号漫浪正大

輪るピングドラム ~物語を見直す

犯罪者にしたのはアメリカ

映画「ランボー」、感想です。

 

思い出すと、良く出来てたのじゃないのかな? とずっと思っていたランボーを、やっと見直しました。

 

見直すと、大枠はやはり良く出来てます。

しかし、シナリオの細かな所が、練れてなく残念です。

それに、アクションが今のレベルだとチャッチイですね。

 

ずっと言ってるけど、ランボーが戦っていたものは何か?

それは「アメリカ」です。

それを分かって作っていたのか? が問題だと思っていたのですが、実際はどうでしょうか?

分かっているが、今一演出が下手なのか?

そもそも分かって無かったのか?

 

ランボーの敵になる警官が、始め警察署から出て来ます。

この時、署の玄関の横にアメリカの旗が飾ってあります。実際のは知らないけど、これは署としたら普通なのかも知れません。

ただ、それをバックにしてメインの敵の警官があらわれる所が、象徴になっています。

つまりこの警官は、アメリカの象徴だと言う事です。

 

そしてこの警官はランボーに会うのですが、面白いのが、ランボーも服にアメリカの旗を付けている所です。つまりランボーもまた、アメリカの象徴だと言う事です。

一つのアメリカの象徴が、もう一つのアメリカの象徴にふっかけて、誰も得のしない不毛な戦いが始まる、と言う話です。

こう見ると良く出来てましたね。

 

この警官、思い出だともっと悪かった気がしましたが、思ったより悪くはないですね。

始めのランボーを追い出す行為だって、そこまで理不尽ではない。なんとなくやりたい事が理解も出来る行為です。

他の警官もそうなのだが、おかしくない奴も混ざっていたりして、中途半端とも言えます。これは何か?

どうもこの映画の頃は、警官を悪く言うのが良くない風潮だったようですね。他の俳優が警官を殺す映画には出たくから断ったと、wikiに出てました。

確かにまともな警官もいて、命がけで働いているのに悪く言うのはどうなんだ? とは分かりますが、実際に悪い警官もいた事でしょう。

この頃世間は、ベトナム帰還兵に冷たかったようなので、ベトナム帰還兵よりはましだと言う意味で、警官の方が良い、と言う風潮だったのかもしれません(世間がベトナム帰還兵に冷たかったので、映画ランボーも今一人気が無かったようです)。

と言うわけで、実際に脚本が警官にあまい内容に変わって行ったようです。悪くない警官だとか、警官をランボーは誰も殺さないとかです。

だから、悪役の警官の筈が、今一良い奴に変わり、だから中途半端な物語になったのでしょう。

物語としたら「敵は、より悪く」がもっとうです。そうしないと面白い映画にはならないのが、今の定石です。

 

ではダメか? と言うと、そうでもないですね。これはこれで良いのです。

この警官がアメリカの象徴だと分かっているのなら、そこまで悪くしない方で正解です。

そうする事で、深い暗喩が含まれた、優れた作品になった筈です。本当は、警官や兵士と言う職業には、善悪など無いと言う作品にです。

ただ、たぶん監督がそこまで分かってなく、なんとなくで描いたから、中途半端な作品になったのでしょう。

 

この警官がアメリカの象徴の一つだとするのなら、悪い所と良い所があるのがアメリカだ、と言う事で暗喩が通った筈です。

例えば私なら、大佐に「もう止めろ」と言われた警官に「お前らがよその国で人を殺してる時、おれはこの町を守ってきたんだ! だから俺が守らないでどうする」とたんかを切らせた事でしょう。

そうする事で、この警官が悪く「なさそうに見せる」のです(元はただ怒っていて、自分で殺したいと思っている様にしか見えないのが、残念でした)。

 

「なさそうに見せる」と言う所がキモです。たぶんこの台詞を言えば、納得する客もいる事でしょう。

しかしよく考えたら、これは言いわけで、友を殺された仕返しをしたいからだし、だから自分で殺したいだけだと、分かる人には分かるよう演出しておけば、完璧だっと思います。

つまり警官を「それらしい正義感を出してるが、それは嘘っぱちにも見える」キャラに出来ていれば、それがそのままアメリカの暗喩で通った筈だからです。

「嘘っぱちの正義のアメリカの象徴」に、警官がなると言う事です。

「嘘っぱちの正義の象徴」とはベトナム帰還兵を悪く言う国民の事だし、そもそも正義の名の下でベトナムで戦争した、アメリカの事でもあるからです。

ベトナム帰還兵の中には悪い人もいた事でしょうけど、命令で戦っただけなので、兵士を悪く言うのは良くない。少なくともその個人が悪いかどうか分からないのだから、その個人を悪く言うのは間違ってますね)。

 

それともう一つの意味も通った筈です。

例えこの警官が、本当に正義感で戦いを続けたいと思っていたとしても、それはやる必要がない行為であり「行き過ぎた正義感だ」と言う事です(大差が一度逃がして、町で捕まえろと言った事に対してです、その方が被害が少ないと忠告してたからね)。

それに初めのランボーを町はずれに連れていく事もそうです。これも警官がやりたくなるのも分かる行為ではありますが、これもまた「行き過ぎた正義感」と言う事です。

そして、こう見てもまた、ベトナム帰還兵を叩く国民の暗喩になるし、ベトナム戦争自体の暗喩でも通るのです。

 

さて、もう一つのアメリカの象徴「ランボー」の方です。

彼は理不尽に扱われ、それで戦いを続ける事を決めます。

ただ最後の大佐に会っても止めない所から、ランボーもまた「行き過ぎた行為のアメリカの象徴」だと言う事です。

そしてこっちもまた、ベトナム戦争の暗喩と言う事です。

 

ベトナム戦争を始めたのも、ベトナム戦争を叩くのも、どっちもアメリカであり、それがつぶし合っている映画の暗喩として、ランボーと警官がいたのです。

ですが、今一それが弱かった気がします。

 

暗喩ではなく、物語の中でもランボーベトナムでの恐怖心から暴れ、だから戦いが始まると言う流れでした。

これは分かりやすく、ベトナム戦争の否定でもありますが、悲劇だとも描いてます。

何かの間違いから戦闘が始まった、と言う映画の内容から、これもベトナム戦争に通じる暗喩、の様にも見えますが、そこまで考えていたかな?

 

もう一度まとめると、これらの暗喩やメッセージ性を強く頭に置いて、それを強調させるように演出していれば、もっと名作になった気がします。

 

さて、もっと細かな事です。

なんで「ランボーは凄い奴だ」と大差が言葉で言ってしまうのかな?

言葉と裏腹に、今一ランボーが凄そうには見えない。嘘っぽいですよね。

演出が下手なのか? 一貫性が無いのか? 昔だからこなれて無いのか? は、分かりませんが、すごいというのなら、すごく描くべきです。中途半端でしたね。

 

なら大佐が「あいつは凄い奴だ。例え殺せても何人死ぬか分からんぞ」位のすごさに留めておくべきでしたね。そうしたら嘘っぽくはなくなったのに。

そもそも、大佐の服装も、ランボーの戦っている姿も、どうも今のレベルで言うとコスプレ感が出てますよね?

まだこなれてない時代だったのか? この監督が下手なのか? のどちらかでしょう。

 

ランボーが最後に独白します。

普通は言葉でダラダラ話し、終わらせるのは良くない事です。

しかしランボーは、独白がありになりそうな作りでしたね。

たぶん監督はそこは分かっていたのでしょけど、やはり演出が上手くないのか、中途半端でした。

つまりあの最後を成り立たせるためには、ランボーを極力話さないようにするべきだったのです。

確かに、気にしてあまり話さないようにしてた気もしますが、今一中途半端だったですね。

始めの友達に会いに行く所は話し過ぎです。大佐と無線で話す時も話し過ぎです。

この辺を、極力話さないように気を付けていれば、最後のべらべら話す事が光って来た事でしょう。

「ちゃんと、しゃべれるじゃないか」と思わせ「話せる相手がいなくて、話さなかったのか」となる演出が出来た筈です。

 

最後大佐がランボーに言うセリフも今一です(もしかしたら翻訳が悪いのかもしれないけど)。

私なら、大佐がランボーに「誰と戦っているかよく見ろ」と窓を見せる。そして「あれは何だ?」と警官を見せる。ランボーが「敵だ」と言うと、大佐は「敵ではない! よく見ろ。敵なんてどこにもいない。終わったんだ」と言わせます。

そうする事で、ランボーが戦っていたのが敵ではなく、アメリカだったと通じやすかった気がします。

 

それでランボーが捕まる。

アメリカの為に戦った男を、犯罪者にしてしまったのがアメリカだった」と言う話で終わるのです。

 

今のレベルで作り直したら、もっといい作品になる事でしょう。

しかしスタローンの印象が強すぎるのと、「ベトナムの事でのアメリカ内の事」をやるには、今だと時代遅れなので、皆が見たくは無い事でしょう。

だから作り直さないとは、思います。

ただ、いつの日か、設定をウクライナに変えて、ランボーを撮り直す時代が来るのかもしれませんね。