯言」なのですよ。
子供が騒いでいるのが「親」ガチャなのです。
この子供の戯言を、面白そうだと世間に広めるマスコミ達の方が心配です。
これが「マスコミの視聴を増やす戯言」だと言わない世間も心配です。
もちろんマスコミ自体は分かっていてやっていますし「このくらいかまわないだろう」と思ってやっているのも分かります。
マスコミだって、酷いことをやっている訳でもないし、考えてもいるだろうって事です。
しかしこの様な問題は、世間には「社会問題と繋がっている言葉」だと思われていきます。
特に言葉が流行っていくと、無視できないくらいには影響力が出始め、認識されていくのです。
だから戯言発信だとしても、それを最後には「まとめ上げる人」が必要です。
これらの問題を子供たちや世間に、説明出来る世の中や大人達でなければならないのですが、相変わらずいないように見えます。
何か難しい事を言っている人は多いけど、この様な「世間一般に伝わって、流行っている言葉」を説明しない時点で、どうかと思います。
つまり、本当の哲学者など、この国にはいないのだろうと思うのです。
「親ガチャ」自体の話に戻します。
親だけではなく、全てが運です。
運を無視するのが、この国の特徴です(他の国でもでしょうけど)。
なぜかと言うと、成功者が国や社会を仕切っているからです。
成功者は「自分が運で成功した」などと思いたくないのです。だから認めないし、変えようとはしなし。
「運でなく、実力や努力で成功したと言うのなら、金銭的な差があってもいいだろう?」と言う理屈です。
運が大きいと認めることは、成功者のアイデンティティの問題にもなるし、多くのお金をもらっている事も問題になるし、大して働かない事にもかかってきます。
だから成功者は決して運が大きいなどとは認められないのです。
とは言え、運であろうがなんだろうが、能力に差があるというのなら、そこには間違いがない「差」があるという事なのだから、それは認めるべきです。
そして差の分だけは、区別されるべきです。
つまり能力がある分だけ、多く金を稼げても、それは普通だと言うことです。
では何処が問題か?
一つは、前にここで言ったように「差が大きい」のが問題です。
差はあるべきだが、そこまでの差が必要かは、議論するべきです。
一生懸命働いたのに、なぜワーキングプアとお金持ちで、百倍近くの差があるのでしょう?
それは「必要がない差」なのです。
もう一つが「一度成功すると、逃げ切れる」のが問題です。
お金持ちが、さらなるお金持ちになれるのが、今のこの世の中です。
能力があり、成功しても、次の年からはまたゼロから試されるべきでしょ?
大金持ちになれば、次の年に何もしなくても金が転がり込んできます。
それが間違いだと思わないのが、間違いです。
スポーツ選手の貰えるお金は、大体は年単位で試されます。
年をまたぎ、次の年にはゼロになるときだってある事でしょう(成功した年の次の年に、急にゼロになることはあまりないのは知っていますが、数年でゼロはあります)。
これが本当の実力主義です。
スポーツ選手以外も、世の中が本当の実力主義だというのなら、年単位で試されるべきでしょう。
(スポーツ選手の収入はゼロになるけど、金持ちなので、金持ちとしてやっていけると言うのはありますが)
(年単位で試せと言っても、ではどうすればいいのか? は難しいです。ただこの事実を認識しておいて是正されるべきだと言うことです)
そして「親ガチャ」としての問題点です。
日本は、全ての子供を腹をすかさないでいられる国力があります。
全ての子供を勉強をさせれるし、歯医者にも行かせられるし、寒くもない部屋にいさせられます。
なのに、そうなってないのが問題です。
国力がある日本は、親ガチャの問題点をもっと是正できるのに、無視しているのが問題なのです。
日本という国は「子供は親の持ち物」だと思っているようです。
なかなか国として積極的にやろうとはしません。
何度も子供を見殺しにしている国です。
虐待やいじめで死んだ子供のニュースが出るたびに、なんとか出来たのじゃないのか? と言われるが、何事もなく過ぎていく国です。
もちろん、たぶん、段々良くなって来てるのでしょうけど、それでも何度も何度も子供が虐待で殺されてますね。
刺して一発で殺したら刑が重いのに、時間を掛けて殺したら刑が軽いのがこの国です。犯罪人に優しい国ですね。仏のような人か、もしくは犯罪人が刑を決めているのでしょうね。
怪しいと通報が来たら、役人が出ていって調べて、子供を取り上げるべきでしょう。
それが出来る国力があるのが日本です。
しないのは日本の怠慢であり、見殺しです。
これは、今現在の担当の役人への苦言ではないです。
人が足りないなら増やすべきだし、調べる権利がないなら法律を変えるべきです。
それは出来ることなのに、しないのは、わざとだと言うことであり、だから見殺しだと言ってるのです。
誰が見殺したか? ですがこれも議員だけではなく、国民だと言うことです。それに国民とは私も含まれます。だから他人事ではなく、他人を攻めているとは違うとは、言っておきます。
この感覚は、何処からきたのだろう? と思うことがあります。
段々減ってきてるでしょうけど、日本は未だに「家単位」で数えますね。
日本の感覚は、家が最小単位であり、個人でなく家単位での問題であり、家単位の成功、失敗なのでしょう。
だから家内の事は知らんぷりです。自分でなんとかしろ、という事です。
家の子供が死んだのなら、それは「家の失敗」であり、だから家でなんとかしろ、という事です。
自分の家の子供が死んだのなら、その家が困るのだから、日本は知らないよ、という感覚なのでしょう。
いじめもそうで「その家のやり方の失敗」だとでも思っているのでしょう。
だから「関与しない」というのが日本の考えなのですね。
まだ人を一人一人を個人だと、とらえることが出来ない愚かな国です。
いったい、いつまで戦後脳なのでしょうね?
戦後の家族単位が最小単位だという考え方から、まだ脱却できてないのがこの国であり、政治家なのでしょうし、政治家を支えている人達なのでしょう。
さて、政治家は親から代々の人が多いですね。
彼らは、親がいたから政治家になれたのです。
しかし彼らは「親が優れていたのは、自分が優れていたも同然」だと思いたい。
だから「家族単位」が大事なのです。
家族の成功は、自分の成功になるのだからです。
個人別々だと言うのなら「お前は親が優れていて、運が良かっただけだろ」と思われてしまいます。
だから家族単位からいつまで経っても抜けれないのです。
結果として、家単位の成功者は、家単位で失敗者を無視します。
家単位を否定できないからこそ、家など関係なく、一人の人として死んでいく子供を無視します。
もう一度、問います。
親ガチャとはどういう事か?
親ガチャの問題点とは?
親ガチャをどうすればいいのか? 何が出来るのか?
考えていますか?
流行り言葉の問題点を説明でいる人が見当たらないので、まだまだこの国は、今後もガチャガチャを続けることでしょう。
失敗したら死ぬガチャガチャを、です。