シンギュラリティに付いて、思った事を書きます。
個人の感想です。
youtubeを見てたら、落合陽一さんが「再来年にシンギュラリティが来る」と言うような事を言ってました。
始めに言葉の解釈から言いますが、ちょっと面倒くさく聞こえるでしょうけど、勘弁です。
まずは、シンギュラリティとは、何か? が大事です。
これは、ただの言葉の話なのだけど、言葉がはっきりしてないと、何を言ってるか分からないから、言葉を定義する必要があります。
シンギュラリティとは「特異点」の英語ですね。
他の意味もあるし、そっちのほうが一般的なようだけど、これを単語として今言う時は、特異点という意味で使うのでしょう。
ただ現時点では「技術的特異点」と言う意味で使っている時がほとんどだと思います。
で、もっと狭義ではレイ・カーツワイルが言ったと言う「コンピューターが、人間の知能を大幅に凌駕する地点」という意味です。
つまりただの「特異点」と「技術的特異点」と「コンピューターが人間を超える地点」の三通りのとらえ方が、一般的にあります。
なので、多くの人の意見を聞くと、この3つのどれという意味で使っているのかが、曖昧であり、分かりづらくなっています。
少なくとも「単純な意味での技術的特異点」と「コンピューターが人を超える地点」のどちらかは言葉を変えて分けて言うべきだと思っています。
例えば「自動運転」ですが、これは「技術的特異点」だと思います。
しかし自動運転が出来たからと言って「コンピューターが人を超えた地点」だとは思わないことでしょう。少なくともカーツワイルが言った事とは違うと思います。
自動運転だけでも、世界が変わります。タクシー運転手もトレック運転手も、ほぼいなくなります。仕事がなくなる人が多く出ます。
タクシー代がかなり安くなります。
一軒家で上手くやれれば、スーパーとかの自動配達も可能になります。
車を使う人が多くなります。運転がいらないからです。
会社に行くにも、車に乗り、ご飯を食べたりテレビを見たりしている内に会社に付く事でしょうし、車で寝ててもいいのです。
だから世界が変わり、シンギュラリティだと思うことでしょう。
でも自動運転は人は超えてません。
人を超える地点も大事だし、自動運転の地点も大事です。
だから2つを分けた言葉としたほうが良いし、そうじゃないと何言ってるか分かりません。
落合さんの言った再来年にシンギュラリティが来る、と言うのも、何を表しているのか分からないです。
多分ですが、再来年になっても、世界はあまり変わらないことでしょう。特に日本では。
さて「2045年頃に、シンギュラリティが来るのじゃあ無いのか?」という説がありますし、信じている人がいます。
10年を超える未来の、まだ発明されてない事に対する事を、予測するなんて馬鹿げてますね。だから信じてはダメです。
その発明されている狭い世界の専門家は、専門分野に対して「一年後」や「3年後」には「無理だ」と言うのは分かるはずです。
でも10年後は分からないでしょう。少なくとも「10年後に開発できる」と分かるのは専門家でも無理な筈です。なぜならまだ出来てないのだから、分かりようがないのです。
言う人がいるだろういから言っときますが、例えば「新型戦闘機」なら10年後に出来るのは分かります。ただ性能が分からないだけです。
パソコンが今より高性能になるのも分かるが、10年後にどの程度かは、分からないでしょう。地震予測みたいなもので、漠然となら分かる程度です。
ただ、分からないけど「シンギュラリティが、いつかは来る」と言うのは、ほとんどの人の意見だと思いますので、信じようと思います。
それが再来年であり、しかも急速に人の仕事を奪っていくことも、無くもないでしょうけど、世界の見え方が大きく変わるのは、まだ時間がかかりそうです。
後からやると乗り遅れるので、なるべく早く人の仕事を奪うようなAIを開発して実践するべきだと思いますが、日本が一番苦手のような事ですね。だから出遅れて、大事な所は、他国に取られてしまうことでしょう。
落合さんは「ホワイトカラーの仕事がなくなる」みたいな事を言ってたと思います。そうでしょう。
そもそも堀江さんだって、既に今でも「もう人がいらない」と言ってたと思います。
だから尚更、その時が来たら、ホワイトカラーの仕事は、急速になくなって行くことでしょう。
特に、ただ知っているだけの学者とかは全滅するはずです。いい加減な事しか言えない学者や専門家は、早くいなくなって欲しいです。
日本においての、今までは大事だった「ホワイトカラーの仕事」とは、要するに「詰め込み教育」でやしなった能力のことです。
つまり、今の「いい大学に入る」と言う事であります。大学入試試験がコンピューターのほうが解けるようになるのだから「大学入試試験に通ったのがエリート」という状態もなくなります。
今の会社のエリートは、いい大学に入った人達です。大手の社長とか、皆そうでしょう。
それは意味がないと、やっと認識される世の中になるのです。
東芝だって山一證券だって、エリート達で出来上がってたはずなのに、あの体たらくです。そんな物は意味がないと分かってなかった人達の末路です。
では上手く言っている大手はどうなのか? と言うと、彼らは「いい大学に入った人の中から、さらに優れた人を集め、教育出来た」からこそ上手くいってるのです。
実は、この「いい大学入った能力」と「その他の能力」があり「その他の能力」の方が、今や強い要素なのに、それを認められない日本の会社の問題点です。
もう一度言うと、上手く言ってる大手は「その他の能力」さえも優れている人を集めているか、教育できている、という事です。
じゃあ、結局どっちも必要なのだから「いい大学に入った」人の中から「その他の能力」も優れた人を選べばいい、という人もいることでしょう。
しかし既に「いい大学に入った能力」が「あまり」必要では無いということですし、今後はさらに必要がなくなるという事です。
「必要もない事で、選ぶ種類を絞る」と言うのは、ただの馬鹿ですね。それをやる人は、意味もなく可能性を無くす人であり、今後の経営者としたら無能です。
なので落合さんは「馬鹿を馬鹿にするのは2000年ごろまで」と言ってました。
まあそうでしょうけど、この「馬鹿」が何を意味するのかが、まだしばらくは大事でしょう。
馬鹿とは一般的に「詰め込み教育が優れてない人」の事です。つまり「いい大学には入れない人」の事です。
しかし馬鹿とはそれだけではないですね。いい大学卒業でいい会社に入ったのに、駅でスカートの中を盗撮して捕まった人とかいるようです。この人、馬鹿ですよね? でも大学も会社もいい所なのですよ。
他にも学歴はあるのに、新興宗教に入り、何が大事か分からず、サリンでテロを起こした人達もいます。これも学校教育とはべつの知識です。
などの「今の日本の詰め込み教育型」が出来ない「馬鹿」を馬鹿にするのは、確かにもう終わりそうです。
しかし、その他の馬鹿はまだ残るのです。
そしてその他の馬鹿でない人が、必要な時代になるという事です。
今とは、価値観が大きく違ってくる時代になるのです。
最近私は「優れている人」として世に出ている人の多くは「偏った人」なのが分かってきました。こんなに多いのか、と思ったのです。
多くは優れているのではなく、偏っているだけなのです。
その偏って優れている人だと、今後、今ほど上手くいかなくなるので、注意だと言う事です。
アスペルガー症候群とかサイコパスとか言われる人に、多いです。
yahooニュースで「ギフテッド」の子供の事を書いたのがありました。
ギフテッドという、この言い方、ちょっと笑いそうになりましたが、笑い事ではないですね。
彼らは「偏った子供」である可能性が高いことでしょう。だから「神から与えられた子供たち」ではなく「偏って与えられた子供たち」だと思ったほうがいいと思います。
じゃないとその子供たちが不幸になることでしょう。
何が優れていて、何が劣っているか分からせないと、今後生きるのが難しくなるからです。
でも「偏った高い能力」ではなく「劣ったところがなく、優れているだけの人もいるのじゃないのか?」と思う人もいることでしょう。
では、誰ですか? 私には見付からない。
もしかしたら、世界の何処かにいるかも知れないけど、見付からないのは「いたとしても、あまりいない」からです。優れているのだから、目立つ所に出てくる可能性が高いのに、見付からないからです。
例えば、100メートル走で一番早くても、9秒の真ん中くらいでしょ?
世界中に一人くらい、8秒台で走る人が出たっていいじゃないですか?
しかしいない。
つまり人の作りとして無理なのか? もしくは数十億人でもあらわれなくらい、少ない確率なのか? です。
つまり9秒台で走れる人は、世界で言えば多いのに、そこから一割優れた天才も、世の中にはいないと言うことです。
頭もそうで、限界があるのでしょう。優れているだけの人が見付からないのは、無理なのか? 見付からないくらい、数がとても少ないからでしょう。
なぜこれを、わざわざ言うのか? ですが、頭が良さそうなのに「人の心がわからない」人や「世間の心がわからない」人が、多く見つかるからです。
その人達は、今後は厳しくなる。その人達は感覚が鈍いので、頭で感覚を補って行くことが大事になっていくのです。
実はこれは今でもそうなのですが、なまじ人の心を無視しても、今は上手く行くので、それを認めない人が多いのです。
でも今後は認めて、対処していかないと、もっと上手くいかなくなるので注意です。
それとは別に、今までは世に埋もれていた「ただの人に好かれるいい人」の価値が上がっていくということです。
さらに、ただの「世の中の常識がよく分かっている」だけの「上手く、ほそぼそと生きている人」の価値も上がっていくと言うことです。
落合さんも「感じがいい人で、いいんじゃないのか」みたいな事を言ってましたが、良い所か、それが大事な要素になっていくという事です。
なのでシンギュラリティは、価値観や、世界が変わるという事です。
「シンギュラリティが来ると仕事がなくなる」と心配する人がいます。意味不明です。
もちろん、移行期の一時期はそんな事もあることでしょう。
でもしまいに落ち着くのだから、大丈夫です。
やらなくていい事が増えるのだから、人類には特しか無い。
ただ税制とか政治を弄くる必要は、もちろんあります。
働かなくても、生きていけるようにしないといけないからです。
これも含め、最近思っている事を書きます。
やはり、ベーシックインカムがいいでしょう。
生きていける、最低保証です。
細かなことだと、お金でなくてもいい。食べ物や家賃や光熱費限定でもいいと思いますが、大事なのは「ストレス無く、不自由なく、生きていける」という事です。
ちなみに、別の国は今は無視して考えるのは、勘弁です。
まずは日本が上手く生き、それから世界に普及させるのが日本人としたら正解でしょう。
日本は、国として、食べ物も住む所も、全員分、無理しなくても提供できる国力があります。
昔は三種の神器と言われた家電「テレビ、洗濯機、冷蔵庫」が誰でも手に入ります。高校生でもバイトで手に入ります。
つまり国民それぞれが三種の神器を持っている国です。
昔に比べ、今の日本は「神話の時代」なのです。
あとは分配するだけです。
ストレス無く、不安もなく、生きていければいいじゃないですか?
「賃金格差が問題」とかよく言います。違います。
格差ではなく「国民全てが、ストレス無く、不安もなく、生きていける」のが出来てないのが問題なのです。
国民全てが、ストレス無く不安もない状態であれば、その中で少数が「とてもお金持ち」でいてもいいじゃないですか? 「へーすごいねえ」と金持ちを見ていれば、いいじゃないですか?
だからまず、ベーシックインカムで、最低保証をしてしまうのです。
最低保証が出来てしまえば、そこからの残りを、みなで競って奪い合ってもいいのです。
「そうは言っても、国として上手く行くのか?」と思う人もいるでしょう。
だからこそAIが普及して、やる仕事をなくして行くことが大事なのです。
仕事が奪われる事は「しなくても今と同じに国が回る」と言うことだからです。
最低保証をしてしまえば、会社が社員を守る必要も無いのです。
首にされても、生きていけるのだからです。
いらない社員を首にして初めて、本当の競争が生まれることでしょう。
「暇になる人が出てくる」と思う人もいるでしょう。
何でもやればいい。サッカーでも漫画家を目指すにも歌手でも映画製作でも、年がいくつからでも、やればいい。失敗のマイナスがないのだからです。
それをサポートする人も出てきます。
今は仕事をしないと生きていけないから、サポートをする人はお金を取ります。
しかしサポートする人も、仕事を「あまり」やる必要の無いのなら別です。
ただの趣味としてサポートをする人が出てきます。
山登りや、プラモ作りや、サッカー観戦や、かくれんぼを、サポートする人が出てくるでしょう。
「みんなが暇」なら、意外と上手く行くのです。
という訳で「シンギュラリティ」後は、別に暗黒世界ではないのです。
ただ、AIを使ったテロが怖い位です。これはこれで注意は必要でしょう。